第2部 反 乱

第7章 マチルダの戴冠




 ウィリアム王は、イングランド南西部から西部にかけて疾風のごとく
騎馬軍団を動かし、征服した。征服した町には強固なノルマン風の城
砦を構築し、警備兵を配置した。

 1068年春――――。
王は、軍団の基地ウィンチェスターに戻って一息ついていた。

 戦が無ければ静かである。居間の外から小鳥の鳴き声が聞こえた。
ウォルターを相手に朝食を済ませた王は、椅子を立つと窓辺に近づき
大きく深呼吸をした。穏やかな朝であった。春の訪れが鼻腔にも感じ
とられた。

「ウォルター、反乱は一応抑えたな」
「はい、まだまだ油断はなりませんが、やはり王がノルマンディーから
イングランドに帰られますと、ノルマン騎士団は申すまでもなく、こちら
の国民にも緊張感が漲(みなぎ)るのがよく分かります」

「この機会にマチルダを呼び、王妃として戴冠式を挙げてやりたい。
重臣たちのよき輔佐があるとはいえ、あの小さい身体と育児をしなが
ら余が留守の間、ノルマンディーをしっかり取り仕切って来たからな」
「御意」

 ウィリアム王は、身長5フィート10インチ(約175cm)、やや肥満の
偉丈夫体であった。一方、妻マチルダは4フィート(約120cm)の極め
て小さな女性であった。
 二人が並ぶとちぐはぐな印象を与えたが二人は意に介さなかった。

 マチルダは小さいが聡明かつ健康であり、ウィリアム王との間に最終
的には4人の王子と6人の王女を産み育てた。



 マチルダの父、フランダースのボールドウィン5世伯に、ノルマンディ
ー公ウィリアムからマチルダを嫁にとプロポーズがあった時、
「まあ、なんてずうずうしい。私生児の妻になんかなれないわよ!」
と言ったそうであるが、この小さな身体ではウィリアム以外の縁談は無
かった。
 ボールドウィン5世伯が、生涯ウィリアムを多とした親心がわかる。

 恋愛結婚ではない。明らかに政略結婚ではあったが、結婚後この
時期の二人は、誠実に相互を理解し、信頼し、協力しあっていた。

 ウィリアム王は、「悪魔のロバート」とも異名をとった父と、なめし革屋
の娘アーレットとの間の庶子であったことを、常に頭に置いて考え、行
動していた。(他者に後ろ指を指さされてはならない)という潜在意識
があった。

 亡父や他の貴族諸侯のように、正妻以外の女性を側室とすることも、
一時の弄びにすることもなかった。ふしだらを嫌悪した。妻帯している
聖職者は極端に嫌った。
 どのような清楚な美貌の女性も、肉感的な女性も、思うが侭にできる
権勢の座にありながら、著しく矮小なマチルダだけを生涯の女とした。
 この自己抑制がきれた時、理性が感情に押され判断が曇った時、運
命が破滅に向かうと、自らに強く言い聞かせていた。

 ウィリアムとマチルダは、暇があると揃って教会に参詣し、寄進した。
 幼少時から数多の危難を乗り越えてきたウィリアム王にとっては、見
えざる神のご加護を信じていた。
 マチルダは、誠実なウィリアムとの縁談は神の配慮と信じるようにな
っていた。

 神への崇敬が、政治的な配慮を超えた生半可でないことが、当初
二人の結婚に反対していた碩学ランフランク僧院長を翻意させ、ロー
マ教皇の結婚承認や、イングランド侵略に際しては聖ペテロの幟を下
賜されていた。
「見よ、あの彗星を」第8章 邂逅を参照ください)

「イースター(復活祭)までにマチルダ呼び寄せ、共に祝いたい」
「結構です。さればこの機会に、イングランドの主要な聖職者と貴族
諸侯をウェストミンスター大聖堂に招集し、宗教会議を開催することを
献策します。宗教会議ということになれば、出席は拒否できますまい。
その時に厳粛に戴冠式を挙げればよいでしょう。
王妃戴冠式は伏せておいて、宗教会議を前面に出して招集するので
す」
「なるほど、そちは知恵者よ」

 この当時、イングランドではヨーク大寺院と、カンタベリー大寺院が
大司教座のある教会であり、相互に権力の座を競い合っていた。
 ヨーク大寺院の大司教はアルドレッドであり、カンタベリー大寺院は
スティガンドである。

 だが、スティガンド大司教は、ローマ教皇庁の正式の承認を得たも
のではなかった。ハロルド前王の父ゴッドウィンの庇護の下に、教会
勢力を掌握していた。ゴッドウィン家が消滅した今は謹慎していたが、
カンタベリー大寺院は名目上は怪僧スティガンドが依然として大司教
であった。

 ローマ教皇庁の後ろ盾のあるウィリアム王には、イングランドの聖職
者たちは戦々恐々としていた。
 とりわけ妻帯している聖職者たちは、王の一挙一頭足を注視してい
た。
 王をバックアップしているランフランク・カーン修道院長が、聖職者は
清廉禁欲たれと標榜するクルニュー運動の推進実践者であることは、
衆知であった。

 ウォルターは、さらに続けた。
「イングランドを抑えるには、スティガンドはもとより、彼に任命されて各
地の教会に散らばり、勢力を持っている聖職者達を、時間をかけて懐
柔し、更迭していく必要があります」
「ランフランクを呼び寄せるまでは、教会勢力には慎重に対処しよう」
「その為にも、宗教会議を再三開催しましょう」
「分かった。すぐ手配せよ」

 孤独な甥を守るべく、常に最新の情報を手にしている無官の叔父ウ
ォルターの、的確な意見は貴重であった。



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