猫は行く

 その見知らぬ人物は、病臥する男の話を聞き終わると、少し微笑んだ。
「だいたいそれでわかりました。でも少し、事実と違うところがありますね」
「いえ、そんな……」
 寝たきりのまま弱々しく反駁する声をうち消すかのように、見知らぬ人物は喋りはじめた。
「私はいろんな人物から話を聞いてみました。隣家の主人、お医者さん、奥さんをはねた車のドライバー。イタコに頼んで奥さんにも尋ねましたし、果ては猫や蝶々にさえ聞いてみたのですよ。その結果、ひとつの結論に達したのです」
「……」
 見知らぬ人物はまた微笑んだ。その微笑みは、最初のものよりも邪悪さが混じっているようだった。
「この一連の事件は、すべてあなたが仕組んだ犯罪だったということです」

「そんな馬……」
 大声で抗議しようとした男だったが、激しく咳き込んだために中断されてしまった。見知らぬ人物は、そんな男を憐憫をこめて見つめ、話を続けた。
「私は最初からこの事件を見直してみました。まず、あなたの叔母さんのカルテと、残されていた叔母さんの薬をチェックしてみました。するとどういうわけか、カルテに記載されていない薬が投薬された形跡があったのです。副腎皮質ホルモンのコーチゾン、その類の薬が、かなり大量に投薬されていました」
 男は何も言わず、ぜいぜいと喉を鳴らすだけだった。
「あなたの叔母さんは確かに腎臓の病気でしたが、直接の死因はそれではありませんね。死因の心不全。死の間際にできたむくみ。すべてコーチゾンの副作用です」

 見知らぬ人物は、黙り込んでしまった男の存在を無視するかのように、しゃべり続けた。
「あなたの叔母さんには十数億の財産がありましたね。子供はいない。ですから、叔母さんの死後は財産の半分が姉の娘であるあなたの奥さん、半分は妹の娘である姪ごさんに相続される。あなたは、それを狙っていた。奥さんに隠れてひそかに作った愛人に、金を貢がされていたから。その愛人とは……」
「……」
「あの病院の看護婦、そうでしたね」
 男はなにも答えず、顔をそむけた。ふだんから悪い顔色が、いっそう蒼白くなっているようだった。

「看護婦とグルになって叔母さんを殺したあなたは、次に奥さんを殺した。もちろん、財産を自分のものにし、天下晴れて看護婦と一緒になるためです。あなたは素直な奥さんにいろいろと吹き込んで、猫を怖がらせるように仕向けた。怪談じみた話をさんざん聞かされて、奥さんはすっかり猫嫌いになってしまった。会社に行くと見せかけて、こっそり家に帰ったあなたは、家の猫をつかって、奥さんを脅かす。奥さんは道路にまろび出たところへ、車が突進してきた……」
「いや、それは違う」
 意外なほど平静な声だった。何の感情もこもっていなかった。年老いた漢文の先生が、漢詩を説明するような口調で、ゆっくりと男は言った。
「あれは……妻は最後までタックを、猫を愛していた。わたしがタックを道路に投げると、あれは悲鳴をあげて助けにいったんだ」
「そうでしたか。それは失礼しました」
 見知らぬ人物は、あっさりと間違いを認め、頭を下げた。
「これがわかったのは、あなたの犯した失策からです。隣の家の奥さんが事故を目撃し、あなたの家の戸を叩いたときは、さすがに隠れていましたね。でも、うろたえた奥さんが、慌てたあまり無人のはずのあなたの家に電話をかけたとき、あなたもつい電話に出てしまった」
「……」
「あなたはとっさに、会社にいるような演技をしました。隣の奥さんは気が動転しているうえ、もともとそそっかしい人だったから信じてしまいましたが、交信記録は騙せない」
「そう、あれは失敗だったな」
 男はゆっくりと言った。

「もうひとつ、あなたの失敗は猫です。あなたは猫を捨てたけどしばらくして帰ってきたと言いましたが、それは嘘ですね。猫は死んでいた……」
「あの薬を飲んでしまったんだ」
 男は乾いた声で答えた。
「そうですね、だから万が一解剖でもされると、あなたの犯罪が暴露されてしまう。だから捨てたということにして、遠いところへ埋めてしまった。しかし、なぜ替え玉の猫をつれてきたのですか。なぜ行方不明のままにしておかなかったのですか」
「怪談を完成したかった……からかな」
 男はにやりと笑った。その表情は、幽鬼を連想させた。
「隣家の主人に確認してもらいました。よく似ているが、たしかに昔の猫とは違う、とね。あの人は観察眼のすぐれた人ですね」
 男はもう答えなかった。

「これであなたは財産と女を手に入れ、幸福になるはずだったが、病におかされた……」
 見知らぬ人物は、いたわりがこもっていないこともない目つきで男を見やり、ゆっくりと言った。
「症状は進む。気も弱くなり、あなたは自分の仕掛けたトリックで自分が苦しむ羽目におちいる。自分で話した怪談に自分でおびえてしまう」
 男はなにも答えなかった。
「あなたは、もっと慎重であるべきでした。あなたが叔母さんと同じ症状なのは無理もない。あなたは叔母さんと同じ薬を飲まされているのですから。コーチゾンを投与しすぎると、次のような症状が出ます。皮膚の弱体化とむくみ、高血圧、腎障害、心不全、そして精神障害。重い鬱になって自暴自棄になったり、精神不安のため、自分でつれてきた猫におびえたり……」
「で、では……!」
 男はくぼんだ眼窩から血走った目を飛びださんばかりに見開き、かすれた声で絶叫した。しかし絶叫といっても、聞こえるか聞こえないかのかすれ声に過ぎなかった。
「そう。看護婦はすべて自白しました。四条警部が尋問しました。彼女は言いましたよ、巻き上げるだけ巻き上げたので、不要なあの人も殺すことにした、とね」

 見知らぬ人物は最後に、こう言い捨てて病室を出た。
「コーチゾンは猫をも殺す……」
 男は懸命の力をふりしぼって半身を起こし、呼びかけたが、その声はあまりにかぼそく、届かなかった。
「く、久遠寺さん……!」


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