ノルマンディー歴史紀行

モン・サン・ミッシェル大修道院(3)


歴代ノルマンディー公とモン・サン・ミッシェル



大修道院を保護した歴代ノルマンディー公

 憶良氏がモン・サン・ミッシェルに興味を持ったのは、30年も前に見
たバイユー・タペストリーのコピーに、この大修道院がさりげなく刺繍さ
れていたからである。
 ウィリアム公は、イングランドのハロルド伯を伴って、ノルマンディー
の隣国ブリタニーを攻めた。その遠征の背景にこの島が描かれてい
る。ヴァイキングの子孫である歴代ノルマンディー公にとって、この修
道院は格別の聖地であったことが窺われるからである。

 この機会にノルマンディー公爵家の成立と、モン・サン・ミッシェルと
の関わりを概観しよう。

 ノルマン・ヴァイキングの酋長ロロが配下を率いて北フランスの海岸
を荒らし、セーヌ川を遡ってパリに近づいてきた時、恐怖を感じたのは、
時のフランス王シャルル単純王であった。

 パリ郊外シャルトルの攻防戦で、酋長ロロを撃退したとはいうものの、
その武力は脅威であり、和平の合意が必要であった。
 911年、シャルル単純王は、酋長ロロにノルマンディー(北方のノル
マン人が住む地方)の領有を認め、王の妹姫を与え、フランス王室の
公爵の称号を授与した。もうひとつの条件はキリスト教への帰依であ
った。

 ヴァイキングとして略奪をしている間は、不服従の住民は殺戮すれ
ばよかったが、治世となると農民や商工業者など専従の民の協力が
不可欠である。統治には彼らの信仰するキリスト教への帰依が必要
であった。酋長ロロは賢明であった。躊躇なく信仰を変え、ロロは初代
ノルマンディー公となった。

 ロロとその子孫は、フランス王の意を汲んで、ノルマンディー地方民
の信仰するこの聖地を手厚く保護した。オベール司教が建てた聖堂
はその頃荒れていたからである。

 なかでもロロの孫になる3代ノルマンディー公リチャード1世(無敵公)
は、聖堂の修復だけでなく聖職者の刷新にも取り組んだ。
 966年、リチャード公は不敬虔な高位聖職者たちを追放し、あらた
に厳格敬虔な修行と律法に柔順なベネディクト派の修道僧11名を入
れ修道院が誕生した。
 リチャード1世はウィリアム征服王の曽祖父になる。

 リチャード1世の子リチャード2世は、隣国ブリタニー公の息女ジュデ
ィスと結婚する場所として、両国の国境にあるこの大聖堂を選んだ。
 リチャード公は、この機会に教会、水車、牧場、森などを寄進し、また
両国の諸侯もさまざまな寄進をしたという。このため大修道院の領地
や資産は大幅に増えた。

 ウィリアム公がイングランドを征服する時には、船舶6隻を公に寄贈 
するほど裕福になっていた。
 また征服に際し、聖職者4名を派遣している。
このように、歴代ノルマンディー公とモン・サン・ミッシェルは親密な関
係にあった。

血なまぐさいウィリアム征服王の王子達の争い

 ウィリアム征服王は、1066年のイングランド征服に際し、万一の場
合に備え嫡男ロバート(後のノルマンディー公ロバート2世)をノルマ
ンディーに残していた。

 イングランド征服後、ウィリアム征服王は、イングランド王兼7代ノル
マンディー公となったが、イングランド王やノルマンディー公の地位を
誰に譲るのか、生存中はっきりと明言していなかった。

 嫡男ロバートはフランス王の庇護を受け、父ウィリアムと抗争した。

 ウィリアム公とともにイングランドに赴任していた次男のリチャード王
子は、1075年、ニュー・フォレストの森での狩りの最中変死した。
 三男ウィリアム2世(赤顔のルーフス)がイングランド統治に従って
いた。

 1087年、ウィリアム王が嫡男ロバートとの戦いで落馬し、ルーアン
に没した。直ちに嫡男ロバートは念願の8代ノルマンディー公ロバー
ト2世を継いだ。一方イングランド王には、急遽三男ウィリアム2世)が
就任した。

 実はロバート公は、イングランド王位も狙っていたので、弟の戴冠に
不満であった。
 四男のヘンリーは聡明で碩学として有名あった。彼は銀5000ポンド
を相続し、兄二人の係争の圏外にあった。

 嫡男ロバート公は、金がほしくモン・サン・ミッシェルなどが含まれる
コタンタン半島一帯を末弟ヘンリーに売却した。

 イングランド王位に食指を延ばした嫡男ロバート2世は、イングラン
ドに攻め入り、ウィリアム2世王と戦うが敗戦。コタンタン半島をウィリ
アム2世王に譲る約束をした。

 ところがコタンタン半島は、四男ヘンリー王子に売却しているので、
ノルマンディー公ロバート2世公とイングランド王ウィリアム2世の、長
男・三男連合軍で四男のヘンリー王子を攻めた。
 ヘンリー王子にしてみれば、お金で長兄から買った領地を、力づくで
取り上げられるという理不尽な話であった。

 モン・サン・ミッシェルは大修道院であると同時に、城砦であった。
四男ヘンリー王子は、モン・サン・ミッシェルに篭城し抵抗したが、水が
なくなり、兄ロバートに降参し、一命をとりとめた。



 1096年、ロバート公は、弟のイングランド王ウィリアム2世から、ノ
ルマンディー公爵領を担保に1万マルクを借りて、第一次十字軍に遠
征した。

 ところが、ロバート公が遠征中の1100年、ウィリアム2世はこれま
た狩りの最中に、因縁のニュー・フォレストの森で矢を受け殺された。

 イングランド王位は、無位無官の四男のヘンリーが継承し、ヘンリー
1世となった。

 この知らせに怒ったのが、十字軍で海外にいた長兄のノルマンディ
ー公ロバート2世である。末弟ヘンリーは、モン・サン・ミッシェルで自
分に降参し、臣従を誓っていたではないか。
ノルマンディー公ロバート2世はまたもやイングランド王になる機会を
逸した。

 なんとかイングランド王位も得たいと、末弟ヘンリー王と抗争したが、
敗れ、捕われの身となってウェールズのカーディフ城に送られ、目を
くりぬかれ、1134年獄死した。
 モン・サン・ミッシェルの攻防で、一命を助けてやったのが仇になっ
たと悔やんだことであろう。

 結局、ウィリアム征服王が没した時、領土を貰わなかった四男ヘン
リーが、皮肉にもイングランド王兼ノルマンディー公爵になった。



 しかし、権勢を極めた碩学ヘンリー王(同時に好色でも著名)も、運
命には勝てず、翌1135年11月リオンで狩りの最中に病になり12
月初に没した。

 モン・サン・ミッシェル大修道院は、ベネディクト派の修道院であった
が、ノルマンディー公やイングランド王の欲望渦巻く城砦でもあった。

      

モン・サン・ミッシェル大修道院(4)

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