「見よ、あの彗星を」
ノルマン征服記

第19章 楯の壁、ヘイスティングズの戦い(その1)



東の空が、ほのかに紅の色をさした。
テルバムの丘は、まだ夜明け前であった。
愛馬に跨り、丘の頂に立ったハロルド王は、前方ヘイスティングズの
丘をジッと見つめた。

僅かの仮眠をとつて、深夜行軍の疲れを癒やした家中戦士や農民兵
達も、遥か彼方に立ち昇るノルマン軍団の炊煙を眺めていた。誰も口
を利く者はいなかった。
ハロルド王は、騎乗している領主達や家中戦士達を集合させた。

「かねて打合せの通り、諸君には、それぞれ農民兵達の隊長として指
揮をとつてもらう。平地での戦闘指揮に馬は必要であるが、この丘で
の戦には不要である。
全員下馬せよ。余の馬も、勿論不要だ。馬は全頭裏の林へ繋いでお
け。
さて、皆の者。余は、このテルバムの丘を決戦の場とする。
ヴァイキング達がスタンフォード橋で作った、あの強固な『守備の陣形』
を真似よ」

丘の上に、縦長で下が細くなっているサクソン風の楯が、がっしりとぶ
厚く並べられた。『楯の壁』である。



領主や隊長達に指示が与えられた。

「余が命ずるまで、絶対に楯を開いたり、外へ攻め出て戦をしてはな
らぬ。敵が
丘を駈け上り攻めて来る都度、一撃を与えるだけでよい。
動かざること山の如く、『楯の壁』を堅持せよ」

ハロルド王の指図は、武田信玄公の旗印「風林火山」の故事を思わ
せる。
俄集めとはいえ、領内の農民兵の槍と大斧の戦闘力には、王は自信
を持っていた。しかし、圧倒的な軍馬の頭数を誇るウィリアム公の槍騎
兵軍団には、平地ではとても太刀討できないと、冷静に判断していた。
この槍騎兵軍団が威力を十分発揮できないように、地の利を得た場所
に布陣し、一騎づつ、相手の力を削ぐ他に戦術はない。

ハロルド王は、言葉を続けた。
「明日にはヨーク軍団が到着し、我々に合流する。
今日一日この丘を守り抜けば、勝利は我にあり」

「オウッー」
「エイッ、エイッ、オウッー」
と、鬨の声が上った。

そのヨーク軍団は、のろのろと南下しており、明日に合流する目途な
ど全くなかったが、士気を高めるための方便であった。兵は、ハロルド
王を信頼していた。

ウィリアム公の軍団が、ローマ教皇から下賜された聖ペテロの幟旗を
高々と掲げ、太鼓を叩き鐘を鳴らし行軍して来た。
丘の上のサクソン歩兵軍団にとっては、このような数千頭の大騎兵軍
団の行軍は、生れて初めて見る光景であった。
兵といっても元来は百姓であり、職業兵ではない。彼らは,武者ぶる
いを抑え切れずに、足踏みしながら、ひたひたと寄せて来るウィリアム
公の整然たる軍団を、固唾を飲んで見詰めていた。


ノルマンの大軍団は、丘の下に布陣した。
ウィリアム公の大本営は、公自ら指揮するノルマン騎士団で固めた。
千軍万馬の猛者を集めた槍騎兵軍団である。
特に公の周辺は、親衛隊長フィッツ・オズバーンは配下の近衛兵で
固めた。

歩兵は、全て長弓を携えて弓隊となって、騎兵隊の背後に控えてい
た。左翼には、ブルターニュ地方の郷土部隊を配した。
右翼には、ポローニュ地方の領主、ユーステス伯を指揮官とするフラ
ンス騎士団と、スイスやスペインなどから参加した外人傭兵の混成部
隊を置いた。




午前9時、ウィリアム公は、「戦闘開始」を命じた。
鼓笛隊が、一斉にドラムを叩いた。

先頭に立ったのは、吟遊詩人の騎士として、ノルマンディの国中に美
声がもてはやされていた、アイポ・ティルファニーであった。
彼は、持前の響きの良い声を張り上げ、一番乗りを宣言した。音吐朗
々即興の詩を吟じつつ、空中に槍を抛り上げては受けとめた。
ウィリアム軍団から、ヤンヤの喝釆が送られた。
戦争とは思われないような華やかな雰囲気を醸しつつ、彼は拍車で
愛馬の胴を蹴ると、一気に沈黙の『楯の壁』へと駈け上った。
だが、忽、楯の壁から突き出された長槍の餌食となった。

これを契機に、ノルマン騎馬軍団が突撃し、投槍を楯の壁にぶち込
んだ。
続いて、長弓隊が一斉射撃を行なった。新たな騎馬隊が繰り出され、
丘に駈け登った。しかし、楯の陣は固く、攻撃は幾度となく撃退された。



戦の最中、ウィリアム公の乗馬が、ハロルド軍団の矢を受けて、棒立
ちとなった。
彼は、もんどり打って、ドウと落馬した。
戦場に、「ウィリアム公が戦死した」との囁きが流れた。

ノルマン兵士達は一斉に総退却を始めた。
公は、主を失っていた馬を掴まえ、ひらりと跳び乗るや否や、流れ矢
の飛来するのをものともせずに、鉄兜を脱ぎ捨て、素顔を出した。
そして、あらん限りの大音声を張り上げた。

「余はここに在るぞ!
サクソンど百姓の、ヒョロヒョロ矢で死んでたまるか!皆の者、攻撃
続行だ!」
「オウッ!殿はご無事だぞ!」
                
再びノルマン軍団に活気が溢れた。




が、午前中に関する限り、守備のハロルド王が優勢であった。傾斜の
ある狭い丘の頂では、いかに訓練の行き届いた軍馬とて、存分動き
回れるものではなかった。
ハロルド軍の半弓隊に射かけられ、犠牲の方が多かった。
いくら懸命に突込んでも、楯の壁は、仲々破れなかった。前線の兵が
斃れ、楯と楯の間が破れそうになっても背後の兵が再び楯を拾い、壁
を作った。

ウィリアム公の左翼、ブルターニュ郷士団が少し崩れて、退却を余儀
なくされた。
ハロルド王の右翼は、地方郷士団であった。彼らのうち一部の者は、
ハロルド王の指示を忘れて、退却する騎馬隊を追った。事実、斜面の
戦では、ノルマン騎馬隊よりも、サクソン歩兵の長槍、大斧の方が強
かった。
殊に槍や大斧で馬の胴や尻をぶち破られ、落馬する騎士が多かった。



サクソンの郷士隊は、勢に乗って、更に深追いした。坂の下で乱戦
模様となった。
ウィリアム公は、直ちに直属の精鋭部隊を応援に送った。彼らは、平
地で立直った騎馬隊と協力して、このサクソンの郷士団を取り囲み殲
滅した。


太陽は中天にあった。
空は、どこまでも青かった。
ウィリアム公は、膠着状態の戦局を打開するため、一計を案じた。

騎兵も歩兵も、一旦引き揚げを命令した。
小休止をさせ、持参の兵糧で腹拵えをさせた。
その間、長弓隊に前進を命じた。ウィリアム公の軍団は、ハロルド王
の軍団に比べ、弓隊の兵員が多かった。しかも長弓隊である。

ウィリアム公は、弓隊の隊長を呼び、
「楯の壁を無視して、矢を天高く射よ。しかも間断なく、射掛けよ」
と、命じた。

長弓の威力であった。あたかも大空から降る雨のように、矢が落ち
て来た。
楯の壁の内側で、農民兵達に動揺が起こった。
この思い切った一斉射撃で、楯の壁に守られていた兵士達が相当
負傷した。
楯を、傘のようにふりかぶる者もいた。



頃合を見て、ウィリアム公は、騎兵と歩兵に第二次の突撃を敢行さ
せた。だが、サクソンの農民兵は、傷つきながらもよく戦った。

秋の陽は、早くも傾きかけていた。
両軍の死傷者が、丘の斜面を覆わんばかりに転がっていた。
楯の円陣は小さくなっていたが、丘の頂には依然としてハロルド王
の軍旗が翩翻とはためいていた。


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