第3部 薊(あざみ)の国

第10章 ダンカン、マクベス、マルコムの血戦(1)

前頁より





 マルコムにとっては曾祖父にあたるマルコム2世は、先住のピクト
族とスコッツ族の部族対立意識の強いスコットランドで、初めて統一
国家をつくり、スコッツの王と呼ばれた豪快な王であった。

 しかし、それまで伝統的な母系相続とタニストリーという王の孫まで
含める幅広い王位継承候補者制度を無視して、直系の長子相続に
切替えるという大胆な考えを持っていた。

 しかし運命は皮肉にも男子を与えなかった。マルコム2世は権力が
前王ケニス3世の血統や長子以外に相続されることを危惧して、長
女ベソックの長子、王には孫になるダンカンにスコットランド王位(ハ
イ・キング)を継承させると表明していた。
 このため一部の王族から根強い反発にあっていたものの、大方の
族長はあえて異議を唱えなかった。マルコム2世は強大だった。

 マルコム2世は1034年11月25日、ダンディーの北グラームズで
没した。
 在位約30年、力で抑えてきた80歳の老人も天命には逆らえなか
った。老衰死と公表されたが、巷間には反マルコム派による暗殺と
囁かれた。これまでケニス3世はじめ多数の王位継承権者を抹殺し
ていたからである。



 マクベスの母方の祖父もまたマルコム2世である。つまりマクベス
はダンカン王とは従兄弟になる。
 ケルト民族の伝統的なタニストリーの制度がとられれば、王位継承
候補者の有力な一人であった。しかし、王位継承会議は開催されず
1ヶ月後の12月下旬、ダンカンが王位に就いた。

マクベスはハイランド中北部マリの大領主であった。領主といっても
殆ど国王並みの領地を持つ実力者であった。マクベスは従兄弟の
ダンカン王の下で将軍の地位を勤めた。
ダンカンはハイランド南部アサルの大領主でもある。アサルとマリの
領主はどちらが王位についてもおかしくない拮抗した勢力であった。



 野心に燃えるダンカン王は、重臣たちの反対を押し切って、強引に
領土拡張の侵略戦争を遂行した。

 1039年、ノーザンブリアの要衝ダラムの攻略戦では完全に敗北
し重臣たちの信頼を落とした。その敗北にも懲りず、翌1040年、ま
た戦を起こした。

 スコットランドの北部オークニー諸島の領主であるノルウェーの豪
族ソーフィン伯の領土カイスネスを略奪し、自分の親族に与えようと
考え、水軍と陸軍を北に向けた。

 しかし、ペントランド湾での海戦でダンカン王の水軍は致命的な敗
北を喫した。

 このままダンカン王の下ではスコットランド軍は壊滅し、国民は戦費
の負担に疲弊するすると考えたマクベス将軍は、意を決してソーフィ
ン伯と密かに会談した。マクベス将軍とソーフィン伯は異父兄弟であ
った。ソーフィン伯もマクベス将軍を待っていた。




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