第3部 薊(あざみ)の国

第10章 ダンカン、マクベス、マルコムの血戦(2)




 読者には、しばらく舞台を1040年から50年代のロンドンとスコッ
トランドに、マクベスとマルコムの運命を見ていただこう。


 その頃、イングランド王位も揺れに揺れていた。
カヌート大王の没後、その王子達で争奪があったが、ヴァイキングの
王朝は終焉した。
 1042年、ロンドンではノルマンディーの修道院にいたエドワードが
帰国し王位に就いた。
(「見よ、あの彗星を」第3章懺悔王懊悩 参照)

 シワード候はマルコムの身の安全と将来を考えて、スコットランドの
刺客の手の及びにくいロンドンのエドワード懺悔王の宮廷に、その
庇護を求めた。

 エドワード懺悔王は幼少の頃よりノルマンディーに亡命し、父母の
ない生活で苦労していたから、スコットランドから亡命してきた幼いマ
ルコムに優しく接した。マルコムにとって懺悔王は父のごとく思えた。

 ロンドンの宮廷ではゴッドウィン家のハロルド伯(トスティ伯の兄)が、
懺悔王を無視して実権を握りつつあった。
 マルコムにとっては、庇護者である懺悔王を蔑ろにするハロルド伯
に、深い憤りと憎しみを覚えた。

 マクベス将軍がダンカン王を謀殺しスコットランドの王位に就いた
頃、フランスのノルマンディーでも波乱が起きていた。

 少年ウィリアム公を庇護していた大貴族ブリタニー公アラン3世や
ブリオンヌのギルバート候が刺客に倒されていた。さらに、次々襲う
刺客たちの魔手より、身を挺してウィリアム公を護ってきた警備隊長
オズバーンも遂に暗殺された。
(「見よ、あの彗星を」第7章ノルマンの星 参照)

 ノルマンディーも、イングランドも、スコットランドも、1040年前後は
いずれも混沌としていた。

 スコットランド王となったマクベスは、スコットランドの先王ケネス3
世の孫娘グロッホと結婚していたから、母の血統からも、妻の血統
からも王位に就いておかしくなかった。

 が、生真面目なマクベス自身の心の片隅に王位簒奪者という自責
の念があった。この気持ちを払拭しようと、マクベス王は善政を敷くこ
とに努力した。

 1045年、故ダンカン王の父ダンケルド大修道院長クリナンはマク
ベス王を倒そうと領地ダンケルドで反乱を企てたが、これに呼応する
者は無かった。反乱は鎮圧され、クリナン修道院長は殺害された。

   マルコム少年は、父ダンカンと祖父クリナンの二人をマクベスに殺
されたのであった。





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