言い間違いに関する考察(フロイトではない)

 長年の習癖で、どうしても、「シュミレーション」と言ってしまう。

 「シミュレーション」のほうが原語の発音に近いことは重々承知しているのだが、なぜか「シュミレーション」と言ってしまう。私にとっては、「シュミレーションゲーム」と一続きの単語で覚えてしまっているのが一因かもしれない。「Simulate」という英語と、「シュミレーションゲーム」とは、まったく関連の無い言葉として記憶されてしまっているのだ。

 もうひとつの原因として考えられるのは、日本人にとって、「シミュ」と発音することは困難であり、「シュミ」と発音するほうがずっと自然であることだ。「シ」のような無声の摩擦音に続けて「ミュ」のような撥音を発音することは、日本人にとってよほど困難なことではないだろうか。しかも「ミュ」は元来日本語にはない音素であることが困難を倍加させる。「ミュータント」「コンミューン」「ミューレン」「夜明けのミュー」すべて外来語である。「シュ」なら、種、手、酒、朱、主、いくらでもあげられる。「カミュ」なら「カ」が有声音なので、まだ簡単だ。しかも不条理ではあるし、高級酒であることだし。「コミュニケーション」は大事なことだ。「エミュ」は絶滅してしまったので、まあよしとしよう。

 同じような例がナチスドイツの宣伝相ゲッベルスである。これも私はずっと「ゲッペルス」と勘違いしていた。パソコンのフォントでは濁点と半濁点を区別することが困難なので、ますます誤解が長かった。もっとも、本で読んでも、私の意固地な言語野は、「ゲッベルス」という文字列を「ゲッペルス」と変換してしまっていたのだが。
 それに、「ゲッペルス」という別人がナチスドイツにちゃんと存在したことも混乱に拍車をかけた。マグダ・ゲッペルスがゲッベルスの妻だと長い間信じ込んでたなんて、そんなことがばれたら、知人から軍国主義者呼ばわりされている私の威信はどうなる。(そう言えば、リーガンが大統領になった途端レーガンになった時も混乱した。しかも補佐官がリーガンだったから)

 彼も「ゲッ」という濁点を含む撥音に続けて「ベ」という濁音がまた続くという日本人にとって困難な発音を強制する。日本人は清浄を重んじるので、濁音が連続するような醜い発音には耐えられないのだ。「ドッジ・ライン」は日本人から忌み嫌われたし、「ドッジボール」もその語感が祟って、小学生でやったことのない生徒はいないというくらい普及していながら、未だにオリンピック種目として認められない。「バッジ」を集める多くの少年は、「バッチ」と言い換えることで収集家の自分を正当化した。

 それにひきかえ、撥音に続く半濁音は、半濁音が締めくくる働きをするので景気がよい語感を与える。「大怪獣ガッパ」「ドップラー効果」「がっぷり四つに組みました!」「めりけんジャップ」「がっぽり大儲け」「出っ歯の亀吉、略して出歯亀」「やっぱり僕もタイヤキさ」「サイダーの後のゲップ」など景気のよい例をいくつも挙げられる。
 おそらくプロパガンダに心を用いたゲッベルスのことだから、日本用には自ら「ゲッペルス」を名乗るくらいのことはしたと思う。「ゲッベ」「シミュ」などという発音は、そもそも日本語に無かった発声なので、日本人に正しく発声しろというほうが無理なのだ。「ゲッペ」「シュミ」と読み替えてしまった日本人の言語感覚の確かさこそ褒め称えるべきであろう。といって自分の言い間違いを正当化しておく。

 でも、アメリカ人は、何で「長野」くらいちゃんと発音できないんだろう。バッカじゃなかろか。


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