食い物がらみの話を支離滅裂に

 田舎から出てきた人間が、料理屋で失敗するという伝説は、いろいろある。

 明治の大富豪、大倉喜八郎が初めて東京に出てきたとき、蕎麦屋でもりそばを頼んだ。出てきた蕎麦の付け汁をせいろにぶちまけたものだから、汁はせいろの下から全部こぼれでる、あたり一面びしょびしょになる、親父に怒鳴られる、散々だったという話がある。
 この話を直接大倉氏に確認してみた物好きがいた。大倉翁、からからと笑い、
「命がけで江戸に出てきたものがそんな不注意なことで天下の大富豪になれるか」
 と、一喝したそうである。
 この蕎麦の話は、登場人物の名前だけを変えたバリエーションが多く、与謝野晶子にもおなじ話が伝わっている。

 菊池寛にも似たような話が伝わっている。
 高松から東京へ出てきた菊池寛。学業は優秀だが、世間知らずである。貧乏でもあった。あるとき蕎麦屋にはいる。品書きをみると、「もりかけ8銭」というのが一番安い。そこで、
「おい、もりかけをくれ」
 どっちが出てきたかは明らかでない。

 最近でも似たような話がある。確か中島らもだったと思う。やはり東京に出てきて間もない貧乏時代。腹が減って料理屋に飛び込んだ。品書きを見ると、「オニオンスライス50円」というのが格段に安い。それを頼んだ。
 ほどなく、玉葱を薄切りにして上にオカカをかけたものが出てきた。若き日の中島らもは、手をつけずじっと待っていた。「ライスはまだかな」と思いながら。

「店の味、必ず落ちるの法則」というものがある。
 美食家達の話を聞いていると、「あの店も最近味が落ちた」「あそこもサービスが低下して…」と落ちる話ばかりする。上がるのは値段だけ、というのが定説である。
 たまには「あの店は最近味が上がった」とかポジティブな話をしてみやがれ!という苛立ちはもっともだが、これはやむを得ないことである。
 将来旨くなりそうだが、いまは不味い、というような店に通う酔狂はいない。その時点で旨い店にしか、人は集まらない。
 従って人が通う店は、常にピークの状態である。あとは現状維持か、落ちるしかない。
 だから店は「味が落ちた」という評判しかないのである。
 しかしよくしたもので、味が落ちた店の横には、最近旨くなって、視野に入ってくるようになった店が、必ずある。
 もっともこれは、常にアンテナを張っていないといけない。
 友人と一緒である。昔からの友人は死んだり遠くへ行ったりで、減っていく一方である。新しい友人を仕入れる努力を怠ると、私のように、気づいたら一握りの知人、という有様になる。
 まあ、年賀状を書く数が減ったというのが救いか。

 この間読売新聞に買収されてしまった中央公論、あそこの文庫は食い物の本が充実していた。
 なにしろ、戦後日本の食味随筆ベスト3といわれた、「壇流クッキング」(壇一雄)「食は広州に在り」(邸永漢)「私の食物誌」(吉田健一)がすべて中公文庫なのである。
 他にも、「食味随筆」(子母沢寛)「御馳走帳」(内田百間(月))「食味歳時記」(獅子文六)「野草の料理」(甘糟幸子)「男のだいどこ」(荻昌弘)「味な旅 舌の旅」(宇能鴻一郎)などが続々揃っている。
 こういう本を読むのが好きだ。
 「食味随筆」は子母沢が記者時代、大富豪、貴族、俳優、政治家など綺羅星の如き偉人に、うまいものを語らせた記事である。
 野田岩、浪華屋、丸梅、二葉亭、新富寿司、八百善、錚々たる店が登場し、これを食わねば人間でないといった勢いで語られる。
 しかし昭和初年の話で、多くはもう店はないし、店が残っていたとしても味は変わっている。追体験する方法はない。
 だから私は安心して煎り豆をかじりながら読む。
 壇一雄は世界中を駆けめぐり、美味を追求する。吉田健一は酒を供に日本の美味を発掘する。内田百間はあくまで個人的な体験から味の記憶を掘り下げる。
 私は安心して、煎り豆をかじりながらそれを読み飛ばす。
 私に許された唯一の贅沢なのかも知れない。

 それにしても、すごくうまい天麩羅って、どこで食えるのでしょうね。


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