それは夕立のように 第3回雑文祭参加作品)

 それはいつもいきなりやってくる。

「急げ! あの子が来るぞ! 急ぐんだ!」
 黒づくめの服に身を包んだ、痩せた、風采の上がらぬ中年男が向こうから走ってくる。
 その場の全員がはっとして、そちらを向く。
「娘が来るんですって?」
 と男に問いかけたのは中年男よりやや年上と思われる年齢の女性。しかし、まだ若い頃の美しさを充分に残している、上品そうな顔立ち。
「ええ、そうです。だから貴女には、早く女王様になってもらわないと」
 男はなにが怖いのか、女性の方をまっすぐに見ることなく、それだけを言う。
「なぜ私が赤の女王様なの? 我が儘で、傲慢で、自分勝手。あの子には私がそう見えるの?」
「ええまあ、そうなんでしょうな、まだ子供ですから……」
「私はあの子を甘やかしているくらいだと思うんですけどね」
「あの子にとっては、自分を躾けようとするすべての人が、理不尽な命令を下しているように見えるんでしょうよ」と、眼鏡を掛けた、やや若い女性が割って入る。
「私は家庭教師から、一躍公爵夫人ですか! 位は高くても嬉しくもないわ。あの子にわけの分からない教訓を垂れた揚げ句、あなたに首をちょん斬られる役なんですから」
「まあセデンス先生、あなたを首にするなんて、先日のは私がついかっとなって――」
「それをあの子が聞いてたんでしょうね。首の意味なんてまだ知らないんですから」
「あの子はそんなもんですよ」肥満した中年の女がしゃしゃり出た。
「まあね、私はもともとの料理女だからいいですけどね、胡椒なんか入れすぎてはいませんよ」
「あの子は偏食気味だから―」
「偏食、そんなもんじゃありません。豚は嫌いだしね。このあいだ、あたしを手伝うって言ってなにをしたかわかりますか? コロッケにどっさり砂糖を入れたんですよ。ええ、もちろん、全部捨てなきゃなりませんでしたよ」

「ところで、わしはどうすればいいのかな」フロックコートに身を包んだ、髭もじゃの老人が現れる。
「あなたはもちろん王様ですよ。私の横に座ってただ居眠りしていればいいんです。いつもお家でしていらっしゃるように。どうせそれしかできないんですから」
 赤の女王を割り振られた女性が早口で言い立てる。老人は首をすくめる。
「ほらねドジソン君、わしにとってはあれはいつも赤の女王ですわい」
「いや……ええと、ともかく早く用意してください」
 男はへどもどとそれだけ言うと、その場を逃げ出す。

「あの子が来るんだって?」
「そうだ、だから早く準備を……」
 学校の職員室の建物の中。先程の男と、同じくらいの年齢で同じような服装の男たちが2人集まっている。
「だからここはお茶会の席にしなきゃいけない」
 先程やってきた、風采の上がらない男が説明する。
「やれやれ俺はまた帽子屋か」背の高い英語の教師がひとりごちる。
「あの子のほうだぜ、時間は痴漢だとか訳の分からないこと言ったのは。それがこっちじゃ全部俺の言ったことにされちまって、気違い扱いされるのだからたまらん」
「まあいいじゃないか…」ゆっくりした口調で、地理の教師がとりなす。
「それより、あの子はいつになったら緯度と井戸の違いを覚えてくれるのかなあ…」
「その恨みで、お前は蜂蜜の井戸に押し込められちまうんだ」英語教師が笑った。
「お前はねむり鼠なんだから、そうされても寝てなきゃ駄目だぞ」
「眠くはない、眠くはないのだ私は……」
「でも眠らなきゃ困る、そうだろうドジソン?」
「うん」
「だからお前には、眠っても、眠っても、まだ眠い、この薬を打つ」
「あれは肝臓に悪い……」
「そんなこと知るか。中国にも堂々と輸出している一級品だ」
 問答無用で英語教師は、ぶすりと地理教師の左腕に注射器の針を差す。
「うう……メリンダ……悪かった……私…すまない……」
「あらら、バッドトリップしちゃったみたいだな。まあいいか」

 学校の校庭で、先程の男が女の子達を集めて説明している。
「だからここもクローケーグラウンドにしなきゃいけないんだ」
「なんであの子だけ特別で、あたしたちトランプなの?」
 メーベルが喚く。まわりの少女たちもうなずく。
「あの子はあたしのこと何も知らないって言ってるけど、あっちは全部間違って覚えてるのよ。何も知らないのと全部間違ってるのって、おなじことじゃないの?」
「いや、その気持ちは分かるが、ここではあの子が主役なんだ。だから……」
「なんであの子が主役なの?」エイダが憤慨する。「あの子、こないだあたしの巻き毛を鋏で切ったのよ!」
「えー、ひどーい」
「あんまりきれいなので、あたしがもらっておきます、だって」
「いや…それはそれとして……」
「苦戦していますね、ドジソン先生」
 にやにや笑いながら、どこからともなく女教師が現れる。
「小さな子を教えるのはコツがあるんです」
 そう言うと女教師は、その小柄な身体のどこから出るのか不思議なくらいの大声で叫んだ。
「生徒集合! 全員整列!」
 女の子達はぴたりと整列した。

「で、あなたは何になるんですか?」
 すっかり赤の女王様の格好になったアリスの母親は、微笑んでキャロルに言う。
「そうですね……やはり白兎でしょうね。やはり作者ですからな」
「そうかしら?」
 くすくす笑って女王様は、男の身体を指さした。
「その身体で?」
「あ」
「あの子が言ってましたよ。着替えの時、よく先生に覗かれるって」
「なんであの子が出歯亀なんてしっているのかなあ」
 男の身体は、亀まがいに変身していた。身体は亀、甲羅の代わりにカメラを背負った格好で。
「……まあ、そんなのも、ちょっとわるくない」


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