ノルマンディー歴史紀行

モン・サン・ミッシェル大修道院(4)


百年戦争とモン・サン・ミッシェル



 百年戦争の間、モン・サン・ミッシェルは、その城砦としての重要性か
ら英仏両軍の絶え間ない戦いの渦中にあった。
 この機会に、百年戦争が起きた背景や、英仏両王室の駆け引きや内
紛などを含め、モン・サン・ミッシェルとの関わりを概観しよう。

波乱の王妃イザベル

 英明だったイングランド王エドワード1世に比べ、その長子エドワード
2世は暗愚であった。彼は同年のピエール・ギャグスタンを異常なまで
に偏愛寵愛した。
 息子の将来を案じたエドワード1世はギャグスタンを追放したが、王
の死後、エドワードは再びギャグスタンの追放を解き、貴族それも王室
の爵位コーンウォール公を与えた。

 故エドワード1世は、息子エドワードにフランス王フィリップ4世の王
女イザベルを皇太子妃に婚約していた。対スコットランドの政略結婚
であった。王の死後、1308年初、エドワードは渡仏し、イザベルと結
婚し、イングランドに帰国、エドワード2世として戴冠した。

 しかしエドワード2世はその後もギャグスタンを寵愛し、イザベル王妃
は夫エドワード2世とギャグスタンに嫌悪感を懐いた。

 国内はギャグスタン重用をめぐって貴族が対立していた。紆余曲折
の末、ギャグスタンは捉えられ、1312年処刑された。

 1314年、スコットランド中部、バンノックバーンの戦いに、エドワー
ド2世はロバート・ブルースに惨敗し、国内での発言力を失った。

 1322年、イザベルの兄シャルル5世が即位し、1325年イザベル
は夫の代理で帰国。さらに皇太子エドワード(後のエドワード3世)を
呼び寄せ、王の廃位と王の側近デスペンサー伯の追放を画策した。
 この間、王妃はロンドン塔から脱走したマーチ伯ロジャー・モーティ
マーを愛人としていた。

 1326年、フランス王の支援の下に、イザベル王妃の軍はイングラ
ンドに攻め入り、夫エドワード2世は王妃に降伏した。1327年、議会
は廃位を認め、15歳のエドワード3世が戴冠した。

 同年9月、イザベル王妃と愛人モーティマー伯は、バークレイ城に幽
閉したエドワード2世を惨殺させた。その後二人は政治を壟断し、国内
貴族に不満が鬱積してきた。

 エドワード3世は祖父1世に似て賢王であった。
 1330年、母イザベルの不倫と、政治の専横に怒った18歳のエドワ
ード3世は、母と愛人マーチ伯ロジャー・モーティマーが寝ているところ
を逮捕させ、両名をロンドン塔に投獄。モーティマーを極刑に断罪し、
母を終身幽閉した。

 エドワード2世もギャグスタンを寵愛しすぎたが、イザベル王妃もまた
愛人モーティマーと度が過ぎた愛欲関係に陥ったといえる。

百年戦争の開戦
 
 エドワード3世は母イザベルがフランス王シャルル4世の息女であっ
たから、伯父シャルル5世の後継者として、フランス王位継承権を主張
した。
 
 しかし、フランスはカペー王家から、ヴァロア王家初代のフィリップ6
世に変わっていた。フィリップ6世は、当然のこととしてエドワード3世
のフランス王位継承権を否定した。
 フランスは親英的なカペー王朝から、スコットランドと手を組みイング
ランドに対戦的な国家に変わっていた。
 
 さらに、エドワード3世は母方の郷里、南仏ガステーヌ地方の領主ア
キテーヌ公を兼ねていたが、フィリップ6世は、1337年5月、この地方
の没収を宣言し、侵略した。
 同年11月、イングランド王エドワード3世はフランスに宣戦を布告し
た。いわゆる英仏泥沼の百年戦争の開戦であった。
 
 1346年、ノルマンディーから上陸したイングランド軍は、北上してク
レシーでフランス軍に大打撃を与え大勝した。エドワード3世の息子の
エドワード皇太子は黒い鎧をまとい、この戦いに初陣で活躍し、「黒太
子」(ブラック・プリンス)の勇名を馳せた。
 
 1356年、ポワティエの戦いでは、ブラック・プリンスは3倍ものフラ
ンス軍を破り、時のフランス王ジャン2世を捕虜にしてイングランドに
連行した。
 
 1360年、英仏の和議が成立し、エドワード3世はフランス王位継承
権を放棄する代わりに、ガスコーニュ地方などの領有権を獲得した。
 しかし、イングランドをペストが次々と襲い、人口は激減し、経済力は
衰えフランスの領土は次々と失った。

 1375年、英仏は再び休戦し、エドワード3世の英仏戦争は閉じた。
 1376年、スペインに転戦した国民的人気の黒太子エドワードは病
にかかり王位に就かぬまま、46歳で没した。
 
ヘンリー5世の野望

 15世紀初頭のフランスもイングランドも、国内政治は乱れていた。 
 1413年、王位についたヘンリー5世は、シェークスピアの史劇と実
像は異なるようであるが、有能な王であった。

 フランス国内はアルマニャック派(シャルル6世)とブルゴーニュ派
(ブルゴーニュ公)に分かれて主権を争い、イングランド王ヘンリー5世
に、それぞれが息女との結婚を前提に支援を求めてきた。
 1414年、ヘンリー5世はアルマニャック派(シャルル6世)を選んだ。

 彼は、次の要求をシャルル6世に突きつけた。
(1)フランス王位継承権の承認。
(2)かってイングランド王が領有していたフランス国内の領地の譲渡、
(3)黒太子が捕虜にしたジャン2世の未払身代金相当の持参金

 しかし、あまりに過大な要求に交渉は決裂した。
 1415年、ヘンリー5世は、北フランスへ攻め入り、カレー南のアジャ
ンクールの戦いでフランス軍に壊滅的な勝利をした。その後もシャル
ル6世や、彼を支持する貴族の領地を次々に攻めた。

 1420年4月、シャルル6世はたまりかねてトゥロワで和議を結び、
ヘンリー5世の要求を全面的に受け容れた。フランスにとっては屈辱
的敗北であった。

 1420年6月、トゥロワでヘンリー5世はシャルル6世の息女キャサ
リンと結婚し、翌年帯同帰国、王妃の戴冠式をウェストミンスター寺院
で行った。

 しかしフランスでは皇太子派が占領地で反抗し、ヘンリー5世の弟ク
ラーランス公トマスがノルマンディーで戦死した。王は直ちに渡仏し転
戦したが、赤痢に罹り、1422年8月、35歳の命を落とした。

 ヘンリー5世はキャサリン王妃との間に生まれた幼い皇太子の後事
と、フランスの占領地の統治を、弟ベッドフォード公ジョンに託した。

モン・サン・ミッシェルの攻防

 有能なベッドフォード公は、ノルマンの有力貴族や聖職者を味方に
つけた。モン・サン・ミッシェル修道院の院長ロベール・ジョリエも、僧
院の財産を受け取る条件でベッドフォード公の顧問になった。

 この頃、修道院長は名のみで、実際には島の外に暮らしていた。
モン・サン・ミッシェル修道院の僧たちは、イングランド側についたロベ
ール修道院長に反対した。島には領地を奪われたフランスの騎士や
兵士も反英の僧を頼り、避難してきた。彼らはイングランドに抵抗する
皇太子(後のシャルル7世)の庇護を期待していた。
 騎士兵士たちは、この島の要塞化をすすめた。

 1424年、イングランド軍は総員1万5千人の大規模な軍団をもって
こ島を包囲した。要害のモン・サン・ミッシェルの弱点は、食料と水であ
った。イングランド軍は沿岸に陣を張り、沖合いのトンブレンヌ島を占
領し、モン島攻撃の拠点として城砦を築いた。沖合いには船団を配置
し、封鎖を図った。
 東西の崖からよじ登って攻撃を仕掛けたが、突き落とされ失敗した。
 長期的な包囲戦となった。

 しかし、ブルターニュの勇敢な騎士達が、操船技術に長けた船団を
組み、イングランドの船団を駆逐してモン・サン・ミッシェルへの食料や
水の搬入に成功し、輸送路を確保した。「大天使ミカエルの助けだ」と、
信仰心は一層深まり、この話は各地に伝わった。

 (この頃大天使ミカエルは、ジャンヌ・ド・アークにも現れるが、これは
ルーアン訪問記で触れたい)

 守備隊長のルイ・デスドゥットヴィルも有能であった。彼は、島内に篭
城する兵士たちの軍律を厳しく取り締まり、陰謀、内紛、略奪を防止し
た。島の士気は高かった。

 1433年、激しい攻撃が仕掛けられた。島の民家が燃えた。
イングランド軍は、大干潮を利用して長さ11フィートの二門の大臼砲
を島の入り口に持ちこみ、城壁めがけて直径15インチの花崗岩の弾
丸を打ちこんできた。しかし、この大臼砲も山の低い部分は若干破壊
できても、さらに引き上げて撃つことは難しかった。

 とかく苦戦している間に潮が満ちてきた。寄せての軍隊は、慌てて
対岸に逃走した。砂浜に残ったイングランド軍の死骸は、あっという間
に大満潮に呑まれてしまった。
 大臼砲二門が島に残った。これが最後の攻撃であった。
(この時の臼砲は、今島の入り口に展示されている。)

 大天使ミカエルは、再び島を守ってくれたと信じられた。



モン・サン・ミッシェル大修道院(5)

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