そして神話になった
神話とは不合理なものである。
我々に身近な日本神話をとってみても、何がなんだか分からない。
天地初めて発けしとき、いきなり天之御中主神という神様が出たらしいが、その辺が妙である。
日本の神様はそんなに簡単にわいて出るのであろうか。
八百万といっても、あまりに安易すぎないか。
イザナキとイザナミの話も変である。
「私の身体には引っ込んだ所があります」とイザナミが言うと、「私の身体には、出っ張ったところがあります」とイザナキが言い、「では、その引っ込んだ所に出っ張ったところをあてがってみましょう」「そうしましょう」となって、(途中検閲のため略)それから神々が生まれるのだが、何か不思議である。
乳房だって出っ張ってると思うのだが。
イザナミは貧乳だったのだろうか。
その後この二人はやりまくって、イヤになるくらい神々を無数に生むのだが、最後にヒノカグッチという火の神を産んだとき、陰部が焼けてイザナミは死ぬ。
普通、先に子宮が焼けないか?
それに、その前に日本列島を産んでいるのだ。火を産んで焼けるくらいなら、九州を産んだ時点で、裂けると思うぞ。
とまあ、神話なるものは今の常識を持ってしては計り知れないところがある。
そこが面白い、という見方もある。
神話には神話の思考体系があって、それはそれなりに辻褄が合っている、というわけだ。
現在の我々は、西欧的な近代合理主義の思考体系の枠組みの中にいる。
だから、違う枠組みの神話は、荒唐無稽なものととらえがちだ。
しかし、神話には神話の思考体系がある。
近代合理主義の体系から、神話の体系を解読すること。
違う体系の思考が存在すること。
神話の本は、それを教えてくれるから楽しい。
しかし中には、現地でのフィールドワークをやりすぎ、現地の思考体系にどっぷり浸かりすぎたため、近代合理主義思考体系を喪失してしまったのではないか、と推測される筆者もいる。
もはや神話の思考体系に染まってしまい、自分の書いていることが近代合理主義の体系から異常に見えるかどうかの判断ができなくなっている。
いきなりわけのわからない文章が始まり、それが当然のように話は進み、なにも説明はしてくれない。
例えばバンダ諸島、ボンカジ島に伝わる神話である。
筆者はグウェン・ポニャトフスキという、何人だかちょっと分からない名前の人である。
略歴は書いていないのだが、冒頭に「我が師、カスタネダに」とある。
おそらくアメリカの人類学系の学科を卒業したと思われる。
彼はそれから数年間、ボンカジ島に滞在し、住民から神話伝説を採集していたらしい。
おいおい、じゃあギリショテンビニアが最初の創造神ちゃうんかい、と突っ込みたくなるのだが、この筆者はそんなこと無視して突き進むのである。
おお、よくある洪水説話だな、と思って読み進むと、なんだか変なことになってしまうのである。
なんか、どこかで聞いた昔話のようだぞ。
それにしても海の王と海の神の関係はどうなっているのだろう、などと考えつつ先へ進むと、
と歌った。ペペンヤリニヴァはそれを聞いて、娘を小屋に誘い、一緒に寝た。
何故だ、なぜシャコ貝ごときにそんな力があるのだ。
いきなり娘を出すなんて卑怯だぞ。だいたい足萎えの象皮病の物乞いがどうして娘なんか持てたのだ。
そんな、わけの分からない歌が恋歌になるのか?
だいたい娘と平気で寝るなよ、おまえは自分の娘と知ってるだろうが、ペペンヤリニヴァ。
なぜなんだ。
説明してくれ、と懇願しても説明はむろんのこと、ない。
だからさあ、そのルピナムンティシュイって誰なんだよ。
生まれたばかりの癖に村長とタメ口きく赤子も凄いが、何故村長はそんなに怒るのだろうか。
泣く子供にそんな淋しい歌を歌っても、泣きやまないと思うぞ。
おお、ここでやっと大波が出てきたか。長い伏線だったな。
しかし、海の神の名前、違ってませんか?別人?
なぜ、メンドリの鶏冠を食いちぎるのだ?それ、蔑称なの?尊称なの?
母親もさっき父親とやったかと思えば、こんどは息子と。
おもいっきり重傷の近親相姦でんがな。むちゃくちゃでんがな。あきませんわな、こりゃ。
と、なぜか、桂朝丸(現:ざこば)の口調になってしまったが。
これ、横溝正史だったら、全3巻にわたっておどろ絵巻が繰り広げられるぞ。
京極夏彦だったら5巻はいくかな。
しかし、こんな不道徳なことが許されるのか?この社会では。
などと疑問は星のごとく降り注ぐが、神話はもう完結していて、何も答えてくれないのであった。
最後にひとつだけでいい、教えてくれ。
ペペンヤリニヴァは一体どうなったのだ。