第3部 薊(あざみ)の国

第9章 大脱走(1)




 ノルマンの征服から1年半経った1068年の春、マチルダ王妃戴冠
の話題でイングランド南部が賑わっていた頃、ロンドンから東へ10マイ
ル(約16キロ)ほど離れた深い森の中を、黒い装束に身を包んだ屈強
の者十名余りと白い薄絹を纏った乙女ら数名が、馬を駆けていた。

 いよいよ森が終わり、そこから先は明るい平地になろうという手前の
茂みで一行は止まった。 馬を茂みの奥に隠した。
 先頭に立っていた黒装束が物見であろうか、藪の間から小手をかざ
して辺りの様子をじっと窺っていた。他の者は地面に片膝をつき待機
の姿勢をとっていた。

 5百メートルほどの距離であろうか、廃屋のような館が立っていた。
館の周囲は高い石の塀で囲われていた。
 鉄格子の門の前には甲冑を着けた番兵が2名立っていた。
顔の表情までは定かには分からないが、槍を抱えてうとうととまどろん
でいるようであった。

 それもそうであろう。訪れる者とてなく、聞こえるのは時折吹く風にそ
よぐ木々の微かな葉ずれの音と、春を楽しむかのような様々な鳥の鳴
き声だけであった。

 館と森のほぼ中間に、小川が流れていた。そのほとりに、こんもりと
茂る菩提樹が三本立っていた。
 小さな人影が動いた。

「マーガレットお姉さまー、お母さまー、早くこちらえいらっしてー。野薔
薇がきれいに咲いてますよー」
 玉を転がすような少女の声が、黒装束の一行にも聞こえた。

 ひときわ大きな木陰に、年の頃は14・5歳であろうか、マーガレット
と呼ばれた乙女が、白いドレスを身に付けた品のよい中年の女性と、
50歳前後の侍女と三人で立話をしていた。
 ほの暗い老樹の根元の、その辺りだけがほんのりと明るかった。
「クリスティーナ、川に落ちないように気を付けるのですよ」
 つややかな乙女の声が、小鳥の囀りの中に流れた。

少し離れて護衛役の兵士が4名、手持ち無沙汰に、ぶらぶらと警備に
ついていた。

 事情を知らぬ者が見れば、お屋敷の奥方やお嬢様が、お供を連れ
て散歩を楽しんでいるような、のどかな風景と微笑んだであろう。
 だが警備の兵はこの地方では見かけぬ容貌のノルマン兵であった。

 羊の群れを追う村の男の後ろに、とぼとぼと老婆が歩いて来た。
みすぼらしい衣服を纏っていたが、手篭には色鮮やかな野の花が盛
られていた。
 警備兵は、いつもの羊の群れにちらと一瞥しただけであった。

 老婆は、白いドレスの女性に近づくと、手篭の花を一握り取り出して
手渡し、何か囁いた。
「ありがとう」
という女性の声だけが警備兵達に聞こえた。花のお礼のようであった。



 老婆は警備兵たちにも花束を差し出したが、兵士たちは苦笑いして、
「婆さんよう、俺たちにゃ花より団子、いや団子より酒の方がいいや」
と、手を振って断った。

 羊の群れも、老婆もとぼとぼと去った。再び静かな時が流れた。



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