ものすごくダラクしてるな....
が、まあ、いつだったかに書いた抱負にちょっと近いのは確かなんで、ま、いいや
:-)
さて、今日は大掃除。キーボードの掃除なぞする。 atropos の奴は 101 キーである。一個一個それなりの洗剤浸けて拭いていくのだが、 .... あたりまえだが 101 回繰り返さなければならない。
「ふっ。109 キーの奴め、1 割近く多いでやんの、大変だなあ、ええ?」と 109 キーを使っている知らない人の顔を思い浮かべ対比して安心しようとなんだろうと 101 個というのはやたらに多いという事実はぜんぜん動かないのであった。 それに表面積は 5% も違わんし。 OmniKey は本来キートップリムーバが付いて来てるんだけど、 んなもんどっかにしまってしまった。 次回までに探しだそう。たぶん PC 系のジャンクの箱の中だろうが....
ところで洗剤は FUJIFILM の レンズクリーニングリキッドを使った。
光学レンズ用でかなり高価である ;_;
そのうえプラスチックには使うなと書いてある^_^;;
揮発性で細かい部分に入り込んでもほっておけるということと、
静電吸着な汚れに対して
ふつーの OA クリーナとはケタの違う凄まじい威力を発揮することもあって、
切札としてマシンの汚れ落としにあちこちで使ってしまった。
ちなみにコレで落ちなかった場合、オリンパスのエーテル系洗剤の出番だが、 今回は使わなかった。
コミケに火炎瓶を持ち込みし男ありけり。
.... 犯人が捕まることがあろうとは思わなかったぞ。
コミケカタログに載る、賠償金は親類縁者が払うんだぞ、とか
有罪になれば我々(準備会)に補償しなければいけないんだぞ、とかいう
大嘘も犯人が捕まらない間は笑っていられたけど、
捕まったとなるとなんだな、このテの間違いがあるのばマズいんでないかな。
『彼氏彼女の事情』
Act:14.0「(前編)」, Act:14.5「(後編)」,
そんな訳で総集編。曜日まで違うぞ。
あんまりみるとこなかったので略。つーか、掃除のかたらわで観てたので
いままでのと違いがあんまりない、ということしか分からんかった。
マンガレポートの謎。
約 2000 コマであるらしい。これに約 10 時間かかるから、
36000 秒 / 2000 コマ = 18 秒/コマ。1 コマに平均 20 秒弱かかっていることになるが、そんなにかけてる覚えは まったくないんだけど.... 3 秒/コマくらいのつもりでいるんだけども。
IBM-PC のケースは理論上どこまで小さくなりうるだろう?
もちろんチップサイズまでにきまっとるやん、という話は脇においといて、
ノーマル AT マザーを使ったとしての話である。
ATX や micro ATX は AT より確実に大きいので却下、LX, NLX は癖が強すぎて却下。
ま、そのうち NLX モノも考えるかもしれないが...
AT マザーの幅は 220mm, 奥行きは ISA カードサイズの 333mm, 高さはカードの 90mm
が限度だから 230x340x100 がほぼ限度になるだろう。
これに電源は入るとして、あとは HDD が 1 基ってとこかな?
で、買ったケースは 230x450x155 で幅はマザーにキチキチで、
他のケースを見慣れていると
マザーが入りそうにない錯覚を起こすが、たしかにぴったり入った。
高さの 155mm はちょっと余裕があり、もう少し下げられるようだけど、
んなことしたら空気の流通が悪くなりすぎるのは明らかだ ──
suezo のケースは高さ 100mm で、これはこれで詰め込まれ方は感動的だけども
(ケーブル引き回しはパズルな上に整理整頓しないと
フタが閉まらんので中は綺麗 :-)。
奥行きの 450mm はかなりの余裕があるようにみえる。ただ 5inch ベイに 180mm もの
モノがつっこまれる可能性がある訳で、
計算上は最悪でフルサイズカードは 1 枚も入らない。
高さが 155m しかないからベイになにか 2 段に
つっこめば下側のやつはまちがいなくカードの上に重なることはできなくなるから。
って、ハテ DVD drive の奥行きってどんくらいだろ?
まだ PC としては組み立ててない(まだ部品がいくらかたりない)から出来上がりの感触は分からない。
とりあえずシャーシの造りはいい。エッジは折り返してあって、ケース幅を広げるのに
ちょっと貢献している^_^;;
ついてきたマニュアルはこのケースのとはちょっと違うやつ用のだけど、
シャーシに関しては似たようなものか、
たぶん、このケース 2 段重ねとか横に繋げられるらしい .... ほんとかよ。
150W の電源ノイズはさすがに atropos の Power&Cooling の Silencer 230W
とは比べる気にならずけっこう大きい。suezo の 250W モノと同じくらいか?
しかも消費電流(or 温度)によってファン回転を制限するタイプでないらしく
何も繋がってないのにファンが全力運転している。グリーンキーなるスイッチが前面に
ついてるとゆーのに何も繋がってないようだ...??
ただ、ファンは電源部の入口側(ケースの中のほう)についていて、
そのへんは騒音対策なんかな、と想像させるものはあった。
これってもしかして micro ATX 用の電源かな?
でもファン由来の騒音ってケースでの風切り音だから、ファンの位置がドコでも
あまり関係ないんだけど。
ところで今日、買ったものにはコミケカタログというものもある。 今回(29, 30 日)のコミケにはエージェント:-)が立ちそうなので 私自身は行かなくてすむかもしれないけど、 ま、なんにしてもカタログのマンガレポートは楽しい。 これ、たぶんコミケが始まる前までには読み終わらんのだろうな ....
コンテンツのほうの修正は... だからあと 300k 以上あるんだってば。
さすがにこれだけあると校正が面倒で面倒で ...^_^;
で、今さっき WWW 上で動かしてみた。ぜんぶロードして回線を切ってみたら ...
へえ、外部 JavaScript file (*.js) ってネスケのキャッシュに入らないんだぁ。
せっかく full load してるのに回線切ったら動かんかった -_-;;
『世紀末の詩』、最終話。
ここんとこは観てなかったけど、
亘のほうはどーでもいいんだけど、教授の顛末だけは見ておきたいってんで最後話は観た。
亘がタイムカプセルから絵を広げたところ、おもわず眼に涙が浮かんだ。
そうですか、「それは生涯の夢」ときましたか .... 約束オチではあるけれども。
お嬢様の筋は迫力がなかった。つまり亘の表層の語りでどうにかなるような心情なら
3 年もお遊びが続くとは思えん ── もちろん亘の経験談に基づく迫力が出てればいいけど、
べつにそーゆー語りではなかった。
亘の筋は意味不明だった。とりあえず「あなたを奪いにいきますから」「ええ」は無いだろう。
分かってるんならわざわざ婚約者の目の前で手に手をとって逃げるこたーあるまい。
婚約者さんに迷惑かけるだけだし、後処理も面倒。
そして相互に筋がほとんど絡んでいなくてひでー造りだし、
安っぽい演出と撮影で、やる気あんのか? という出来だったけど、
でもまあ泣けるトコが一ヶ所あったからいいよね。
『彼氏彼女の事情』
Act:13.0「幸せの主観」
..... こう疲れてなければ面白かったかも。
相変わらずの尺の短さが気になる(中身 20 分ないぞ) ── うえに次回は総集編かい。
それはともかく前半のアップテンポなギャグと後半のローペースなところが
きっちり balance してた。
(雪野いうところの)「有馬と芝姫は同じ」から
「一馬と芝姫は同じ」というところへもっていった論理のこと。
そう簡単に同類が見つかるんじゃ孤独も何もないだろうとかいうことは脇に置いておくとして、
いや置いときたくないな。
世の家庭の半数以上が共働き、子供のいる家庭の半分が一人っ子というこの時代、
かなりの子供が家に戻った時に家には誰もいないという状態の筈である。
再婚相手の子供が長いこと孤独におかれてきていうことも論理的に必然である。
だから、同類が簡単に見つかっていることは状況的に問題がある訳ではない。
でもこれを理由に「姉弟(兄妹:-)みたいなもの」とするとちょっと、なんだな、
人類みな兄弟の世界になってしまうな。
他人ん中に自分と同じものをみつけて安心するというのは非常にありそうなことだけども、
その論理は孤独が癒されるというのとはちょっと違う。
── そうでもないかな?
依ってたつ基盤に同じところがあるという意味でなら、それは会話がなりたつということだから。
本人が必要とする部分について会話がなりたてば、その筋が同調だろうと対立だろうと
有難いことだろう。
意見、価値観を同じにするという意味で「他人と同じ」という
非常にくだらない「同じ」とはちゃんと違う。
今回の一言:
「ううん、あたしの友達に似てる」3 重に深い。雪野が「友達」だし、芝姫の価値観において「似てる」ということだし、 「似てる」に positive な意味を持たせてるし。
dti.ne.jp への移行は知っていたけど、移行期限のわずか 2
週間前な段階で止めるとはやってくれる ...
私が「1999 年問題」( ne.jp 移行猶予期限が 1999 年 1 月)
に引っかかるとは思わなかったい^_^;;
ちなみに移行期間は 2 年もあったが、 なお混乱が予想されるとかでさらに 1 ヶ月ほど延びたそうである。 これを聞いた時は「まだ延ばすんかい」と思ったもんだが ^_^;;;
一応笑ってられたのは
アサヒネット(asahi-net.or.jp) は ne.jp へは移行しない、はずだからで、
mail address のほうは既に kensyu@y.email.ne.jp に移行してしまっているというか
そもそも bg3k-ysd@asahi-net.or.jp はロクに使ってなかった。
アサヒってば何気に ne.jp な domain name を二つ(email.ne.jp, www.ne.jp)
も持ってるんだけど、その割には WWW は移行しないのねぇ...
とのんびり構えていると実は移行する、という話もありそうだけど、
猶予期間のここ 2 年、一度もそういうアナウンスをユーザーの私が聞かなかったんだから
まさか移行はあるまい。
という訳で、ひさしぶりに dti.ne.jp なサイトを回遊した。
『ロボットと帝国』ハードカバー初版は 1988 年ですか... 本気で 10 年たってますねぇ、
しみじみ。
どもです > 高橋@hope さん
私がいつハードカバーを買うかといえば、.... 実はハヤカワ SF のハードカバーは一冊しか買ったことがなかったりする。つまり、
D. キイス 『アルジャーノンに花束を』ただ一冊。これは落ちて来るのを待つのを諦めた。これは許せた。 私的ハヤカワ SF ランキング 1 位でもあることだし。
ちなみにビデオにめったに保存録画しないのもよく似た理由である。 VHS カセットひとつの空間があれば、 文庫が 3 冊は入る。だから、少なくとも「文庫 3 冊分」? は面白くないと保存されることはない。
ジェネレイターガウル。
ベンフォードオチかベアオチか... 時間のループのところで
タイムパラドックス概念を直接扱う場合、操作側の「現実」は変わる/変わらない
のオチしかない、さあガウルの明日はどっちだ?!
ってとこで最終回。
しかしこの話、本当にタツノコが消化してみせたエヴァなんだな。要するに ....
説明のしつこい前半と、心理世界の後半と、ついでに未来が望むままに出現するなんて。
8 年も準備する期間があったわりには道具立ての不足が情けないぞ > コウジ
今回の一言:
「作りましょ、あたしたちで。素晴らしい世界を!」この一言のインパクトでそれまでの展開をすべて忘れた。 ここへきてそうくるか ... 恥ずかしげもなくえらくしっくりハマった言葉であったことよ。
ロボットものとファウンデーションシリーズをつなぐ要になる話で、 ロボット系の特有の理屈っぽさ(つうか屁理屈っつうか...)が全体を覆っているので どちらかといえばロボット系の最後の話になり、 実際主人公もダニールやジスカルドだろう、... なんてことはわりとどうでもよく、 pre-Foundation series として心理歴史学の予感を語るのが いかにも科学の在り方に肯定的なアシモフだなあ、と思う。 足元を固めるような論理だけで未来を語ることができている展開は かなり好きで、それと対応するかのように語り手のジスカルドが 第二ファウンデーションの連中よりも極悪非道なことをやっているというあたり、 事実として科学の諸刃の剣を描き出したことになっているのは ── ま、計算のうちなんだろうな、Asimov だし。
Spacer world から Settler world へ繋ぐシリーズは 話にかなりの無理があって、読んでいてけっこう疲れる。 この話でも綻びはぜんぶジスカルドに押し付けて作者は頬かむりしているんだけど、 そういう役所だからあんまり気にならない ... のか?
この一言:
「すべての人間に敬意をはらうだけでは充分ではない、 知性ある存在にはすべて敬意をはらうべきです。 ですからわたくしは彼らをここに連れてきました。
わたくしはまちがったことをしたのでしょうか?」
ついで。
Load av. があっさり 1.0 に達している。
つまり busy-loop で回しているらしい。
この辺はせめて NT のマネして欲しい ...
内容的にもみるべき点は無いようなので、省略。
ざっと眺めてみると、 個々の話としてはシリアスで重い話を好む割には 物語としては明るいものを上にもってくる傾向があるなあ。 うーむ、えらく難しいことを注文しているか? もしかして ...
kernel を 2.0.36 に上げ、module なども整備しなおした翌日に Debian 目的で
Unix User 誌を購入するあたりちょっとチグハグかもしれない ... ま、いいか。
ところで Unix User 誌は
DOS/V magazine 誌と並んで読むところのない雑誌というイメージがあるが、
..... やっぱ読むとこないな。
CD-ROM 2 つで約 1Gbytes, 64kbps で落とすと約 2400 分。
3 分 10 円なら 8000 円ほどで、確かに CD-ROM のが安いけど、
Internet 上にあるほうが新しいし、それに実際には 200 Mbytes も使わない
(そんなにディスク余ってないって^_^;)ので、
1400 円もだせるかどうか毎回迷うんだよなあ。
ところでこの V.F.E, 急の完全閉鎖で下に潜れない。 困ることもありそうなので直下 URL のうち、まだ存在しているものをここに掲げておく:
... も、寝ます。お休みなさい。
「ちょ、ちょっとまてい」そんな訳で、只今マシンの電源をきることができなくなっている .... 落としたが最後、二度と立ち上がらないだろう。
その gicq もなんか動作がヘンで、gtkwidget.c
が warning 吐いてる-_-;
registration のやりかたもわからんし ...
で、しょーがねーなあ、といいながら kernel 2.0.36 の get してる脇で VFE の閉鎖を知った。うわあ...
『彼氏彼女の事情』
Act:11.0「1 学期の終わりに」、Act:11.5 「夏の休みの始まりに」。
昨日書いた『ポポロクロイス』では、主人公の 3 人 ピエトロ、ヒュウ、ナルシアが
いちおう三角関係を構成しているが、心理的距離を大きく離らかしてあるために
そのままで各々について独立な筋が立つ。
個人的事情がしっかりと描かれる分、
それぞれの思想背景が単純であるにもかかわらず衝突(喧嘩)がきっちり映えている。
『彼氏彼女の事情』では雪野、有馬の心理距離が近すぎて、雪野の筋を立てる時には
有馬を物語から追い出さなければならない。
前回では雪野に拒否され、今回は京都にとばされてしまった訳で、
それなりに不幸な男である:-)
「1 学期の終わりに」
そんな訳で、有馬を京都に飛ばされる過程の話。
ちゃんとカレカノの主筋やってるなあ、という気になるのは、
慣れさせられてきているか。
「夏の休みの始まりに」
こちらは典型的なカレカノの副筋。
それにしても ... よく放送できたな。
勉強「だけ」できるってことは たいして有意義なことでもない。 ただ、芝姫が 13 時間/日勉強する脇で 1 時間/日で足りたとすれば、 のこりの 12 時間は哲学的瞑想:-)などに自由に使える訳で、 それはそれなりに力を生む。 とりあえずクラスのボスたりえるほどの力にはなった訳だし。
ところで。 めまいがするほど下手だ、 瀬奈りか役の声優 ...
今回の一言:
「こいつ心から祝ってやがる、
あれだけあたしに酷い扱いをされて 何故こころから祝える?!」
「うーむ ... 尋かないほうが良かったかな ....」知らないことになっているなら知らないままでもいいが、 知っていることになっているのに知らないのはまずかろう、 というので、ちょいちょいと捜し出した。 向こうのアクセスログを眺めれば軽いアタックにも見えるかも(汗)とか 思いながら(をいをい)....
しかし、逆にみれば存在だけ知っていれば URL を探しあてることは 本当に簡単なことな訳だ。 それはそれでちと恐いものがないでもない。
ポポロクロイス物語、『一粒の豆』
たまーにファンタジィだなあ(この物語の限界だなあ)、
と思うことがある。今回もそうだ。
手には豆が一粒ある。これは村人達の(来年の農業?)ためのものだ。 ところで、目の前には飢えて死にかけている仔狐が一匹。 さあ、どうする?という問いかけをしたところで A part が終わる、というきり方は鮮やかだ、 つうか、なんつう切り方だ ...
「パウロ、あんた意外と人気あるんだねぇ」この "その判断を我々は支持するだろう" という、 あまりに肯定的なものを眺める時、 「敵」であるガミガミ魔王への仕打が非常に '現実' なものにすぎる (名を取ったくらいで実がついてくるものではない)との差が .... まあ、もうちょっとガミガミには苦労して貰うのか ... ~_~;;
ところで、論理のレベルで悩んでいたピエトロより 態度と表情だけで悩んでいたヒュウのほうが脇筋ながら良い味だしていた。 やっかいなものとはいえ、形のはっきりしているピエトロの悩みは 所詮は単純なものだから。
DTI も ASAHI-NET もあんがい記事の欠落がある(1 - 2 % くらい)な、 と DTI に届いてない記事の経路をみれば、post 位置からアサヒに直接 渡ってきているような奴ばっかりである。 なんのこたない、ASAHI-NET の対ユーザー配送ばかりか、サーバ間の 配送も少しおかしかったらしい。
私を含むある種の人々は「〜〜 のようにすべきところだ」
などという発言をすることがあり、テキストそのものを信じていない。
N. Wiener がかつて語った ──
「(私の文章の)誤りが判らないのなら(私の)文章を読む資格はない」作者が書こうとした内容を理解するときでさえ、書かれている文章を 絶対視してはならない、少なくとも私はそういう教育を受けてきたし、 たとえば世のプログラムのソースを読む時にそれを絶対視できれば どれほど心安らかか、と嘆く人は多いに違いないと思う。
しかし、我々が「ここはこうすべきだ」と語る時、それは一般に
「ここはこうしてほしかった」という要望を意味しない。 むしろ、そういう感想によって そういう風に修正されたとしたら非常に失望することだろうと思う。 "Evangelion" という物語は何回も改訂されたが、原典は 最初の TV 版であり、一般に格上の扱いをしていることからも想像がつく。これは
「ここはこういう風にした時に非常に明確になる意図(だか意志だか)が、 おそらくは作者のやりたかったことなのだ、と私は 物語をみてそう理解した」という感想の、一種のレトリックなのだろう。 物語として描かれたことには、 作者の力不足でか、読者の観察不足、製作者の気分その他の理由によって 相互に首尾一貫した解釈が存在するとはかぎらない。 相互に矛盾したものを基盤におきながら論旨を組み立てるのは第一級の禁止事項だから、 物語の解釈理解に踏み込む時、そこには(他と矛盾するために)切り捨てられたものがあり、 それを上のように表現しているのだろう、と私は思う。
作品世界の理解において 「こうしたほうがよいはずだ」といって何気に それを基盤に混ぜることも第一級の禁止事項で、 その辺の危険性は上に書いたようにちゃんと理解してはいる。 しかしこの辺はテキストを絶対視すれば良い、としてすむ問題ではない。 どんな(矛盾のない)テキストが絶対視されるべきなのか、というのが問題なのである。
理解できないからといって矛盾しているに違いないと安易に切り捨てるのは 私の立場の最大の悪癖である(しかしあまり気力がない時はよくやる:-)。 これとは対照的に、無批判にテキストを受け入れることは、 とりもなおさずどんなことでも(論理的に間違ったことも) 語りうる立場を手にする危険を背負うことになるだろう .... ためしに「A かつ not A は真」について何かを語ろうとしてみれば分かることだ。
一義的にテキストを絶対的なものとみなす立場として、
あるメールのやりとりの中で「文献学」が挙がってきた。
これをみた時、手を「ポン」とうったものである。これまではそういう立場が
存在する理由さえ分からなかったのだが、
彼らが何を危惧してそういう立場をとっているのかが多分^_^;
分かったからだ。
と同時に、これは私にある面白い感想を抱かせた。
文献学においてテキストが絶対視されるのは、基本的には
書いた人と読む人との間に知識(知見)の共有がないことを前提にするからである。
解釈と読者の価値観の間に齟齬が生じれば、優先すべきは解釈であり、
それはまさにテキスト以外に信頼すべき知識がないからである。
ということはつまり逆にいえば、
テキストと作者の言い分との間に齟齬があることを発見できるとする私の立場は、
作者の言い分についてその場所のテキスト以外の知識を利用していることに他ならない。
ところで、私は常々作品外のたとえば作者の思想等の知識を利用して
作品を理解しようとすることに異を唱えて来た。
逆に、「文献学」の名を挙げてきた人は、
これまでもかなり積極的に作品理解に作品外情報を援用してきている。
これを面白く思わずして何を面白く思えるだろうか。
ちなみに、この点に関しては
作品外情報の利用を自覚してきたか否かという点において、
私のほうがやや分が悪いかもしれない :-)
ま。話はかなり遠いけどね。
atropos のハードディスクの電源を完全に止めてしまうにも、このシステムけっこー良いかも。
『彼氏彼女の事情』
Act:10.0「すべてこれから」。
この回を書かずして何の「カレカノ」か!? という回なので
別ファイル.... にしようとしたけどまだ書き上がってない。
楽しそうに製作している感じが伝わってきたのは面白かった。
でも遊ぶべきところとそうでないところが分かっていない感もあった。
ところで、ここでの「いじめ」をリアルでない、と主張する向きがあるが、
学力が権力に化けるほどの学力差がある場合の「いじめ」ってな、
あんなもんだと思う。
ただ、あまりにも集団の描き方が酷いだけで ...
今回の一言:
体育「10」!
「そおぉゆう問題かぁあっ!」
人の視力は分解能を分であらわした時の逆数(1' 離れた 2 線が離れてみえる時に 1.0)
なので、
つまりは
Coolshot II で得られる絵はどんなにがんばっても(どんな画像回復フィルターをかけようと)
視力 0.14 の人が裸眼で観た世界と同じ程度ということである。
... 実際には、4 pixels で画素一つ(3 原色揃う) なのとパンフォーカスなので
実効分解能は
これをさらに下回る。
近眼で (5m 離れた図に対する視力が) 0.14
などになっている人でも眼を対象に近づけると(ピントがあうようになって)良く見えるように
なるけど、カメラを対象に近づけたからといって分解能は上がったりしないから、
どっちかってえとマクロ能力をもつカメラのほうがこれは深刻だな。
自分自身の目でみた印象さえ写し取れないとカメラの印象は格段に悪くなるんだけど、 この計算、買ってから気付いた。 銀塩ではほとんど問題にならない事項だけに盲点だった ... 銀塩と違い、デジタルカメラではできるだけ望遠系のもののほうがいい、 という定性的傾向までは考察できていたんだけども、明瞭な閾値があるとは思わなかったい。
天体写真やってるのは基本的に自分の眼で眺めるより綺麗なものが撮れるからで、 自分の眼よりいいかわるいかってのはけっこう切実な観点なんである。
for(int iと書き出して 'int' を消すなんてことをやっていた。うーむ。
ところで、今日、ここの 2 周年である。1 周年関連の λ さえまだできとらんのに 何かある筈もないのだった。反省。