バナナの皮

 有名なわりに実体のない理念というものがこの世にはある。

 たとえば、「バナナの皮」。
 バナナの皮に滑ってひっくり返る紳士淑女の話は、あまりに有名である。
「貧乏人がバナナの皮で滑ったら世間の同情を集めるが、金持ちが滑ったら笑いを呼ぶ」と言ったのは、ベルグソンだったか。いや、チャップリンかもしれない。
 しかし貴方、本当にバナナで滑ったシーンを漫画や映画で、見たことがありますか?実は私はない。話にしては有名なのだが、あまりに有名すぎて実際に使われることがないのだ。既にチャップリンの時代から。

 ところで、史上最初にバナナの皮で滑った人間は誰であろうか?
 バナナは南アジアの原産である。この地方の住民は、有史以前からバナナを主食や副食として利用してきた。従ってバナナの皮で滑る機会も多かったはずだ。
 ところが、この地は道路に舗装がない。土の道しかない。住民は藁で編んだ草鞋か、もしくは裸足である。これでは滑りようがない。

 バナナがヨーロッパに伝えられたのは15世紀から16世紀にかけてと思われる。大航海時代である。
 おそらくその時代のバナナは、珍奇なる果物として、王侯貴族の口にしか入らなかったと思われる。
 王侯貴族がバナナの皮をそのへんに棄てて顧みない、と言う事態は考えづらい。もし棄てても、召使いがすぐ拾うはずだ。
 したがってバナナの皮で滑るという事態は、偶然でなく、悪戯の産物であろう。
 当時の宮廷には、小人や巨人、髭女、シャム双生児、などありとあらゆるフリークスを飼っておくのが流行であった。彼らフリークスは道化師も兼ねていた。彼らが悪戯を仕組んだという可能性が高い。

 その犠牲者は誰か?王や貴族に仕掛けるのは危険だ。怒らせると怖い。やはり、宮廷に出入りする音楽家や詩人、画家など、権力がさほどない人間を狙うのが安全だろう。
 そこで登場するのがベラスケスである。彼は宮廷画家として16世紀スペインの王侯貴族、道化師のフリークスの肖像画を多数描いている。ところが、彼が描いた小人の絵は、すべて憎しみが込められている。猿と一緒に描いて小人を誹謗したり、女王の愛犬より小さい小人を強調したり。
 おそらく、彼は小人に恥をかかされたことがあって、それで小人を憎むようになったのではなかろうか?
 小人の置いたバナナの皮に滑って転び、王族や貴族に大笑いされ、面目を失し、それで小人を憎むようになったのではないだろうか?
 私は世界ではじめてバナナの皮で滑った男を、ベラスケスであると認定する。

「バナナの皮」と同じくらい実体がなさそうな概念に、「蒟蒻でオナニー」がある。
 蒟蒻といえばオナニーを連想するのが、笑いを取りたがる人間のいわば定石であるが、さて、蒟蒻に陰茎を突っ込んだことのある人間が史上どの位いるかというと、疑問である。
 貴方は蒟蒻でオナニーしたことがあるか?実は、私にはない。研究不熱心で申し訳ない。

 はじめて蒟蒻を性的に利用した人間はというと、これは日本人で間違いない。
 なぜなら、蒟蒻はほぼ日本だけで食べられる食品だからだ。
 日本では6世紀頃から食用として栽培されたことが、文献から知られている。
 推古天皇の御代である。
 すると、蒟蒻でオナニーした最初の人物は、聖徳太子であろうか?
 しかし、当時の蒟蒻は、今の田舎蒟蒻と同じくらい堅く、砂も多く入っているものと推定される。
 これは痛いし、砂が尿道に入って膀胱炎を起こす可能性もある。
 だから蒟蒻を斯様な用途に転用できるようになったのは、明治以降、今のような柔らかく砂の少ない蒟蒻が作られるようになってからではないだろうか。

 私の知る限り、蒟蒻の性的使用法を書いているのは、明治時代の奇人ジャーナリスト、宮武外骨の「千摺考」が初めてである。この本は未だ復刊されていないらしく、残念ながら実見したことがない。
 宮武外骨の親友、森羅万象学者の南方熊楠は、そういう話題になると喜んで乗ってくるはずの性質だが、何故か蒟蒻オナニーに関しては沈黙を守っている。
 あれほど饒舌な熊楠の沈黙は、かえって意味深長である。
 実は過去にそんな例はなく、従って文献にもなく、書こうにも書きようがなかったのかもしれない。
 自分の体験を書くのは、恥ずかしかったのかもしれない。 
 熊楠の秘められた性癖があるとき宮武外骨の知るところとなり、そして著作に記録するところになったのかもしれない。
 という推定により、世界で最初に蒟蒻でオナニーした人間を、南方熊楠と認定する。


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