大船渡・陸前高田震災ボランティア報告その1

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2011/05/07
         
  2011年5月2日、午前5時に家を出て上野駅午前6時集合。そこで先輩のK氏と落ち合い、同じく先輩Y氏の支援物資を積み込んだエスティマに乗り込んで岩手県に向かいました。このレポート第一部は震災現場の写真を中心にした被災地レポートにしました。活動報告は第二部に書く予定です。
駒形から首都高に乗り、川口線経由で東北自動車道に乗ります。早朝にしては車が多く、渋滞するほどではないものの、前後に車が途切れることがありません。そのまま浦和・岩槻と通り過ぎます。途中で携帯電話で都内西部から来るもう一台の車と連絡を取り、SAで落ち合うことにします。しかし蓮田は混雑していてパス、佐野SAに停車しました。そこで一同七人が集合。私は初対面の二人と挨拶を交わしました。
簡単な朝食の後一路東北に向かい、昼食休憩の長者原SAまでひたすら距離を稼ぎます。一関インターを降りたのは午後1時頃、それから今泉街道を北東へ進み、猊鼻渓をかすめて陸前高田の外れを過ぎました。そこで最初のショック画面を目撃しました。
 
         
     
         
     
         
     
         
     
         
     
         
    気仙川上流に当たるこの地域、建物の跡と思える空間と両側に打ち上げられた瓦礫とが乱雑に広がっています。陸前高田市内からかなり離れたこの地域でこんな有様では、海に近い中心部はどんな被害だったのだろう、と想像すると背筋が寒くなる光景でした。  
         
 
 
         
  私達が滞在するのは大船渡市中心部から半島一つを隔てた三陸町越喜来(おきらい)地区の崎浜です。ここは小さな湾を持った独立の漁港ですが、小さい港なりに壊滅的な被害を受けていました。  
         
     
         
     
         
     
         
  真ん中に残っている白いビルは漁協の建物ですが、三階まで破壊されてもはや使い物になりません。周囲の瓦礫は自衛隊が片付けたそうで、大船渡市内に比べると整理されています。それでも生き残った船はわずか、灯台まで破壊され、漁港として復活するには遠い道のりがありそうです。    
         
 
 
         
  越喜来(おきらい)湾の奥、大船渡市三陸町の中心部もほぼ全滅という状態です。全体的には大船渡市中心部を一回り小さくした感じで、自衛隊がばら撒かれた瓦礫をブルドーザーでかき集め、山にしています。そのために道路は通れるようになり、適当なスペースも開いて整理された印象ですが、残った瓦礫の山がどうなるのか、いつになったら片付くのか気になります。  
         
     
         
     
         
     
         
  かろうじて看板だけが残っているJAサービススタンドに、パネルが展示してあります。そこに住民が残した本や小物、小学生の描いた絵、取材に来たテレビ局の画像などが並んでいます。
書かれている文字『ここがオキライですか?はい。でも大好きだよ』は越喜来(おきらい)地区をもじったシャレです。そのへんにまだ余裕が感じられます。『前よりもっといい町に!』というスローガンもありました。
   
         
 
 
         
  大船渡市は人口五万の比較的大きな街です。縦に長い地形のせいでしょうが、大きな被害があったのは港湾部と盛川に沿った低地部分だけで、両岸の高い地域は無事なようです。ボランティアセンターのある社会福祉会館やその隣りの大船渡警察、市役所や避難センターになっているリアスホールなどは機能しています。しかし太平洋セメントの工場は巨大なパイプやタンクが倒れたりつぶれたりで、とうぶん復活しそうにない感じです。
住宅区域も整理されていますが、積み上げられた瓦礫がどこまでも続き、これを撤去するには何年もかかるのではないかと思われました。
 
         
    ボランティアセンターのエントランスには自衛隊の車両が停車していて、炊事班らしい隊員がご飯を炊いています。ボランティアたちはここにいったん集まり、ワッペンを支給されて各地に配送され、割り当てられた仕事をします。  
         
     
         
     
         
     
         
     
         
    港湾部埋立地の一角は被災した自動車の集積場になっています。ボランティア初日にはここで分類登録の仕事をしました。数千台にのぼる自動車の墓場ですが、カーナビやアルミホイルなど金目のものを狙った窃盗・車上荒らしが横行しているという話で、実際その形跡がありました。多くのボランティアがいるのと同時に、火事場泥棒という言葉通りの悪質な犯罪者がいるのが現実です。  
         
     
         
    ボランティアセンターから川寄りに少し歩くともう被害が広がっています。南リアス線と貨物用引込み線の両方がぐちゃぐちゃにつぶれ、線路が流されています。大船渡婦人センターが流されて廃墟になっています。まだ撤去されていない自動車もたくさんありました。  
         
 
 
         
  今回の東日本大震災で最大の被災地と言われる陸前高田に入りました。上の地図を見れば分かりますが、大船渡が細長い形をしているのに陸前高田ははっきりと扇型にデルタが広がっています。ここに高さ二十メートルの津波が襲い、街の全体を飲み込んだのです。住民達は山に逃げようにも距離があって出来ず、建物もキャピタルホテルを唯一の例外として全部が水面下に沈んだので逃げようがなかったのです。豊かで便利なデルタ地帯の存在が裏目に出たということでしょう。
瓦礫の山が続く大船渡に比べると、陸前高田は瓦礫すらないのっぺらぼうです。かわりに海砂が地面を覆い、映画『猿の惑星』『砂の惑星デューン』のようなSF的な廃墟を連想させます。鉄材やコンクリートは残っていますが松原公園の松を始め、木材瓦礫は気仙川の上流へと押し流されているのでした。
 
         
     
         
     
         
     
         
  右の高い建物は松原公園の側に建てられたキャピタルホテル1000。歌手の千昌夫が造ったのでこの名前なのだとか。しかしバブル崩壊とともに彼は破産、このホテルも人手に渡ってしまったようです。しかし津波でホテルは大破、売り物の高田松原海岸の名勝も消えたことで再建はどうなるのでしょう。千昌夫はどんな感慨を覚えたことか。    
         
     
         
     
         
     
         
    市内西部にある高田市立病院。四階まで水に浸かり、屋上に逃げた職員と患者たちは足元を水に洗われながらも助かったそうです。ただ厨房にいた職員三名がなくなったとか。
その恐怖は想像に余りあります。
 
         
     
         
     
         
     
         
     
         
     
         
    市内を視察したこの日、空は厚い雲に覆われ、時たま激しい雨が降りました。被災者の涙雨かと思われます。この日の新聞記事に『被災地に入り込み、道に自動車を停めて撮影に夢中になり、工事用車両やまだ遺体捜索作業中の自衛隊車にクラクションを浴びる不心得者もいる』とあり、そうした集団に思われないように控えめの取材でした。

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