「見よ、あの彗星を」
ノルマン征服記

第18章 項垂れし聖像



その頃、ヨーク市は甦(よみがえ)っていた。

春先以来、何と騒々しい半年だったことか。ノーザンブリアの地方豪
族達が、新王ハロルドに恭順の意を示さなかったため、2月にはロン
ドンからハロルド王の近衛軍団がヨークに進駐して来た。イングランド
王としての武威を誇示するための、ヨーク進駐であった。その時は歓
迎されざる客であった。

気を遣ったハロルド王は、領主モルカール伯の妹アルドギーサと、ヨ
ーク大寺院で結婚式を挙げた。アルドギーサは、3年前、ハロルドが
征服した南ウェールズの王グリューフィドの妃であった。この挙式によ
って、漸くヨーク市民とハロルド王との間に連帯感ができていた。

フルフォード街道の激戦で、エドウィン伯とモルカール伯の連合軍が、
ノルウェー王とトスティ伯の同盟軍に完膚なきまでに打ち破られた時
には、ヨーク市民は生きた心地がしなかった。
有力者は、子弟を人質に出さねばならなかった。財宝も貢がねばな
らなかった。

ところが、思いもかけずハロルド王の軍団が突如出現し、スタンフォ
ード橋でノルウェーのヴァイキング軍団を撃破したではないか。
ヨーク市民は、救世主となったハロルド軍団を歓迎した。
スタンフォード橋の大激戦で手傷を負った兵士達の治療に、市民達
は甲斐甲斐しく立働いた。ロンドンからヨークまで北上し、大激闘を展
開した歩兵達は疲れていた。
市民達は、手分けして兵士達を自宅に招き、食事や寝場所を提供し
た。

何処かへ逃亡していたモルカール伯やエドウィン伯も、ヨーク市へ帰
って来た。




モルカール伯の舘で休養をとっていたハロルド王の許へ、ロンドンか
ら伝令が息せ
き切って駈け込んで来た。

「ハロルド王へ申し上げます。一大事でございます。ノルマンディ公ウ
ィリアムの軍勢が、ペペンジー湾に上陸しました」
「そうか。泥棒猫め、とうとう留守の間に忍び込んで来たか」

ハロルド王は、来るべきものが来たと、この報告を表面は平然と受け
止めた。
覚悟していたとはいえ、兵士達の疲労を回復させ、手傷を癒やさせ
るには、一日でも遅く上陸して欲しかった。
少くとも、ロンドンまでは帰りついておきたかった。

モルカール伯とエドウィン伯は、不安気な眼指しでハロルド王に尋ね
た。
「ハロルド王、いかがなされますか」
「今暫く当地にご滞在され、次の詳しい報告が到着するまで様子を見
られてはいかが」
と、意見を述べた。
だが、ハロレド王は、
「いや、ウィリアム公が上陸した今となっては、一刻も猶予はできない。
速やかにサセックスに引き返そう」
と、躊躇することなく決断した。




ハロルド王の軍団は、もともと農民兵を主勢力とした歩兵集団である。
その軍団の中核をなす指揮者達は、地方領主や、家中戦士と呼ばれ
ていた子飼いの旗本騎士達であった。
一騎対一騎であれば、家中戦士は伝統的な武芸達者である。
彼らは、常時騎乗して軍団の指揮にあたってはいたが、馬も人も、騎
兵集団としての訓練は受けていなかった。

ハロルド王は、ヨークまで駈けつけるために、農耕馬も徴用して歩兵
を乗せていた。
駄馬であった。その数は僅か300頭にも足りなかったが、家中戦士
達の乗馬とともに、今は貴重な輸送手段であった。

輩下の部将の中には、歩兵全軍を率いて途中で適宜募兵しながら、
ゆっくり南下する作戦を進言する者もいた。
しかし、ハロルド王は、その間にウィリアム公が、サセックスやケントや
ウェセックスなどイングランド南部を席捲し、ロンドンを占領するであろ
うことを懸念した。

領地ウェセックスには、郷士も農民兵もまだまだ残っている。が、収穫
期の今は、ただの農民にすぎなかった。
彼らを組織し指揮する将を欠いた農民兵が、いくら集って気勢をあげ
たところで、それは烏合の衆である。千軍万馬の間を往来した猛将ウ
ィリアム公指揮下の騎士集団には、在郷の留守部隊では抗すべくもな
いことを、ハロルド王は十二分に承知していた。
彼は、一刻でも早くロンドンに立ち戻り、迎撃体制を整える時間が欲し
かった。


「兎も角、馬なら駄馬でもよい、集めよ。手傷なき者は全員直ちに出発!」
「早足行進!」
「駈足!者共、あとに続け!」
ハロルド王は、騎乗した家中戦士達を率い、ロンドンまで200マイルの
道程を駈けるため、愛馬に鞭を当てた。

ハロルド王の支援で、ノルウェー・ヴァイキングの侵略を喰い止めても
らつたノーザンブリアのモルカール伯と、隣国マーシャのエドウィン伯
の兄弟は、狡猾で恩義知らずであった。
両伯は事の成行上ハロルド王に加勢することを申し出たが、内心は消
極的であった。
彼らは、ロンドンに急行するハロルド伯に同行しようともせずに、部下
の歩兵を率いてゆるゆると南下を開始した。

ハロルド王が南進を急ぎ、ウィリアム公との決戦を急いだ今一つの理
由がここにあった。昨日の友が、今日の日和を見て敵となる惧れが十
分あった。
もともと南部のゴッドウイン家と、北部の貴族達は犬猿の仲であった。
もし北の貴族がウィリアム公と内通したら、腹背に敵を受けることにな
る。その時間を与えてはならないと、ハロルド王は考えた。


ロンドンの北郊約12マイル(約20粁)ほどの場所に、現在でも、信じ
られない程の大森林がある。老木が自然のまま朽ちはて、落葉に苔
むすこの「エッピングの森林」は、今は英国政府に買上げられ、大自
然林として保存されている。

ハロルド王がまだ宰相であった頃、ノルマン人の建築家を招聘し、エ
ドワード懺悔王と建立競争を行なった。そのウォルサム寺院は、この
エッピングの森に、ひっそりと立っている。
王は、静寂な森の中にあるウォルサム寺院が大変気に入っていた。
森に来ると、ハロルド王は、いつも安らぎを感じていた。

王は、ヨークから駈け下って、漸くなつかしいこの大森林に辿り着い
た。ロンドンまでは、あと僅か10マイル余の距離である。
イングランドの秋の落日は早い。
とっぷりと暮れた野の道に、風が冷たく吹きすさんだ。
ハロルド王は、弟のギルス伯レオフィネ伯や直臣の部下とともに、こ
の所縁のあるウォルサム寺院の扉を叩いた。



司祭や20人余りの聖職者達は、前触れもなく突然立寄ったハロルド
王の一行に驚いた。ヨーク市からここまで、僅か3日間で帰って来た
のである。一日50マイル余(約80粁)を駈足で追いついて来た兵士
達は、疲労困憊(こんぱい)していた。

ハロルド王は、顔を洗って、汗と埃を落とすと、すぐに祭壇に額づき、
ウィリアム公との決戦に神の御加護を祈願した。
深い木立を吹き荒れる秋の風に、祭壇の灯がしばしば消えなんとば
かりに揺らいだ。
司祭も王も、家臣達も一心に祈った。

かって、ハロルド王がひどい中風に悩まされた時、人の勧めでこの小
さな教会に参
詣したことがあった。その時この本堂の十字架は、嘘のように痛みを
癒してくれた。
奇蹟を示したその十字架に、彼は再び祈りを捧げたのである。
王として、イングランドのためにと――。

聖堂には司祭の祈願の声が荘重に響いた。
参詣の一同が跪(ひざまず)き、祈りの言葉を唱和している時、祭壇
係である実直なターキル老人は、不思議な出来事に老の身を硬張
らせていた。
祭壇に安置されている聖なる十字架に磔(はりつけ)にされているキ
リストの頭は、それまで僅かに天を見上げていた筈なのに、今はがっ
くりと項垂れているではないか。

ターキル老人は、腕で目をこすって確かめた。まぎれもなくキリストは
項垂れている。
「ああ、何か不吉な徴侯でなければよいが――司祭様にお知らせし
たものかどうか――
そうだ、この場は私一人の胸に納めておこう」
老人は、王や司祭と同じように跪いて勝利を祈願した。



祈願が終って、ターキル老人が恐る恐る顔を上げて見ると、十字架
の聖像は元通りに天を見上げていた。

祈りの後、牧師達が用意した心づくしの熱いスープを飲むと、兵士
達は、聖堂の固いベンチにゴロリと横たわり、寸暇を惜しむように睡
眠をとつた。
聖職者達は、ありあわせの敷布や僧服などを兵に掛けて回った。

深更、はい然と雨が降った。
ターキル老人は、その豪雨が、頭を垂れたキリストの涙のように思え
て、一夜まんじりともしなかった。


10月4日朝

ロンドンに帰ったハロルド王は、この首都に数日間滞在して、新たに
兵を募った。
ウィリアム公の率いるノルマン騎士団との決戦のためには、一兵でも
欲しかった。

途中遅れた兵士や、元気を恢復した兵士達が、次々とヨークからロ
ンドンに駈けつけて来た。
領地ウェセックスやサセックスやケント地方では、古くからの領民が
参軍することは確実であった。
スタンフォード橋では、予想外に苦戦して、かなりの郷土や家中戦士
を失ったが、軍団の人数だけは、在郷の農民を徴用すれば何とか間
に合いそうであった。

ハロルド王の弟ギルス伯が、作戦会議で口を開いた。

「兄上。ウィリアム公との乾坤一擲の決戦を避け、彼らの進軍の前に、
ウェセックス、サセックスの小麦畑を焼いてしまってはどうでしようか。
これから先、冬に向って、奴等を兵糧攻めにするのです」
「ギルスよ、領内の百姓共の身にもなってみよ。収穫寸前の小麦を焼
かれたらどうなるか」
「しかし、勝つためには――」
「いや、余にもお前の考え方が良く判る。宰相時代の余であれば、焦
土作戦で相手を苦しめた後、決戦を挑むであろう。だが、今は王だ。
国民を苦しめるわけにはゆかぬ。ここは、武将としてでなく、王として
勝負どころだ」
「わかりました」

疲労も快復したハロルド王の軍団は、或る夜、隊伍を整えると、足音
すら忍びやか
に、ロンドンを出発した。王は、ウィリアム公の斥候や間者を警戒した
のである。


10月13日夜

ハロルド王の軍団は、サウスダウンズの森を抜け、ヘイスティングズ
郊外に近付いていた。
当時の人馬の行軍日程からすれば、非常に迅速な行動であった。
再び「疾きこと風の如く」軍を動かし、敵軍兵士に神出鬼没の畏怖感
を懐かせる作戦をとった。
王は街道を利用しなかった。
勝手知った南イングランドである。森林地帯を利用し、隠密裡に進軍
していた。

その森林地帯を抜けると、「テルバムの丘(現在のバトル村)」に陣を
敷いた。
丘の項上には、大きな林檎の木が一本立っており、地元の人々の目
印となっていた。

当時と現在とでは、地形が随分と変化しているようである。その頃、こ
の一帯の海岸線は入り組んでおり、ヘイスティングズの郊外はまさ
に半島のようになっていた。
この半島と内陸部への接点にあたる場所が、「テルバムの丘」であっ
た。

丘の両側は招と川になっていた。ウィリアム公にとつては、このテルバ
ムの丘を通らねばロンドンに辿りつけない、戦略上の要地であった。
ウィリアム公も、早くからこの丘に目をつけていた。ヘイステイングズ布
陣と同時に、「テルバムの丘」に先遣隊を出して、準備を固めさせてい
た。

ところが、ハロルド軍団が、夜の闇に紛れてこの丘に接近した時刻に
は、準備隊全員が油断をし、この丘を留守にしていた。
あちこちの街道に出している斥候からは、何の異常もなく、平隠無事と
の報告を受けていたので、食糧調達をかねて、近郷の村へ夕食を摂り、
女を漁りに出向き、そこに泊っていたのである。
したがって、ハロルド王の軍団は、易々とこの要地に陣を張ることがで
きた。

ウェセックス州を象徴する竜の旗と、騎士を形どつた軍旗が、ハロルド
王の本営に立てられた。



翌10月14日早暁。

「ハロルド王のサクソン軍団に、テルバムの丘を占領された」
との前線報告が、ヘイスティングズの砦にいるウィリアム公の許に届い
た。
ウィリアム公は、街道の要所要所に間諜を放って、ハロルド王の動静を
把握しようとしていたが、ハロルド王は、夜陰に紛れてロンドンを出発す
ると森林地帯に入って、足跡を晦ましていた。
しかし、ハロルド王の戦略を十分研究し尽していたウィリアム公は、ハロ
ルド軍団が突如出現し、要地テルバムの丘を占領したと聞いても些かも
動揺する気色はなかった。

続いて伝令が駈け込んで来て、
「ハロルド軍団は、やや疲労気味の模様」
と、情況を報告した。

「道のない処を、急ぎに急いだのだろう。よしっ、今の内こ、十分腹ごしら
えをしておくように」
ウィリアム公は、オド大司教、ロバート卿、側臣ウォルター、フイッツ・オズ
バーン卿、ユーステス伯など左右の重臣に声を掛け、たっぷり食事を摂
った。

「さて、腹ごしらえはできたぞ。誰か鎧を持て!」
ウィリアム公が鎖帷子(くさりかたびら)を着けた時、
「殿!裏が出ております!」
家臣の一人が蒼白な顔をして叫んだ。
一瞬、一座がしらけかかった。

「何!裏だと?気にするでない。気にするでない。今日より余が、この国
の王になるということさ。世をひっくり返すというシャレが判らんのか。ハッ
ハッハ」
「ウワッハッハ」
と、一同がつられて大爆笑となった。冷汗をかいたウィリアム公機転のウ
ィットであった。




「者共、馬を引け!行くぞ!」
ウィリアム公は、張りのある声で全軍に進撃を命じた。
太鼓と笛の音に合わせて、ノルマン軍団の大進軍が開始された。


第19章 楯の壁、ヘイスティングズの戦い(その1)へ

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