「見よ、あの彗星を」
ノルマン征服記


第2章 王妃エマの周辺



王妃エマの郷里であるノルマンディと、エマの数奇な生涯を少しまとめ
てみよう。

ヴァイキングはイングランドのみではなくフランスの海岸にも侵入して
いた。人々は彼らが定住し始めた地方を、ノルマン(北方の人)の住
む地「ノルマンディ」と呼んだ。

ノルマンヴァイキングはしばしば首都パリをも脅かしていた。
ノルウエーから一族を引き連れてセーヌ河を遡った酋長ロロの大軍は
強大であり、シャルル王は酋長ロロと和睦を結ぶ策を選んだ。

王はロロにセーヌ下流地方ノルマンディの領有を認め、公爵(デューク)
の称号を与え、さらに王の妹をロロの第二王妃に与える案を提示した。

その代替条件として、フランス王を王として推戴し、フランス王朝のため
に沿岸警備を引き受け、かつキリスト教への改宗を要求した。
酋長ロロはフランス王の和議案を受け入れ、蕃地ノルマンディは正式に
ノルマンディ公国となった。




ロロの子孫は優秀であった。
第2代ノルマンディ公はフランス騎士風の長剣の名剣士で「長剣公」と
呼ばれた。
第3代リチャードは武勇に加え欧州の宮廷マナーでは貴族中の貴族と
囁かれるほどの洗練された所作を身につけ「無敵公」として有名であっ
た。

イングランドのエセルレッド無分別王に嫁ぎ、さらにカヌート大王の王妃
となったエマは、第3代ノルマンディ公爵リチャード「無敵公」の息女で、
「ノルマンの宝石」と呼ばれた可愛い王女であった。

エマがイングランド王に嫁いだ政略結婚により、イングランド王国と海を
隔てたノルマンディ公国の関係は大変緊密となった。




カヌート大王と再婚した王妃エマには、前夫エセルレッド王との間にア
ルフレッドとエドワードの二人の王子がいたが、エマは二人を疎んじ、
郷里ノルマンディの僧院に預けた。

アルフレッド王子は凡愚であり、エドワード王子は白子(色素欠乏症)
であった。
エマはカヌート大王との間に生まれたハースカヌート王子を溺愛した。

カヌート大王には第一王妃エルジバとの間にハロルドヘアフットとスウェ
インの二人の王子がいた。
大王は次男スウェインをノルウェー王に、三男ハースカヌートをデンマ
ーク王に任命した。
嫡男ハロルドヘアフットは無冠であったが、いずれイングランド王を継
ぐと見られていた。

系図



ところが1035年、カヌート大王が41歳の若さで急逝した。

エマはイングランド王に自分の子ハースカヌートを就任させようと、大王
の重臣ゴッドウィン伯とスティガンド牧師に画策した。
これを聞いてヘアフット王子が激昂し、イングランドの北部マーシャの
領主レオフリック伯と手を組み、イングランド王に就任した。

ゴッドウィン伯はテームズ河の南ウェセックス地方の領主として謹慎し、
エマはゴッドウィン伯の許に身を寄せた。

ハースカヌートはデンマークで静観していた。




この政変劇の最中に、アルフレッド王子がイングランド王位を主張し、
ノルマンディから密かに帰国してきた。
王子は母エマが身を寄せているゴッドウィン伯を訪ねた。

が、ゴッドウィン伯はヘアフット王に密告し、アルフレッド王子は盲目に
され病死した。
この密告の手柄でゴッドウィン伯はヘアフット王の宮廷に帰り咲いた。

1037年、ヘアフット王はエマ皇太后を国外追放し、エマはフランダース
のボールドウィン伯の許に亡命した。




3年後の1040年、ヘアフット王は急逝し、エマの実子ハースカヌートが
デンマーク王とイングランド王を兼ねることとなった。

ハースカヌート王は異母兄ヘアフット前王の遺体を足蹴りにした。
ゴッドウィン伯は莫大な貢ぎ物でようやく地位を保った。
エマ皇太后とハースカヌート王は得意の絶頂にあった。




ハースカヌート王も不思議に短命で、2年後の1042年、急死した。

ヴァイキングの血統の王たちの不徳に失望していたアングロサクソンの
賢人会議では、アングロサクソンの英雄アルフレド大王の血をひくエド
ワード王子を、ノルマンディの僧院から迎えることを決議した。

田舎の修道院で敬虔な修道士の生活を送っていたエドワード王子は、
突然俗世間の荒波の中に連れ戻された。

賢人会議でエドワード王子の帰国を画策したのは、老獪なゴッドウィン
伯であった。




第3章 懺悔王懊悩

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