官能小説

 全裸のまま全力疾走で深夜の住宅街を駆け抜けた留美は、息を切らせながらご主人様の部屋のドアを開けた。ご主人様はつまらなそうに言った。
「お前……、最近、羞恥責めに慣れてないか?」
「えっ……そんなこと、ない、です」
 留美は否定したが、内心でぎくりとしていた。最初の燃えるような恥ずかしさが、いまはないことに、自分でも気づいていた。野外露出もカーセックスも、路上放尿すらも、あの全身が火になる感覚を蘇らせることはなかった。
「普通、なんだよな。慣れてしまうと」
 ご主人様はそう呟きながら留美の首輪を外し、下着を与えた。
「次までに新しいプレイ考えておくからさ」

 それが、こんなことだったとは……。
 留美はぎゅっと目を堅くつむり、渋谷のセンター街をゆっくりと歩いた。走ることはご主人様が許していなかった。雑踏のひとりひとりが留美の姿を見つめているような気がした。恥ずかしかった。大声で叫びだしたいほど。体が熱かった。あの、昔感じた感覚が、蘇ってくる。
 ――やだ、あたしったら、こんな格好にされて、感じてる……。
 留美はウィンドブレーカーに身を包んでいた。今では着る人もいない、あの紺地に二本線の、薄っぺらいやつだ。しかも胸には、こう書いてあった。「adios」
(やだ、だっさいジャージ)(ウィンドブレーカーって言うのよ、アレ)(それにしてもすっごいセンスね)(見てみて、あれ、しかも、バッタモンよ)
 みんなの嘲り声が聞こえてくる気がする。邪険に突き飛ばされた。留美は目を開けた。涙が少し、目尻に溜まっていた。霞む目で109を見ながら、留美は歩き続ける。どこまでこの格好で歩けば、ご主人様は許してくださるのだろうか……。

 通勤時間を少し過ぎた時刻。留美は電車に乗り込んだ。今日は高校の制服を着ている。空席を見つけ、留美は座った。ご主人様に言われたとおり、コミケットカタログを、表紙を上にして膝の上に置く。これだけでも恥ずかしかった。
――電話、かかってこないで……。
 留美は祈った。隣の席の老紳士は、神経質で怖そう。向かいのおばさんは、口が軽くてお節介そうだ。斜めには同じくらいの年の男の子のグループもいる。こんな人たちの前で、恥をさらすなんて……。
 しかし打ち合わせ通り冷酷に、留美の携帯電話の着信メロディが鳴り出した。おじゃ魔女どれみのテーマだ。
 そのとき、隣からいきなり声をかけられて、留美は全身が硬直した。
「きみ、電車の中では携帯電話は切っておきたまえ。マナー違反だよ」
 神経質な老紳士だった。留美は丁寧に頭を下げた。
「すみません。すぐ切ります」
 切らせてもらえないことは分かっていた。ご主人様からの電話だった。留美はご主人様に覚えこまされた文句を、できるだけ明るく、暗誦した。
「はい、留美……、あ、あんた? なんだ。あたしはときメモ2より昔の方がいいなあ。沙希? やっだー、あんた沙希萌えなの? 弁当屋じゃん、あれって。あたしは何と言っても伊集院サマ命!ですからね」
 車内には妙な沈黙が走った。留美のうわずった声だけが、冷たい空気の上をすべるように、流れていた。隣の老紳士も、呆れたのか、もはや何も言わなかった。

「お前にゃ負けたよ」
 ご主人様は終着駅で留美を迎えると、いきなりこう言った。
「俺と地獄まで堕ちるか」
 留美はこっくりとうなずいた。車内でこわばっていた顔がいっきに緩み、涙が止めどなく出てきた。ご主人様は、留美を優しく抱き留めた。
「これを使え」
 ご主人様が差し出したのは、見慣れた化粧品だった。留美は使わないが、同級生で使っているのがいる。いわゆるガングロ化粧品だった。
「で、これを塗ったら、これをかけろ」
 黒いサングラス。これでいったい、何をするというのだろうか。どういう意図なのだろうか。どんな目的があるのだろうか。
「俺も同じ格好になる」
 本当にわからない。ご主人様は何がしたいのか。
「で、歌舞伎町の広場に行って、ふたりで『街角トワイライト』をハモるんだ」


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