大船渡・陸前高田震災ボランティア報告その2

  ボランティア活動編 その1へもどる  
2011/05/11
 
         
 
4月27日、翌週から大船渡へボランティアに出かけるので、我孫子駅前のボランティアセンターでボランティア活動保険の手続きをしてきました。
我孫子の場合、市民なら保険料は無料です。 ただ、天災A保険で、B保険より若干保険金額が低額なようです。 センターには職員だかボランティアだか分からない二人がいて、女性のほうは長電話の最中、オジサンのほうは「私はわからないから」と逃げてしまいます。 かなり待たされて、右のカードを受け取りました。
 
 
 
 
5月2日、午前6時上野駅に集合して岩手へ向かいました。左写真の左が先輩Y氏、右が先輩K氏で後ろは支援物資を積み込んだY氏のエスティマです。
いざとなればうちのカローラバンを使ってもいいと思っていましたが、考えてみれば高速料金の割引を受けるためにはETCカードが必要で、付いていないうちのカローラではダメなのでした。
 
 
 
 
佐野サービスエリアで顔合わせ。左が後輩のKさん、その右が保母さんのMさん。写真から外れた右側にMさんの同僚Nさんと先輩O女史がいます。Nさんがかろうじて若手で、他の六人は定年前後の前期高齢者とその予備軍といえそうな世代です。
 
 
 
 
エスティマにはボランティア・ステッカーが貼ってあります。三月段階ではこれがあると通行止めの高速道路も通れたとか、一定の効能があったようですが、現在はほとんど象徴的な意味しかなくなっているようです。
 
 
 
 
同行車の前後にもステッカーを貼ります。風で飛ばないように四面をテープで停めますが、カルディナ・ターボのボンネットは凹凸があるのであまり密着しません。長い往復経路や、荒れた被災地ではがれないかとちょっと心配になります。
 
 
 
 
佐野ラーメン(Y先輩が貧弱だと怒っていた)で朝食のあと東北自動車道をひた走ると、仙台を通り過ぎたあたりから交通量が減り始めました。関東からの訪問客は大半が仙台で降りてしまうようです。あとで聞いたところ宮城県と岩手県ではボランティアの数が一桁違うとか。いかに仙台が楽天イーグルスを抱える東北の首都だとはいえ、もう少し偏らず、まんべんなくボランティアしてほしいものです。
 
 
 
 
昼食休憩の長者原SAにボランティアノートがありました。読んでみるとなかなか感動的な内容なので、みんな喜んで撮影などしていました。ボランティアや親族、帰省の人々の声と、それに赤字で店員さんたちのコメントが入っているところが泣かせます。
下はその一部です。
 
 
 
 
 
 
 
 
高速を降りて街中に入ると、左のような横断幕が目に付きます。謙虚で礼儀正しい東北人らしさが出ています。
二時間近い山道走破を経て、やっと大船渡市へ入りました。左下が宿となる民宿『あづま荘』です。民宿というよりは、かなりモダンなペンション風です。通常一泊8000円のところ、ボランティア割引きで5000円ということになっています。
玄関には岩手労連ボランティアセンターの表示(右下)があります。玄関は多数の長靴で埋まっています。
 
 
 
 
 
 
 
 
部屋割りが決まるまで玄関そばの部屋で待ちます。その間に崎浜を襲った津波のビデオ映像を鑑賞します。第一波の部分は少しだけで、第二波・第三波が町を洗う映像が映されます。
タイトルもあり、スタッフ名が縦に流れるなどビデオ編集能力の高さが印象的でした。これを製作したあづま荘支配人の友人はストレスのためか最近亡くなったそうです。ちなみにテレビが映るのはこの部屋だけです。
 
 
 
 
女性から風呂に入り、夕食まで時間があるのでそこらをぶらぶらします。玄関に猫が来て中に入ろうとするので、お手伝いさん(?)に「ここの猫ですか?」と聞くと、「野良ちゃんです。最初に来たときは痩せこけていたんですが、おかみさんがおいしい餌をたっぷり上げたのですっかり太っちゃいました」とのことでした。人懐っこく根っからの野良とは思えないので、彼も津波で家をなくした被害者なのかもしれません。
そうこうしているうちに小型バスが来て、今日出かけたボランティアメンバーたちが疲れた顔をして戻ってきました。
 
 
 
 
夕食は「ご飯と味噌汁だけは出るがおかずは自分で用意するように」と言われていたのにちゃんとハンバーグがつきました。(ベジタリアンの私は困りましたが)その後、大部屋で交流会という名の宴会が始まりました。私達は身内の自己紹介などを優先し、ちょっと遅れて参加しました。細長い十二畳ほどの部屋なので車座というわけにはいかず、なんとなく散らばってあちこちで分散的な話し合いになります。ただ、お互いにアクティブなボランティアなので気を使うことはなく、自閉症傾向で人見知りで初対面ではまったく話の出来ない私でも気楽な会話が出来ました。
残念ながら十時消灯なので名残を惜しみつつ解散します。
 
 
 
 
翌朝は十時消灯のおかげで早く起きられました。四時に起き出し、すでに明るくなりかけた表に出て太極拳などしました。
それから七時半の朝食までが長いのです。六時にはみんな起きだしてめいめい散歩に出たようでした。七時になり、廊下で「ご飯ですよー」と呼ぶ声が聞こえました。「七時半じゃないの?」と思いつつ広間へ行くと朝食が並んでいる最中でした。みんな早起きしたので朝食を三十分早めるよう要求し、それが通ったのでした。おかげでK先輩・Mさんなど終わった頃にきた人が数人いました。
 
 
 
 
朝食休憩のあと、8時半に岩手労連のスタッフジャンパーを着て玄関前に集合します。このジャンパーは裏地もあって縫製がしっかりしており、なかなかの高級品です。あとで出会った「お金持ち」連合ボランティアメンバーのユニフォームが赤い野球帽だけだったので「岩手労連無理してないか?」などと余計な心配をしてしまいました。
 
 
 
 
怪我予防の体操のあと、いよいよ大船渡市内へ向かいます。約二十人のスタッフは小型バスに乗り込み、他に一台のミニバンが付き添います。越喜来(おきらい)湾沿いに走り、三陸町を抜けて大船渡三陸道路に入り、約三十分で大船渡ボランティアセンターに到着しました。
 
 
 
 
大船渡市社会福祉センターの駐車場にコンテナハウスが置かれ、その中にボランティアセンターの受付が作られています。駐車場はほぼ満杯で、 自衛隊のカーキ色の車両や救急車など緊急車両、一般車両が頻繁に出入りしています。 ここが災害対策の最前線なんだなあ、と実感する風景です。
 
 
 
 

スタッフはここでワッペンを受け取り、そこにカタカナで自分の名前を書き込んで上着のよく見える所へ貼り付けます。二次災害があった時に身元を確認するためです。これが役に立つときは自分が被災した時なので、付けて嬉しいとは思えません。まあ、そのときはそのときですが。
ここで誰かが「今日のボランティアは何人くらいですか?」と質問しますと、「二百五十人くらいですね。今日は募集広告を出したので特別で、いつもは百五十人くらいです」という答えでした。案外少ないのに驚きました。

 
 
 
 
社会福祉センターのエントランスに自衛隊の炊事車両が二台駐車し、十人くらいの自衛隊員が活動しています。仕込んだ米の焚き具合を見たり、あふれたお湯を掻き出したりしているようです。玄関を入った中、廊下の片隅には二十キロの米袋が山積みされています。追加の米袋が有蓋車で運ばれてきて、またリレーでそれを積み上げる自衛隊員の姿も見られます。写真左のプラカードには、
『自衛隊炊き出し中! 炊事車両は一度に1000食炊き出しが出来ます。しゅくしゅくと作業していますが、気軽に声をかけてください。 陸上自衛隊 弘前駐屯地』と書かれています。
 
 
 
 
市側のスタッフとこちらの責任者Jさんとの打ち合わせが行われます。最初、「今日はイカとサンマの処理」と言われて「それは臭そうだ」と恐怖しましたが、だんだん変わってきて女性陣は回収したアルバム写真の整理、男性陣は廃棄車両のデータ登録作業ということになりました。
 
 
 
 
小型バスに戻り、大船渡市街を通って湾岸の埋立地へ向かいます。ここで本格的に水没した町並みと破壊されたセメント工場を目撃しました。堆く積み上げられた瓦礫がえんえんと続き、その惨状に声もありません。「こりゃたいへんだ、ボランティアではたいして役に立たないかも」と考えてしまいます。
 
 
 
 
埋立地に到着、三人組になっておおまかに区分けされたスペースにある廃車を調査します。私と一緒だったのはK先輩と埼玉土建?のHさんです。K先輩が記録用紙を持ち、他の二人が一台ずつバックナンバー・メーカー・車種・車体色などを調べます。車種くらいはすぐ分かると思っていたのに、それがなかなか分かりません。特に燃えた車、ひっくり返った車、ぐしゃぐしゃになった車は車種どころかメーカーも色すらもわかりません。上下左右、くまなく手がかりを探し、ドアが開いているものはグラブボックスも開けて車検証を調べました。午前中いっぱいを使って120台くらい調べました。屋根のない場所で炎天下ですが、薄曇りの天気で助かりました。
 
 
 
 
不気味なのは車体に付いているバツ印です。これは車の中で遺体が発見されたという印なのです。これを見ると「バツ印あり!」と叫び、「合掌!」と唱えて3人で両手を合わせます。これがけっこう多くて、一割近くはあったようです。
下の写真はトラックの荷台に昇って湾側を見たところですが、赤い矢印がバツの付いた車です。人の死がこんなに無造作に扱われている場所は、ほかには墓場だけでしょう。また、カーナビなどを盗んだ形跡やアルミホイールを外した形跡もたくさん見ました。
 
 
 
 
 
 
 
 
車のデータ集めは大半のグループが午前中で終了。私達の受け持ち区域は広かったので残ってしまい、宿でもらったお握り二個で昼食のあと、午後にも続けました。午後2時ころようやく終了。それから他の部隊が回された盛(さかり)川のゴミ拾いに加わります。午後3時半に作業終了。
たいした労働ではなかったので疲れてはいませんでしたが、死臭漂う場所での作業だったので参った神経を早く癒したいと思いました。そこで大船渡三陸線の北にある夏虫山のふもと、夏虫温泉に行きました。ここは3セクによる複合保養施設です。露天風呂こそないものの、なかなか充実した施設で、入浴料三百円と安いのです。
 
 
 
 
夕食は打ち合わせを兼ねて、簡単な報告のあとにいっせいに「いただきます」と始まります。これは朝食と同じです。みんなで配膳を手伝うのも同じ。この日のおかずは大き目の掻き揚げです。黙約によりアルコールは抜きですが、温泉に行ったメンバーは風呂上りにビールを一缶開けてきたので不満はありません。
 
 
 
 
二日目の夜も時間限定ながら大宴会が開かれました。どこからともなく酒が集まります。ビール・発泡酒など飲み放題、日本酒・焼酎も豊富でワインやウィスキーなどもありました。これらの一部は先輩ボランティアたちが後続部隊のために残していったもののようです。肴は乾き物中心ですが缶詰などもあり、寂しくはありません。この日は我がチームのO女史が議論の中心を占めていました。右の写真で私達が持ち込んだ芋焼酎を飲んでいるのは岩手労連災害対策本部長の鈴木さんで、私の二年後輩なのだそうです。連日救援活動に奔走していても至って元気に見えました。
 
 
 
 
三日目、二度目のボランティア本部です。この日もたくさんの人が集まっていましたが、中に毛色の変わったメンバーが混じっています。外国人グループです。太った白人女性、スリムな白人男性、ヒゲの黒人男性、その他国籍不明の若者数人です。白人女性はボランティアらしい格好はしていません。ありがたいような迷惑なような、本部側もちょっと困っている様子でした。
 
 
 
  右は私達が午前の作業を終えて戻ってきたときの外国人グループで、エントランス前の階段を占領してゴロゴロしています。この様子を見ると「やっぱり迷惑?」としか思えませんでした。ボランティア保険なんかも入っていないだろうなあ。  
 
         
 
この日、本物のコーヒーショップの夫婦がボランティアたちに無料でコーヒーを提供するボランティアをやっていました。私も一杯頂きましたが、おいしいコーヒーでした。中には二杯も三杯もお代わりする豪傑がいて、たちまち材料が枯渇したようで午後にはいなくなっていました。
 
 
 
 
しばらくしてこの日の活動内容が決定しました。被災した民家の瓦礫撤去と汚泥の撤去です。最初何も持たずに出発しようとして、リーダーのJさんに「猫やドン袋がいるよ」と指摘され、メンバーが手分けしてそれらの道具を揃えました。猫は猫車=一輪車のことで、ドン袋はドンゴロス=汚泥を入れる麻袋のことです。こんな言葉を使うのは本職の土建現場の人たちだけです。Jさんて何者?と思いました。スコップや鍬はかなり揃っているようでした。
 
 
 
 
大船渡市内の比較的被害の小さい、盛川上流域に来ました。県道九号線を少し入った家で、廃墟になった家具店の駐車場に道具を置き、崩れた車庫の横を通って入りました。被害が小さいとは言え、人の身長以上の高さに水の跡があります。崩れた車庫はジャッキや大工道具なしには片付けられず、それは業者がやる仕事のようです。そのへんがボランティアの哀しさです。
 
 
 
 
目的の家に到着してしばらくすると別の場所から軽自動車で家人の夫婦がやってきました。そして県道からの入り口に置いてある瓦礫の撤去、庭の汚泥の撤去、その他を頼まれました。まず瓦礫を撤去します。雑多なガラクタ、建材、布団などを猫やめいめいの手で運びます。そうとうな量なので「終わるのかなあ?」とちょっと不安になりました。
 
 
 
 
埼玉土建のメンバーは壊れたネットを外します。彼らはその道のプロですが、使える道具が小さなモンキーレンチだけで、かなり苦労していました。
彼は、「仕事は腕じゃやない、道具ですよ」と言いました。確かにメガネレンチやソケットレンチがあればあっという間に終わる仕事なのです。あらかじめこんな仕事だと分かってさえいれば、彼は日ごろ使っている道具を持参したことでしょう。これもボランティアの哀しさです。
 
 
 
  何回も何回も往復した結果、だんだん瓦礫の山が小さくなりました。一番の大物は三百キロくらいある車庫のシャッターで、これは瓦礫の中から探してきた垂木を入れて、十人で運ぶという大事業になりました。最後に地面に溜まった汚泥を処理し、最初の仕事が終了しました。ネットも見事に修理されています。  
 
         
 
続いて庭の汚泥撤去作業に移ります。黒くなっている部分を掘ってみると、三十センチ以上ゴミが埋まっています。これを鍬で掘り出し、スコップで猫にすくって運びます。掘り出した穴には元の庭にあった砂利を敷き詰めて補修します。これもどうなることかと思っていたのに、終わってみると驚くほど美しい仕上がりになって感動しました。
 
 
 
 
この他に隣家との間の壊れた塀板の撤去とポールの修復、雨戸に溜まった砂の撤去、床下の汚泥の撤去、花壇の修復、などなどの作業をしました。時間はお昼を越えて午後一時までかかりました。ある程度目処がついたところでお茶がふるまわれました。それを飲みつつ、「津波があった日はねえ……」という夫婦の体験談を聞きました。大船渡市民の誰もが自分の経験を話したがっている様子でした。
 
 
 
 
  午後一時半頃、ボランティアセンターに戻り、昼食にしました。駐車場と国道の境目の緑地に陣取ってお握りを食べます。向こうに見えるコンクリート打ちっぱなしの大きな建物が被災住民の避難所になっている「リアスセンター」です。Oさんが見学したいと申し込んだのですが、「被災から二ヶ月も不自由な避難所暮らしで、住民の忍耐力が限界に来ているから」と鈴木本部長に断られていました。  
         
 
午後二時頃から小型バスに乗り込み、陸前高田の被災地視察に向かいました。その様子は第一部に記録しています。
雨がやんだ四時頃、高田市民の会・共産党が共同で開いている災害対策センターに来ました。プレハブ二個が事務所、テント二個が倉庫になっている急ごしらえのセンターですが活発に動いている様子でした。ここで市議から災害の実情を話してもらいました。このセンターには救援物資運搬のために翌朝再度来訪したのですが、道を忘れていてしばらく迷ってしまいました。
余談ですが高田は自民党系の市民の会と共産党が連携して小沢一郎派・地域ボスの支配を打ち破って市政を握っているという話です。
 
 
 
 

三日目の夜、最後の大宴会です。この夜もあちこちで談論風発、大量の酒が消費されました。あとでお隣の気仙沼にボランティアに来ていたという友人から話を聞きましたら、テントに寝袋という生活で温泉はおろか風呂もなく、まして宴会など夢のようだ、と言っていました。そういう「正統な」ボランティアに比べると本当に申し訳ないような恵まれたボランティア体験でした。

 
 
 
 

四日目午前中、陸前高田の被災地に物資を運ぶ仕事をこなしました。わずかな物資でしたが届け先の人々から「ありがとう、ありがとう」と言われて頭を下げられ、胸が一杯になりました。
それから東京へ戻る旅路が始まり、東北道では考えられないような大渋滞の中(右写真はテールランプがはるか彼方まで続く郡山あたり)、なんとか日付が変わらない時間に上野へ到着しました。充実した四日間でした。

 
 
 
 
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