われ日本のベケットたらん

(前頁より)



トーマス・ベケットは少年の頃、騎士道の教育を受け、すらっとした強く
逞しい若者に育っていた。しかし父が破産したため親戚の家で事務員
となりビジネスを覚えた。
聡明で学問好きだったベケットは、教会法を勉強し、その分野で名をあ
げ、フランスのアンジュー候ヘンリーと知り合いになった。運命は不思
議なものである。ヘンリーがイングランド王位を継承することになった。

若き王ヘンリー2世は、不慣れなイングランドの統治には自分と同じよ
うに若い腹心が必要だった。ベケットは宮廷に召し出され、王の側近と
なり、若くして宰相に抜擢された。
二人の若者は王と宰相というよりも親友というような関係で、熱心に政
治に取り組んだ。

ところが二人の前に立ちはだかって、なかなか服従しない古い強大な
勢力があった。
カンタベリー大寺院を頂点とする教会である。当時の教会はローマ教
皇の支配下にあって、宗教つまり神の世界は、世俗的な王権の支配
は受けないという思想であった。
王権と教皇権は相容れない別個の存在であった。むしろ教皇権の方
が王権よりも上にあるという意識の方が強かった。

ヘンリー2世とトーマス・ベケットの統治にとって、カンタベリー大寺院
の大司教は目の上のタンコブのような存在であった。
改革精神に燃える王に朗報が入った。カンタベリー大司教が病死した
のである。ヘンリー2世は、小躍りしてトーマス・ベケットを呼んだ。

「トーマス、今こそ、いまいましい教会勢力を我が手にするチャンスだ。
だからお前をカンタベリー大司教の後任にするようローマ教皇に働き
かけよう。さすれば国中の聖職者どもも、否応無く余の命に従うように
なる。どうだ、名案ではないか」

「私は気乗りしません。私は今宰相として王に忠誠を尽くしています。
しかし、私の性格として、もし聖職者になったら、神に忠実に仕えるよ
うになるでしょう。王の意図されていることとは逆の結果になることを
恐れています」
「聡明で余に忠実な汝が、そのように変心することは考えられない。
余の命に従え」

かくしてトーマス・ベケットは、俗界のエリートである宰相の地位から、
聖職者の頂点に立つカンタベリー大寺院の大司教に就任した。
王は、イングランドの支配は、聖俗両世界とも我が意のままになると
喜んだ。




次頁へ

「ロンドン憶良見聞録」の総目次へ戻る

ホームページへ戻る