上海・黄山・蘇州・杭州紀行


第7日 杭州(1)




上海から杭州へは市の北の上海駅からと、南の郊外梅隴(メイロン)駅か
らのルートがある。ホテルからは梅隴が近く、時間もよい。
始発の軟座2階席は快適。三元(45円)でお茶を頼む。お湯は適当に継
ぎ足してくれる無料サーヴィスがある。

窓外の農村風景を見ると、農家は大きく江南は豊かであると感じる。
杭州近くになって養魚池と御殿のような5階建てくらいの豪邸の農家が次
々に現れる。
(帰りの快速で同席した日本語の達者な王さんの話では、ウナギと海老の
養殖で、家具などはすごい、上海で会社経営の彼もとてもかなわないとの
話であった。帰国後うな丼や海老を食べると、この御殿群と豊橋界隈の寂
れた養鰻池を思い出す)



杭州は現在浙江省の省都であるから豊かな落ち着いた都会の雰囲気が
ある。秦の始皇帝が銭塘県を設置して以来約2000年の古都であるから
並のものではない。
春秋時代、蘇州は呉、杭州は越の国であるが、仲が悪かったことは『呉越
同舟』の諺で我々にも馴染み深い。

最初に訪れたのは郊外の霊隠寺。インド僧慧理が仙霊が隠れていると
326年に開山した古いお寺で、その岩山(石灰岩の岩窟洞窟)に彫られた
仏像は338体、山の規模も大きく観光地化している。

西湖に戻り湖畔のシャングリラホテルで点心のバイキング(驚いたことに
僅か80元1200円!で種類はもう多数。お勧めスポットである)
朝から一元バスの乗り継ぎと歩きで、はらぺこのわが一家はパクパク。

満腹になったところで、中山公園から西湖観光の公営渡し竜頭船に乗る。
西湖は周囲を穏やかな山に囲まれ、のどかな素晴らしい景観である。
越王匂踐が呉王夫差に贈った絶世の美女西施(西子とも)にちなんで命名
されたというだけあって、黄山とは対照的な女性美の湖である。





越王匂踐は夫差の父呉王闔閭(前回蘇州虎丘ご参照ください)を滅ぼし
たが、夫差は父の仇を討つべく、薪の中に寝て身を苦しめ『臥薪』
(がしん)、報復を忘れまいとした。

B.C.494年夫差は遂に越王匂踐を破った。参謀の伍子胥は匂踐を殺せと
進言したが、越王匂踐は絶世の美女西施を呉王夫差に献じ、一命をつない
だ。夫差は匂踐に会稽山に謹慎を命じた。

匂踐は『会稽の恥を雪(そそ)ぐ』ことを忘れまいと、苦い肝(熊の肝だ
ろうか)を舐めた。『嘗胆』(しょうたん)である。

呉王夫差は西施の美に溺れ、治世を疎かにして匂踐に攻められ、遂に
滅ぶ。西施はまさに匂踐の送った『傾国の美女』であった。

勾践の参謀范蠡(はんれい)について後日談がある。

范蠡の生没は不詳。勾践に仕えた政治家。勾践は大夫種と范蠡の助力で
呉王夫差を破り、夫差は自殺した。
范蠡は勾践を「共に楽しむべき君主ではない」といって、越を去り、
シイシビと名乗って巨富を得、斉の国の宰相になる。
しかし、ここでも財を人々に散じて去り、陶の国に行き、また巨富を得て、
陶朱公と名乗ったという。忠臣と理財の代表的人物として范蠡は著名であ
る。ただし范蠡がシイシビや 陶朱公と同一人物かどうかは疑問と。
(小学館の大日本百科事典より)

                       

松尾芭蕉は『奥の細道』の中で、象潟の風景を詠んでいる。
文化元年(1804年)の大地震で象潟は隆起し陸になったが、当時は鳥海
山を映す見事な景観だったようである。

『象潟や雨が西施のねむ(合歓)の花』          芭蕉

「ねむ」眠ると「合歓」とは今にして思えば芭蕉は粋人であった。



匂踐といえば、鎌倉末期から南北朝にかけて活躍した武将、児島高徳
(こじまたかのり)と後醍醐天皇の故事を思い出す。

天皇は鎌倉幕府を抑えようと元弘の変を起こしたが失敗し、隠岐に配流
される。
美作国(みまさか・岡山県)の杉坂で天皇奪還に失敗した高徳は、院庄
の天皇の宿舎の庭に忍び込み、桜の木の幹を削って書いた。

『天、匂踐を空しゅうする莫(なか)れ。時に范蠡無きにしも非ず』

越王匂踐と呉王夫差の、いわゆる呉越の争いの中で、会稽山に閉じ込
められている匂踐を、忠臣范蠡が励まし、救出した故事を詩に託し、天皇
を勇気付けたものである。
(これは太平記の記述であり、史実かどうかは異論もあるようだ)



あれこれ想いを巡らすうちに、遊覧船は湖中の人工島小瀛州へ着く。
景観はもう想像頂くとして、湖を南北につなぐ、2.8キロの蘇堤と中華
料理の東坡肉(トンポーロー)について次回に。


            杭州(2)―――――蘇東坡について―――
第8日(8月30日) 上海より成田へ

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