第3部 薊(あざみ)の国

第9章 大脱走(1)

前頁より




 しばらくして館の門が開かれ、少年が散歩に出てきた。こちらには2
名の兵士がついていた。一目で高貴な血筋とわかる凛々しい風貌の
少年は、ゆっくりとした歩調で、川端の薔薇の花を眺めていた3人の
女性に近付いてきた。

「エドガー、変わりありませんか?」
「はい、お母さま」

 ノルマンの兵士たちは、毎日毎日散歩のお供をする退屈な監視の生
活に飽き飽きしており、6人で故郷の話に夢中になっていた。
 確かに、この広い荘園から少年と女4人が、今逃亡する気配は微塵
もなかった。

 美しい母親がエドガー少年とマーガレットと呼ばれた乙女に、いつも
の家族的な会話のようにさりげなく、話しかけた。しかし、たとえノルマ
ン兵士に聞かれたとしても、彼等には聞きとれないハンガリー語であ
った。

「マーガレット、エドガー、内々のお話があります。エリーナもよく聞いて
ちょうだい」
「何のお話ですの?お母さま」
「脱走です」
「えっ!脱走!」
 三人が驚いた顔をした。



「しっ、大きな声を出さないでください」
 ノルマンの警備兵たちは、あいかわらず馬鹿話に興じていた。

「今夜は闇夜です。夜更けにゴスパトリック卿の手配された『白い妖精
たち』が忍びこんできて逃亡を助けてくれます。館へ帰ったら、警備兵
に覚られぬようにして、窓の鍵を掛けずにおいて下さい」

 先ほどの老婆は、森影に潜む『白い妖精の女王クリスティーナ』の変
装であった。

「お母様、妖精が助けに来てくれるの!素晴らしいわ!」
「そうなのよ、マーガレット。妖精の女王様のお名前は奇しくもクリステ
ィーナよ。由緒ある家柄の義侠心に溢れたお方と聞いています」

 ゴスパトリック卿はノーサンブリアの有力な貴族である。身寄りの少
ない無力のエドガー王子を、周囲に気を配りながら、それとなく面倒を
みていた。

 アングロサクソンの貴族たちは、一度は少年を王に担ぎながら、ウィ
リアム王の戴冠後は王の鼻息を伺い、触らぬ神に祟りなしとばかりに
エドガー王子を無視する者が多かった。
 アングロサクソンの古武士ゴスパトリック卿は一徹者であった。崇拝
するアルフレッド大王の正統エドガー王子を最後まで守ろうと決心して
いた。

「何事が起こったのですか?母上、突然のことで・・・・」
 母親のアガサが王子に説明した。

「ゴスパトリック卿から、私どもの命が危ないとの情報が入ったのです。
急いでこの国を出てハンガリーに脱出した方がよいとの密使が来まし
た。
私たちを無力な女子供と思って、ウィリアム王の兵士たちは油断して
いるようです。ロンドンに潜んでいる卿の部下たちが、北海へ向けて逃
亡する船の手筈をととのえてくれたのです。ここから海岸までは『白い
妖精たち』が送り届けてくれる手配です。夕食が終わるまでノルマン兵
士に気取られぬように、普段どうりの態度をとって下さい」

「分かりました」
「ゴスパトリック卿はどうされるのですか?」
「今夜ロンドンの宮廷から忍び出て、私たちと港で落ち合います。ハン
ガリーに行く私たちを見送られた後、ご領地に帰国されます。ウィリア
ム王の武将たちは、生き残りのアングロサクソン貴族たちに厳しい態
度をとっていますから、遅かれ早かれ卿の身も危ないとの判断からで
す」

 三人の母アガサはハンガリー王ステファンの息女である。ハンガリー
に帰れば宮廷で子供達を安全に育てることが出来ると、密かにゴスパ
トリック卿を通してハンガリーの父王と連絡をとっていた。今やっとその
時が来た。

 マーガレット姫も冷静であった。姫は長女として、幼いときから苦労に
苦労を重ねてきたせいか、一見のどかな日常生活の中にも危険が近
付いてきているなという本能的な予感がしていたからである。
 後年聖マーガレットとして聖人の座に列せられたが、このころからマ
ーガレット姫には不思議な予知力があった。

「クリスティーナには就寝まで何も言わない方がよいでしょう。エレーナ、
クリスティーナをよろしく頼みますよ」
 侍女のエレーナはうなずき、川端で野の花を摘んでいる少女に声を
かけた。
「クリスティーナ姫様、さあ、そろそろ館へお戻りしましょう」

 明るく振舞う侍女エリーナの顔は、先の見えない軟禁生活から脱出
できる希望で明るかった。それも噂に聞く『白い妖精たち』が救出に来
るのだ。ハンガリーから従って来ている忠実な侍女は、運命に翻弄され
て来たアガサ未亡人、マーガレット姫、エドガー王子、クリスティーナ姫
の4人が不憫でならなかった。



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