第一部ダブリンからコーク

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2000年8月23日から31日、かねてからの計画だったアイルランド旅行に出かけました。五月から切符を手配し、準備は着々……だったのですが、結局はバタバタの旅でした。

アイルランド旅行というと「お城に泊まって王様気分・80万円ツアー」などというのが主流のようです。しかし私たちの場合は「なんでも自分でしなはれ・20万円ツアー」です。(実際にはもう少しかかりますが)夏の観光シーズンにこの値段で旅行するために、涙ぐましい努力がいったのですね。

JTBの「パティオ自由パック」という往復のチケットと3泊分のホテルクーポンがついたパックで、旅行日程は飛行機内で2泊、ホテルで7泊(4泊分は自分で手配する)、9泊10日というものです。飛行機で2泊というのがなかなか辛かったです。

23日、8時半に成田集合(といっても私たちだけ)なので6時に起きて7時には家を出ます。飛行機は1040発なのにどうして8時半……とぶつぶつ言いながら成田空港に着くと、ものすごい混雑でした。窓口まで長い行列が並んでいます。チケットを貰うのに30分以上かかったので、2時間の余裕も妥当なところだったようです。

 KLM待合室

KLMオランダ航空の搭乗口はそこそこの人出で、並ぶ人種も様々なようでした。搭乗は時間通りに始まり、私たちも窓側と内側の席に乗り込みました。最初、通路側の席に白人男性が座っていたのですが、パーサーが来て「席を交換してくれ」と彼に頼み、替わって座ったのが可愛い金髪の白人少女でした。待合席で目立っていた美女四人組の一人です。彼女は前の席にいる友人と猛烈な勢いで話をし、大声で笑ったり叫んだりしました。それがあまりにも煩かったので、私が「いいかげんにしろよ、って感じ」と大き目の独り言を言うと、それが聞こえたのか途端に黙ってしまい、やがて寝てしまいました。

眠るモニカ嬢 

彼女は座席に斜めになったり横になったりして寝ていますが、プラットホームシューズが私の脚に当たったり、ひざが触れたりします。英語で「Excuse me, but your shoe kicking me.」と言ってみるのですが、なんとなく通じていないような感じです。昼食の時間になり、機内食が配られると彼女も起きて食べたのですが、割りと器用に箸を使います。

 機内食

「日本語わかるんじゃないのか?」とかみさんと話します。その疑問は私がリュックを下ろそうとしてラゲッジケースを開けようとした時、彼女が「ダイジョウブ」と日本語で言った事からさらに深まりました。しかし私が話しかけるとナンパ目当てのようで気が引けます。かみさんに「あんた、声かけろよ」と言いますが、かみさんは「うん」と返事しながらウトウト眠っています。しょうがないので意を決して私が「おうちに帰るところですか?」と聞いてみました。すると彼女は「ソウデス」と応えました。「おうちはオランダ?」と重ねて聞くと、「ノー、ルーマニア」と言います。

彼女はモニカさんと言って、ルーマニアから出稼ぎに来ているダンサーでした。しばらく話をしていると、すごく素直で無邪気なのがわかりました。ディズニーランドで撮った写真などを一束出して見せてくれます。

「群馬県、シッテル?」「義理の妹が高崎にいるよ」「高崎、チガウ、太田市ヨ!」

彼女は太田市の『キューティー・ナイン』(QT9)という店を中心に仕事をしているようでした。この店の名前は某局の「山本晋也監督の風俗情報」に出て来るので私も知っています。

 起きたモニカ嬢

「あなたもキレイだけど、前の席のお友達もすごくキレイだね。空港で会った時、びっくりしたよ」と言うと、「アリガトウ」と言って赤くなりました。前の席の黒髪の娘はラテン系のくっきりした顔で、ちょっと厳しそうな目つきをしていました。「日本には帰ってくるの?」と聞くと、三週間で帰ってくると言い、「早く帰りたい!」とため息を漏らし、携帯電話をいじります。ホームシックとは反対の「日本病」みたいな感じでした。

かみさんが歯を磨いて戻ってきたので、話し相手を代わりました。最初は楽しそうに話していた二人でしたが、かみさんが「どういうダンスを踊るの?」と聞いて、モニカさんが「トップレス」と恥ずかしそうに応えた所で話が滞ってしまいました。かみさんはヌードの仕事に偏見はない人ですが、「水商売の人にしてはなんて正直で素直なんだろう」と思ってびっくりして言葉が出なかったのです。その後、彼女の態度はどこか暗くなり、別れ際もなんだかぎこちなかったのでした。

 

飛行機は北極を飛び越えて飛行します。五時間でアラスカ上空、八時間でグリーンランド上空にさしかかります。アムステルダム・スキポール空港に着くにはさらに五時間、合計13時間の飛行です。いいかげん尻が痛くなります。白夜を越えてきてオランダは昼でした。着陸は今まで乗ったどの飛行機よりもスムーズで、さすがKLMと感心しました。

 

ここで空港内を移動し、私たちはダブリン行きに乗り換えます。モニカさんたちに手を振って別れました。スキポール空港の長い廊下をほとんど動く歩道の上を歩いていって、端っこのダブリン行き搭乗口に来ました。待ち時間は一時間ほど、小さな飛行機はかなり空いています。ダブリンまでさらに3時間の飛行です。

 

左:スキポール空港内を移動  右:ダブリン行き搭乗機の前で

短い飛行なので機内食は出ないと思っていたら、出ました。ことのついでにと、ギネスを頼むことにしました。「お飲み物は?」との問いに「ギネス!」と応えましたが通じません。「フワッツ?」と言われたので、今度は「グィネス!」と力を入れて応えました。通じました。ダブリン行き飛行機の中で最初のギネスで乾杯しました。(缶ビールだけど)

大きなサンドイッチとギネス

ダブリン空港に降り立ったのは夜の8時です。しかし夏時間でもあり、緯度のせいもあってまだ明るかったのです。木造の古い建物の中を通ってイミグレーションに来ました。入管手続きは入国証を一枚書くだけ。空港の外へ出て市内へのバスを探し、近くにあった自動販売機で切符を買おうとします。しかし、自販機にコインも紙幣も入りません。焦っていると、「メイアイヘルプユー?」と青年が飛んできました。「それは駐車場のチケット販売機だ」彼は言い、バスのチケットはバスの車掌から買うのだ、と教えてくれました。ダブリン市民はお節介なくらい親切そうです。

ダブリン市内の地図

私たちは中央バスセンター行きのバスに乗り、夕闇迫るダブリンに向かいます。空は青から赤に、さらに紫色に変わってきました。星も見えます。20分ほど走ってダブリン市内に来ました。中央バスセンターから今度はタクシー乗り場を探します。バスの運転手に聞いたら、通りの向かいからタクシーが出ていました。乗り込んで「ドイル・タラ」と言っても分からない様子です。JTBの日程表を見て「メリオンロード・ブラックロックか」とかろうじて分かったようですが、さらに交差点で停まる度に仲間のタクシー運転手に「ドイル・タラってあそこだよな?」とたずねていました。

ダブリン市内へ向かうバス

このタクシーは普通の乗用車タイプで、フロアシフトです。乗り心地は悪くないのですが、なんとなくタクシーに乗った気がしません。他にもワゴン車のタクシーなどもありました。どうやら運転手がめいめい自分の車を持ち込んで仕事に使っているようです。車は夜の中を走り、運河を過ぎ、ダブリン湾に沿った道をひたすら下ります。とても歩いていけるような距離ではないようです。結局、こちらも20分ほど走りました。

「ドイル・タラ!」と言ってタクシーが停まった時にはすっかりあたりは闇の中でした。

家を出てからかれこれ23時間が過ぎました。チェックインし、五階の広い部屋から海が見えるのにびっくりしつつ、風呂にお湯を入れて交代でつかりました。くたびれ果てていたのに、酒がないので眠れませんでした。

二日目(8/24)

早く寝たのに、浅い眠りを何度か繰り返しただけで、あまり眠れないでいるうちに朝になりました。

表の通りはもう通勤の車がもう束になって走っています。その向こうに海があり、鈍くうねっています。隣にはガソリンスタンドがあり、その手前は墓場でした。古い石碑に混じって、ハイクロス(石十字)もあるようです。

部屋は20畳ほどの広さでツインベッド、丸テーブルに対になった椅子、ライトテーブルがあります。これに4畳ほどのシステムバスが付いています。大理石の大き目の洗面台が豪華です。

他に大きなケースにしまわれたソニーのテレビと、何に使うのかわからない木製の物入れがあります。私はこれにリュックを放りこみました。驚くのはズボンのプレス台とアイロンがある事でした。紳氏淑女の身だしなみを守ろう、というところでしょうか。入り口の右にはドアのないクローゼットスペースがあり、固定式のハンガーが10個ほど下がっています。二人で使うには充分の広さです。

日本の旅館と違って内履きが置いてないので、飛行機でも使った薄手のスリッパを履きました。そして、うちでは滅多に飲まないコーヒーを目覚ましに飲みました。ポットは無造作にソケットに差込まれていて、蓋の部分をガチッと押しこむと電機が入り、お湯が沸くと切れる仕組みです。ソケットの横にもスイッチがあります。

ソケットは三穴式で、2本の横穴と1本の竪穴が三角形を作っています。プラグを見ると、実に頑丈そうな太い差込が三本付いています。日本からノートパソコンを持ってきましたが、通信するにはソケットを日本式(アメリカ式も可)に変換するアダプターが必要です。ついでに電話のモジュラーを確かめますが、なんとなく日本式に似ているようでよく分かりません。(この時、私は雑誌の記事を鵜呑みにして、アイルランドはイギリス式のBTモジュラーだと思い込んでいました。)

かみさんも起きて紅茶を入れていたので、二人で今日の方針を決めました。それは、

@疲れたのでグレーンダー・ロッホ観光は明日に延ばし、今日はダブリンを散策する。

A電源ソケットとモジュラーのアダプター、ついでに酒をゲットする。

の2点でした。

ホテルの廊下

行動方針も決まったので朝食に行きました。ドアは自動的に鍵がかかる仕組み、鍵はカードキーです。それを持って長い廊下を歩き、階段を降りました。レストランはロビーの奥です。ルームナンバーを告げると一番奥のテーブルに案内されました。客たちはそれぞれ半ズボンやポロシャツなど、軽い服装でテーブルに付いています。入り口近くに4種類のコーンフレークとパン、ミルク、三種類のジュース、果物などがバイキング方式で置かれています。それを持ってきて食べていると、相当なお歳よりのウェイトレスが「アイリッシュ・ブレックファースト」の注文を聞きに来ました。実のところ、メニューに書いてある内容がさっぱりわかりません。ベーコンとソーセージ、スクランブルエッグがかろうじて分かるのでそれを、あとはカンを頼りに3品注文しました。出て来たのは塩漬け白身魚のソテーとよく判らないハンバークのようなもの白と黒二点でした。「これは何だ?」と聞きたかったのですが、多分聞いても分からないだろうと思って聞きませんでした。これは結局どこのホテルでも出て来ました。味の方ですが、ちょっと塩っぱいことを除けばまあまあ美味しかったです。コーンフレークは様々な味が楽しめ、特にドライフルーツが混じっているやつがいけました。

朝食メニュー

食事のあと、少しゆっくりして市内へ出かけました。ホテルの前にあるバス停でバスを待ちます。市内までのバス料金は80ペンス、しかし1ポンド硬貨を出しても釣銭はくれない、という話です。アイルランドの硬貨は7種類(1ポンド、50・20・10・5・2・1各ペンス)で、分かりづらく、特に2ペンスが大きくて邪魔ですし、10ペンス・5ペンス・1ペンスが小さくて区別がつきません。反対に50ペンスはイギリスと同じ七角形で分かりやすく、1ポンド硬貨はこの国のどこでも「これ一つでオーケー」のコインです。待つほどもなく二階建てのバスが来ました。これも乗車時に運転手からチケットを買います。料金箱に硬貨を入れるとスーパーのレシートのような細長いチケットをくれます。確かに1ポンドでお釣りはくれませんでした。(日本と同じで、料金箱には5ペンス以下は使えません)

市内へ向かうバス

「セントラル・バス・ステーション」と行き先を告げたのですが、バスはダブリンの中心を流れるリフィ川の南岸に停車しました。ここが終点のようです。運転手は私たちと一緒に降りてきて、「あんたたち、どこへ行きたいんだい?」と聞きます。私が「コノリー駅」と言おうとすると、かみさんが「トリニティ・カレッジ」と先に応えてしまいました。カレッジはさっき通り過ぎた所です。運転手は「どうして終点まで来たんだ?」と聞いて来ます。私は応えに窮して「アバウト・シンキングさ」と応えました。すると運転手は「そんないい加減なことでどうするんだ」と(笑顔で)言いながら私の頭を帽子の上からグチャグチャにしました。まったくお節介なオヤジです。

お節介運転手

どっちみちトリニティ・カレッジ(ダブリン大学)はそこから五百メートルほどの距離です。私たちはまず、市の最中心地オコンネル通りへ進みました。リフィ川にかかる大橋を渡って、19世紀カトリック解放運動の指導者オコンネルのモニュメントの前へ行き、記念撮影しました。

 

ダブリン市内の空気ですが、乾燥していてホコリっぽいのです。喉が乾いて咳が出ます。口の中もざらざらしてきます。聞いた話によると、大西洋から吹いた風が西海岸に雨を降らせ、乾いた風がこちら東海岸へと吹いてくるというのです。アイルランドの東西は、日本の新潟地方と関東の関係に似ているようです。また、日差しは強烈で暑いのですが、日陰はひんやりとして涼しいのです。

街の空は広く、建物はせいぜい5−6階どまりです。その上に赤や青の巨大なクレーンがいくつもそびえています。新築が規制されているので、建物の修復・改築作業がひっきりなしに行われているようです。

また、アイルランド人はのんびりしている、という話と違って、ダブリンの人々はものすごいスピードで歩きます。信号もすぐ無視します。その信号というのがまったく車中心で、人間が渡る番になると「コッコッコッココ・・・」と鶏を追うように急き立て、あっという間に赤に変わるのです。アメリカでもこんなにひどくはなかったと思います。福祉とヒューマニズムの先進国とはとても思えません。

オコンネル通りからアイルランド銀行前を通ってトリニティ・カレッジの正門へ来ました。29日に友人と待ち合わせる場所です。下見を兼ねて入ってみます。古い建物に囲まれた中庭を通り、さらに進むと広い芝生のラグビー場があります。木陰には市民や学生が読書する姿が見えます。一周して中庭に戻る途中に球状の金属モニュメントがありました。「変な彫刻ね、気味悪い」とかみさんが言います。そこへフランス人のツアー客が来て、ガイドがフランス語で解説をしています。有名な彫刻のようです。観光ガイドにも写真があるだけで記載がなく、フランス語もわからないので通りすぎます。

 

左:カレッジ中庭 右:球形のモニュメント

図書館らしい建物の前に来て、女性ガイドに「オールド・ライブラリーはどこですか?」と尋ねると、「この建物全体がOLD LIBRARYです」と言われました。入って見たかったのですが、次回みんなで見ようと思って先に延ばします。

カレッジを出てリフィ川の岸をさらに西へ進みダブリン城へ入ります。大きな円柱塔があってそれらしいのですが、中庭に入るとぱっとしません。大きなお城というイメージではないのです。小さな塔はむしろ教会のようです。内部は豪華だという話ですが、チケット売り場がわからず、面倒くさくなって入りませんでした。

ダブリン城中庭

次は川沿いに引き返して、コノリー駅に行きました。売店で「シティーマップはないか?」と聞くと、駅の中のツーリスト・インフォメーションでくれる、と言うので貰ってきました。一段高くなったカフェに上がって初めての「生の」ギネスを注文し、テーブルに広げた地図を眺め、目を上げては行き交う旅人たちを眺めながらジョッキを空けます。生ギネスは苦味より甘味が強く、クリーミーな泡が唇に甘くフルーティで、説明しがたくうまいです。目の前でハイティーンくらいのカップルが別れのキスを始めました。それがいつまでたっても終わりません。せつない気持ちがよく分かります。青春だなあ。

最初の生ギネス

生ギネス初体験を終えて、再度ダブリン中心部へ向かいます。

テンプル・バーへ来ました。バーと言っても酒場の意味ではなく、河口のことです。若者の情報発信基地でありオシャレなカルチャー先進地域らしいのです。確かに70年代のヒッピーみたいな連中があちこちにとぐろを巻いています。歩いていると突然インターネット・カフェが出現したので、ダブリンからの最初の通信を送りました。MSのサイトから「グローバルIME」をDLして日本語を使えるようにしたかったのですが、そこまでやる意味も時間もないので英文で柏市民ネットと自分の掲示板に書き込みました。

 

   左:テンプル・バーのパブ      右:インターネット・カフェ

それから「FIZSIMMONS」というパブに入って本日二杯目のビールと、軽食を取りました。ビールはこれもアイルランド地ビール、キルケニー・ドラフトとサチェンブローです。どちらもピルスナー系のおいしいビールでした。食事の方は看板にサーモンフライが出ていたので頼むと、サーモンのフライはなくてスモークサーモンならある、というのです。それを頼むと、長いパンにそれを挟み、トマトやキュウリやポテトを添えて大きなサンドイッチにしてくれました。それをかみさんと二人で食べ、次にかみさんがビーフハンバーグもどきと温野菜を持ってきたのでそれも平らげました。(これらの飲食品はその場でお金を払う方式です)満足しました。

パブでの昼食

それから賑わうグラフトン通りを歩きました。ここは大道芸人やバンドの天国だということでしたが、残念ながら期待していたストリートバンドは見られませんでした。

 

左:日本製大型バイクの前で 右:パブの並ぶ街角

 

左:グラフトン通り南口   右:街頭の刺青師に群れる少女たち

まだ3時ころでしたが、夕食の時間を待っていると遅くなるというので、酒と食べ物を購入してホテルに帰ることにしました。ギフトショップで電源ソケット・アダプターも見つけました。腹がたつのは、酒屋がどこにもないことです。見つけた一軒は転居したという看板があるだけで、引越し先もわかりません。かろうじてワインショップを見つけました。そこで買った「ルビーカベルネ・アーネスト&ジュリオ・ガロ」とスーパーで買ったサラダとカップ麺を手に、帰りのバスを探します。中央バス・ステーションのインフォメーションは、「他の会社だから知らない」と言うアイルランドに来てから初めての不親切な対応をしました。

バス・ステーションの二階には旅行社があって、明日のグレンダー・ロッホのツアーを調べてみると、丸一日かかるものでした。「なんとか短くならないか?」と聞いてみても「ノー」の応えが返るだけです。レンタカーが使えれば短時間で行って帰ることも出来るのでしょうが、「昼間からビール」というこのツアーの趣旨に反するので免許を持ってきていません。残念ながらグレンダー・ロッホ観光は諦めることにしました。

ホテルまでのバスは、リフィ川の反対側にいたバスの運転手に聞いて分かりました。乗ってきたのと同じ停車場でした。

二階建てバス

この日は前日の疲れが取れないまま、ワインで乾杯して8時頃には寝ました。

 

前日の夜、買ってきた電源ソケットアダプターを使ってノートで通信してみました。電話線のモジュラーの方は……これを探して、4〜5箇所問い合わせてみたのですが、どこも「???」という状態だったので、これまでにそういう事を聞かれたことがないのだと思い、それなら日本製のが使えるかもしれない、と判断したのです……ピッタリ合いました。これはつまり、

 @イギリスに反発するアイルランドが電話規格をアメリカ型にした

 Aもともとイギリスとアメリカには違いがなかった(雑誌記事の間違い)

のどちらかだということになります。問い合わせを受けた人たちにはご迷惑をおかけしました。()

朝日ネットの海外からの接続は、市内のローミング(代理接続)局に電話し、つながったらIDとパスワードを打ち込むというやり方です。これが緊張しているのでなかなかうまく行きません。一字間違うとバックステップで消すことが出来ず、始めからやり直しになります。3度目にうまくいってやっと繋がりました。

手動ログイン画面

自分の掲示板にこれまでの経過を報告し、いくつかの常連の掲示板に書き込みます。終わってホッとしたのは重いノートパソコンをわざわざ日本から持って来た甲斐があった、という安堵感からですが、反面、せっかく非日常の海外旅行なのになんで日常のネット通信をしているか、という馬鹿馬鹿しさも少なからず感じました。

三日目(8/25)

25日朝、前日と同じ6時に起き、7時に朝食に降りました。メニューはほとんど前日と同じです。変わったのはスクランブルエッグがフライドエッグ(目玉焼き)になったくらいです。

食事のあとコーヒーを飲みながら少しゆっくりし、今日は早めにコークへ向かうことにしました。コーク行きの列車は一日に4本出ているそうですが、時間割がありません。一本遅れたら数時間待つことにもなりかねません。ホテルをチェックアウトし、重いリュックを背負ってバスでリフィ川の岸辺に降り、そこから川の上流のヒューストン駅へ向かいます。(北部ベルファスト、南東部ウェックスフォードにはコナリー駅から出発しますが、西部・南西部にはヒューストン駅から向かいます。この二つの駅は繋がっていません)途中、ジョイスの「ダブリン市民」に出てくる名所、ハーフ・ペニー橋など沢山の橋を通ります。左手にはクライスト・チャーチなどの教会の塔、対岸には広島の原爆ドームに似たフォー・クオーツ裁判所が見えます。ここは内戦中(1922-23)にはアイルランド共和国軍の総司令部が置かれた所だそうです。やがて左手に見えるギネス工場前を過ぎると、もうそこがヒューストン駅です。

 

左:裁判所が見える通り  右:ギネス工場をのぞく

駅の案内所で次のコーク行きの時間を聞きます。すると都合良く20分くらい後です。喜んで窓口に並びましたが行列が出来ていてなかなか進みません。「大丈夫かな?」と気になる頃になって、窓口の対応する人数が増やされ行列はたちまち解消されました。チケットの値段は33ポンド50(6000)。ちょっと高いので改札のオジサンにかみさんが「これ片道切符ですよね?」と聞くと、「Same price!」との返事。片道も往復も同じ値段なのです。このおおらかさには驚きです。そう言えばこの駅も列車が入るまではホームも出入り自由で、改札口もありません。列車が来ると簡単な柵とロープで境界が示され、チケットを改める人がロープの端に立つのです。車両はけっこう古びていて、使いこんだ味が出ています。窓拭きの作業員が柄の長いモップ状の道具で手早く窓を拭いています。私たちは禁煙席に乗りこみましたが、見た限りでは半数が禁煙車両のようでした。びっくりするのはその座席のゆったりさです。新幹線と同じ広軌車両ですが、座席は4つしかありません。正確に言うと四人掛けのボックス席(がっちりしたテーブル付き)二つが新幹線の3列分くらいに作られています。つまり新幹線の15人分くらいのスペースに8人分の席があるということです。走りも新幹線並みにスムーズでした。

 ヒューストン駅の窓口

最初は空いていた車両ですが、発射時刻が迫るに連れて込み合ってきました。隣のボックス席は最初、綺麗な女子大生風の女性が一人座っていました。その向かいにこれも大学生風のお兄さんが「ここ、座っていい?」と言いながら座りました。女性は簡単に頷いただけで、二人は目も合わせない様子でした。私はアイルランドでも都会では人間関係は希薄なんだなあ、と思いながら自分たちの席に相席者が来たら、是非歓迎しよう、と心に決めました。やがて、その相席者が来ました。「座っていいかな?」の声に私は反射的に「ウェルカム!」と応えました。そしてその声の主を見ると、いかにも怪しげなオッサンでした。短い白髪の頭、不精ひげ、青い目が少し濁って、ちょっとロンパリです。そしてプンプンと酒臭いのでした。そのままかみさんの横に座ります。彼は手に20センチくらいのテディベアを持っていました。「ハイ、ショーニーが挨拶しますヨ〜、『ハロー、エブリバディー』ショーニーは可愛いでしょー?」オッサンはそう言ってテディベアに頭を下げさせます。仕方なく、こちらも「ハイ、ショーニー」と応えるしかありません。私は内心「どうなるんだ、これは」と思っていましたが、意外にこのオッサンは限度をわきまえた思慮深い面も持っていて、コークまでの三時間、けっこう楽しく歓談したのでした。

 変なおじさん

オッサンはまず、自分は世界各地を旅したと自慢します。それはグレイトだね、と応えます。この前はイタリアに行ったし、広島に行ったこともある、と言います。「広島はぜひ、一度行かなければと思っていた」とオッサンは言います。「日本人はみんな、広島を悲しくひどい事だと思っています」と応えます。(みんなじゃないかもしれないけど)私はビールを飲む彼を見て、負けずに列車のバーでビール(カールズバーグ)を買ってきました。そして「あなたはかなりのヘビー・ドリンカーのようだけど、ビールだったら何本くらい飲めるか?」と聞きました。彼は少し考えて「フォーエバー」と応えました。これは質問した方が馬鹿だったようです。かみさんは最初、彼の酒臭さに顔をしかめていましたが、自分も飲むと気にならなくなったそうです。

「あなたは真面目なカトリックのようだけど、イタリアに行ったときには法王に会ったか?」私が聞きます。彼は「パパかい?」と言い、頷きます。彼は立派な人だ、とお互いにヨハネ・パウロ三世を称えます。「あんたたちは結婚してるのかい?」今度は彼が私たちに聞きます。こちらが頷くと、子どもはいないのか、どうしてだ、と言います。それは神のみぞ知る、と応えるとしばらく理解できないようでしたが、やがて「そうかそうか」と頷きました。「ワシには4人の子どもがいる」それぞれもう独立している、と彼は言います。「孫はいないの?」「それはまだだ」「欲しい?」「イエス」そんな会話が続きます。その後、日本の大統領は誰だ、と聞きます。「ヨシオ・モリだ」と応えます。(実際はPresident じゃなく首相”Prime minister”だけど)「彼はビッグだけどフールだ」と言うとオッサンはびっくりしたように「あんたたちは彼を嫌いなようだね」と言います。二人で深く頷きました。アイルランドは現在も女性大統領で、国民からは尊敬されているようです。先代のメアリー・ロビンソン女史の名前も出て、かみさんは「彼女に会いたかったのも、アイルランドに来た目的の一つだ」と言いました。

オッサンは時々タバコを吸いに隣の車両に行きます。そしてどこかで子どもの泣き声がするとテディベアを持って飛んでいきます。このボックスにも女の子とおしゃぶりを咥えた幼児がやってきました。二人は東洋人が珍しいらしく、私たちをしげしげと見るのでした。最後に「ワシはこれから就職のために次の街に降りるのさ」とオッサンは言いました。病院の賄い夫をするそうです。「いい仕事だね」と言うと、「ノー、賃金が安い」哀しそうに彼は首を振るのでした。列車中に波紋を残してオッサンは途中の駅で降りていきました。私たちは握手をして別れ、後にはビール瓶の林が残りました。(第二部へつづく)

 寄ってきた子どもたち

第二部「ゴールウェイへバス旅行」

 第三部「アラン諸島」

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