第一部:出発−キト

◆「ガラパゴスに行って来た」と言うと、おおかたの人は「へー、面白そうですね……」と答えつつも、半分は「物好きだねえ、この人も……」と思うでしょう。私自身もそう思います。
 ガラパゴスは通常の異国の範囲を越え、南極やチベット、アマゾン等という「極地」の一つであり、旅行の対象というよりは冒険・探検の範囲に属しているかもしれません。実際、日本から最も遠い土地である南米の、そのまた先にあります。
 なのにどうしてそんな極限の地に行ったのかと言うと、一つはかみさんが希望したからです。かみさんは通常の旅行の出来る土地はほとんど旅しています。もはや出かける先は極地にしかありません。第二に、やっぱり原始の地球の顔が残るという土地に一度は訪れてみたかったからです。その希望は確かにかなえられました。では、その記録をご覧あれ。
 

 

2001年8月22日

 台風11号が関東を直撃する中、私たちは成田へ向かいました。
 灰色の雲が空を覆い、時々横なぐりの雨が降ります。救いは、それが早朝・深夜ではなく、昼食を済ませた午後だという事でしょうか。
こんな日に飛行機なんか飛ぶわけがない」と私は言い、かみさんは「じゃあ、空港と旅行会社に電話してみて」と言います。しかたなくインターネットの『成田フライト・インフォメーション』を覗きます。つながりません。エラー・メッセージが出てきます。旅行代理店には何度か電話をかけ、三度目に繋がりました。担当者に「どうなりますか?」と聞くと、「とにかく空港に行ってください」との答えでした。
「空港まで行って、また引き返すのは面倒だなあ……」と思いつつ、私たちは昨夜から準備していたリュックを背負います。あらためて家の戸締りを確かめ、猫たちを追い出し、歩いて駅へ向かいました。
 
 雨で増水した川など、成田線は一部区間を徐行運転します。おかげで時間は30分ほど余計にかかりました。ついでに第二ターミナルで降りずに第一ターミナルまで行ったので、巡回バスでさらに時間を使いました。しかし時間はまだたっぷりあります。
第二ターミナル三階のGカウンターに来ました。代理店の名前があります。そこで氏名を告げるとチケットをくれました。成田-ヒューストン-キトの往復分で、一人当たり四枚あります。受付嬢は「出発が15分早くなりました」と告げます。台風が強くならないうちに、という事でしょうが、15分とはまた細かい話です。
 次はそのカウンターの裏にあるコンチネンタル航空のカウンターで搭乗券を受け取ります。ここは荷物搭載を兼ねているので手続きが長引きます。軽く30分待たされました。それでもこれくらいは早い方でしょう。リュック一つの私たちは珍しい旅人です。
 両替所の前を通った時、かみさんが窓口に行って聞いてみましたが、エクアドル通貨の「スークレ」は扱っていませんでした。この時はまさかスークレが廃止されているとは思わず、「向こうで両替すればいいか」ぐらいに考えていました。
 手荷物検査と金属探知機をくぐり、出発ゲート前に来たのは2:00。まだ2時間近い時間があります。のんびり文庫本など読みながら待ちます。窓の外にはルフトハンザ機が横殴りの雨に打たれています。でも、考えてみるとそれは滑走路に対しては追い風になるようです。
 嵐の成田 
ひょっとすると飛ぶのかなあ……?
そこまで来ても、まだ半信半疑でした。
 
 予定時刻の午後3:40、コンチネンタル航空006便は強引に成田を飛び立ちました。とたんに飛行機はダッチロールしました。前後左右上下、不均等に気持ちの悪い揺れ方です。私は吐き気がしてしまいました。(かみさんは『おもしろかった』と言っていた)
それでもぐんぐん高度を上げると雲の海を抜け、地表の嵐を見下ろす青空になりました。006便は何事もなかったように高空を滑らかに駆けていくのでした。
 それから11時間半のフライトの後、アメリカはヒューストン空港に来てしまいました。
太平洋の途中で夜になり、夜を越えて朝になり、お昼ごろにロッキー山脈を通過しました。夕食と夜食と朝食の三回機内食が出ました。私は一応全部食べました。
 ディスプレイとコントローラー
 コンチネンタル航空の機体は最新のもので、各シートに液晶ディスプレイがついています。これを電話を兼ねたコントローラーで操作し、映画・テレビ番組・ラジオなどを選んで視聴できます。操作はちょっと面倒です。また、おみやげとして、ヘッドフォン・耳栓・アイマスクの三点セットが出ました。これは実に気の利いたセットです。私は自分用の耳栓は持っていますが、このアイマスクを使ってなんとか眠れました。
 三点セット
 ヘッドフォンは航空機汎用とはいえ、ジャックが二個あるので家に帰れば使えません。これがなんと、二機・往復・二人分で8個も出てきました。太っ腹というよりは、無駄だよコンチネンタル航空!
 私は記念に一個だけ持ち帰りました。
 
 ヒューストンのジョージ・ブッシュ空港は広大な牧場のど真ん中という感じの場所にあります。空は広く、遠くに牛の群れが見えます。現地時間午後3時、暑い空気の中を移動、イミグレーションに向かいます。驚いたことに、何人もが日本語を話します。
ドウシマシタ?」「ソレハ、アチラデス」と片言ながら教えてくれます。テキサスの田舎だと思っていたら、実はロスやフリスコと変わりないじゃん、と感心します。
 いったん空港の外廊下を通り、再度手荷物検査を受けて搭乗口に向かいます。この外廊下が不安です。ここはアメリカ国内なのです。いつギャングが銃を向けてくるかと心配になります。しかし何事もなく通過して再度出発ロビーに入りました。かみさんは金属探知機にひっかかっていました。
 ジョージ・ブッシュ空港
 旅はまだ先が長く、ここで3時間の待ち時間の後にキト行きのCO750に乗り移り、さらに5時間のフライトが必要です。22番ゲートで待ちますが、なかなか時間がたちません。しかもコンチネンタルの前の便、3時50分発シアトル行きの搭乗がいっこうに始まりません。みんな立って並んでいますが、かれこれ1時間くらいは待たされたようです。気の短いヤンキーたちがよく黙って立っているものです。
 シアトル行きが飛び立つと、すぐにコンチネンタル750の搭乗が始まりました。エクアドル人乗客が多いのか、機内はちょっと変わった雰囲気です。言葉はもうスペイン語ですし、乗客の顔の色も様々です。スペイン語の会話は派手で、陽気に響きます。私の隣りの客もエクアドル人女性で、彼女は前後の乗客と時々スペイン語で会話していました。
 飛行機は暮れていく夕空に飛び立ち、すぐに夜になりました。夕食が出ます。私は喉が渇いたので、とにかくビールを飲みました。(缶ジュースを買って飲もうにも外貨がないのです)
 5時間の飛行は長かったです。到着の前に「入国申請書を書くように」というアナウンスがあり、カードが配られます。これは旅行者の用意した書式通りに書き込みます。隣りの女性がペンを貸してくれ、と言います。私は自分のペンを貸し、返ってくるときに「これはマジック・ペンだよ」と言って三通りの使い方を見せます。このペンは細身なのに角度を変えることでボールペンの黒・赤とシャープペンシルの三通りの使い方が出来るのです。彼女は目を見張り、「私に下さい」と言うようなことを早口にまくしたてます。私は「駄目だ」と断ります。「どうして駄目だ?」と彼女はさらに食い下がります。私は困ってしまいました。
「これは大事なプレゼントなんだ」とかろうじて答えると、彼女はしぶしぶ納得したようでした。
 飛行機はようやく夜中のキト、マリスカ・スークレ国際飛行場に着きました。タラップを降りて吹きさらしの夜の空港を歩きます。風が冷たく、予想以上に寒いようでした。空気が薄いとはあまり感じず、階段を上るときにちょっと息苦しい感じがしただけです。ここは3000メートル級の高原地帯なのです。ヘタをすると高山病で死んでしまうと脅かされています。それを思い出して、出来るだけゆっくりと歩くようにしました。
 マリスカ・スークレ空港
 質素な建物に入り、入国カードとパスポートを提示します。通関はわりあい簡単でした。外に出ると大勢の出迎えがいます。その間を歩いていくと「メトロポリタン・ツアー」の名前を書いたボードを見つけました。その下には『KAMOHARA』と書いてあります。
カモアラ、カモアラ」と呼ばれ、「カモハラです」と応えると、髭の男性と若い女性が私たちを空港の外へ導きました。女性はマリアンさんというガイドで、男性は運転手でした。駐車場で普通自動車に乗り込み、真夜中のキトの街を走ります。街は暗く荒れた感じで道路も悪く、街角のあちこちに男たちがたむろしていて、なんだか不穏な感じさえ受けました。
 マリアンさんは英語のパンフレットを読みつつ、この国での旅行に際しての諸注意、と言うようなことを早口でしゃべります。ほとんどは事前に調べていたことばかりでしたが、「ガラパゴスでは入島税を100ドル払う」という所で、「米ドルですか、スークレではないんですか?」と聞き返すと、
スークレは廃止されました。すべての取引はドルです!」と言われてしまいました。税金だけではなく、買い物もレストランの支払いもみんなドル建てなのです。旅行社からはなんのインフォメーションもなかったので、これにはびっくりしてしまいました。
 走ること15分、ホテルに着いたのは11時過ぎです。マリアンさんがチェックインの手続きをしてくれ、明後日の打ち合わせをしてから帰りました。ヒルトン・コロンは清潔で上品で感じのいいホテルです。かみさんには一本の赤い薔薇がプレゼントされました。ラテン系らしい粋な計らいです。部屋は3階の12号室でしたが、エレベーターには3階が「日本人専用フロア」と書いてありました。ちょっと安心します。もっとも、外国人も泊まっていたようですが。
 薔薇一輪
 我孫子のうちを出てから20数時間、部屋に入ると二人ともヘトヘトで、風呂に入って12時半には寝てしまいました。でも私はなまじ飛行機の中で眠ったばかりにベッドでは眠れませんでした。
 
8月23日(二日目)キト
 ずっと眠れず、電気をつけるわけにもいかないので、暗い中で寝返りばかりうっていました。4時頃になって仕方なく起き出し、ライトテーブルでモバギを打っていました。5時半になってかみさんが起きたので、「ずっと起きている」と言うと、睡眠薬を分けてくれました。ゆっくり薬が効いて、6時頃横になると目覚めたのが8時でした。
 8時半に起き出して仕度し、9時に朝食に降りました。ロビー奥のレストランが朝食会場なのですが、最初チケットを忘れて取りに戻りました。その時、廊下を走っていって、途中で気が付いて早足程度にスピードを落としました。高山病でひっくり返るのはみっともないですからね。
 ホテルの朝食
ブエノス・ディアス!」と挨拶して髭のスタッフにチケットを渡します。ついたての後ろの二人席に案内されました。カフェテリア形式のアメリカン・ブレックファーストなのであとは自分で用意します。焼き物・煮物・果物、みんな豊富で、カラフルです。大鍋に10種類ほどの料理があり、パンも数種類、コーンフレーク、生ハム、ヨーグルトがあります。特にフルーツは数種類の果実・スイカ・パインが大皿に盛られて豪華です。その隣りには8種類のフルーツジュースがありました。私はフルーツを中心に、ジャガイモとベーコン、スクランブルエッグなどを二つの皿に盛りました。控えめにしようと思っても、ついつい大盛りになってしまいます。スイカジュースは爽やかでおいしかったです。髭のオヤジさんはカフェオレをついでくれます。かみさんは、ドライフルーツ入りのミニパイがお気に入りでした。アイルランドのアイリッシュ・ブレックファーストでも充分満足しましたが、食材はラテン世界の方が圧倒的に豊富です。
 ついつい大盛りに
 朝食から部屋に戻ると、かみさんが二度寝に入りました。ベッドメイキングが来ますが、「マイ・ワイフ・スティル・イン・ベッド」と断ります。英語は通じないはずなのに雰囲気は通じるようでした。寝ているかみさんの横で、私はモバギで通信を試みます。
 電源ソケットと電話モジュラーは全く日本と同じです。電圧も100ボルトのようです。通信環境は問題ないのですが、私の使っている「朝日ネット」は南米に通信ポイントを持っていません。ダブリンからは通信出来たので他の業者よりはマシなはずですが、全世界にネットワークを持つAOL(アメリカ・オン・ライン)と同じようにはいかないようです。仕方なくメキシコのローミング・ポイント(代理中継所)にかけます。
 外線には90番を回してからつなぐように、とホテルのマニュアルには書いてあります。そういう設定にして通信を始めますが、繋がりません。「回線がビジーです」の表示が出ます。何度かけても同じです。設定を変え、ゼロをつけたり外したりしてかけてみると、今度は交換手の声がスピーカーから聞こえます。参ってしまいます。
 そうやって何度も失敗したので諦めてケーブルを外したら、とたんに電話が鳴りました。日本人スタッフの赤間亜紀さんからです。
「さっきから、そちらの部屋からさかんに電話が鳴ると交換から連絡がありましたので、、何かトラブルかと思ってお電話しました」との言葉。
「インターネットに繋ごうとして、出来ないでいるんです」と応えます。
「普通は問題なく繋がるのですが……AOLではないんですか?」「違います、それでメキシコにかけているんです」「困りましたね、スタッフと相談しますから、17階のヴィップ・ルームに来てください」「わかりました」
 そう言って電話を切ったものの、この部屋のあるビルは8階しかないのです。17階というと隣りの管理棟のビルになるでしょう。いったんロビーに下りて、奥のエレベーターで上がります。VIPルームはガラス張りの明るい部屋でした。入り口近くにスタッフボックスがあります。赤間さんは丸顔にメガネをかけた若く可愛い女性でした。彼女は東洋系の技術スタッフ(男性)に私を紹介します。彼は私のモバギを見て、お手上げという感じでした。そして何やらスペイン語で赤間さんに色々説明していました。赤間さんは私に、
ホテルのサーバーを使う方法があるそうです。そのやり方をプリントアウトしてお渡ししますので、今度は支配人室へ来てください」と言います。私は仕方なく、彼女について再度エレベーターに乗ります。赤間さんはモバギを見て、「今のパソコンは小さいんですねえ、素敵ですね」としきりに感心します。それほどの物ではないのでちょっと恐縮します。ミニ・ノートでもPDAでも選び放題の日本とは事情が違うのでしょう。
 途中、恰幅のいい数人の紳士が乗ってきました。赤間さんが私に、「こちらが私どもの支配人です」と言います。支配人はマルクス風の髭の大男です。大きな手を差し出して握手してきます。私は焦りながら「お会い出来て光栄です」とモゴモゴ言っていました。
 3階の支配人室の長椅子でしばらく待っていると、赤間さんはA4で三枚のプリントをくれました。ざっと見るとTCP−IPの設定があるだけのようです。
「これは、ホテルのサーバーに直接繋ぐ設定のようですね?」と聞くと、
「そうです。でも、私にはよく分からないんです」という返事でした。
 お礼を言って部屋に戻り、さっそく繋いで見ます。TCP−IP以外はIDナンバーも暗証番号もいらないようです。半信半疑でしたが、やってみると割合かんたんに繋がりました。ラッキーです。これだと繋ぎっぱなしでも無料かもしれません。でも本当のところは分からないので、今回は慎重に二回だけ通信しました。
三枚のうち1枚・左がスペイン語、右が英語 
 午後、かみさんも起きたので明日のガラパゴス旅行用のドルを引き出しに出かけます。「入島税」100ドルというのはエクアドルの通貨価値からするとびっくりするような高値です。環境保護のためには仕方がないか・・・と思いますが、痛い出費です。これが二人分で200ドル、それにこれから数日間の食事代、アルコール代など考えると、かなりのドルを確保する必要がありそうです。
 午後1時半、着替えてロビーに降り、まずフロントにパスポートを預け、「どこで両替できるか」を聞きました。「2ブロック先に銀行がある」との応えです。私たちは言われた通りにホテルの前のアマゾナス大通りを歩いていきます。天気は曇りで、ちょっと寒いくらいです。ほこりっぽく、ゴミも目立つ通りで、しかも先住民族の老女や子どもがあちこちで物乞いをしています。いかにもの第三世界的風景という感じです。空気が乾燥していて鼻の粘膜がピリピリします。私は高山地帯ということで、スイスのように町のすぐ側に雪山がそびえている風景を想像していたのですが、キトは高山地帯からずっと離れているようで、そんな風景はまったく見られませんでした。
 アマゾナス通り
 最初に入った「プロドゥ銀行」は日本円を出して「ドルに替えてくれ」と言うと、行員はぎょっとしたようでした。3万4千円也の日本銀行券と私の顔を何度も見比べ、モノクロのディスプレイを眺めて考えています。やっと電卓を取り出し、スペイン語で叫びます。かみさんが「分からないから数字を書いてくれ」とジェスチャーで示します。すると行員はメモを渡しました。263ドルです。ひどいレートのようですが、仕方ないので「OK」と言うと、彼は「パスポートを出せ」と言います。パスポートは今さっきホテルに預けてきたばかりです。ホテルのカードキーを出して、「これで駄目か?」と聞きますが、「駄目だ」とばかりに首を振ります。私は諦めて日本円を返してもらいました。
「ホテルで、赤間さんに相談しよう」かみさんが言います。部屋に戻って電話してみますが、ちょうど昼食に出かけているとの事でした。残念。
 そこで私たちも昼食を取ることにしました。メニューは「日本から持ってきたオニギリ、飛行機で出てきたコンビニオニギリ・ミネラル水・ビスケット、ホテルの朝食に出てきたパン」という残り物です。ドルがないのだから仕方がありません。食べ物を残すのも私たちのポリシーに反します。
 エル・エヒド公園
 残り物を持ってホテルの向かいのエル・エヒド公園に行きました。公園の前面には先住民たちの物売り場が黒いテントを張って並んでいます。一見して不穏な雰囲気です。ちょっと用心しながら近寄っていくと、髭の男が声をかけてきました。男は「あんたたち、背中に何かついているよ」と言うのです。私は旅行者に汚物をかけ、それを拭うふりをして財布を抜き取るという泥棒の手口かと警戒して男に近づかず、手を振って離れました。公園の中に入ると、かみさんが「背中に黄色いものがついてる」と言いました。かみさんの背中を見ると、彼女の服にも黄色いカレーのようなものが一面に張り付いていました。男の言ったことは本当だったのです。かみさんによると、先住民の少年らしい影が逃げ去るのを見たということでした。
 私たちはお互いの背中をティッシュで拭い、いったん公園の外に出て大回りして西側の人の多い場所に移動しました。そこのベンチで残り物の昼食を済ませました。(日本から持ってきたオニギリは腐りかけていました)
 公園のベンチ
 それからホテルに帰って、汚された服を洗いました。お互いのシャツとズボンです。かみさんのズボンは白いので、どう洗っても黄色いシミが残りました。なんだか腹が立つやら情けないやらです。
 洗濯を終え、服を着替えてVIPルームへ行きました。日本人スタッフの赤間さんがいるかと思ったのですが、その席にはいませんでした。別のスタッフに「ミズ・アカマをお願いします」と言うと携帯電話の電話口に呼んでくれました。そこで彼女に両替のことを相談しました。彼女は「レートが安いのはどこへ行っても同じ」だと言います。それではキャッシュカードでドルを引き出せば国際為替レートだろう、と言いますと「その方がいいでしょう」との事でした。
 かみさんは「さっき、公園でカレーみたいなものをかけられたんですけど、こんな事はよくあるんですか?」と聞きました。赤間さんは驚いて、「めったにないことです」と応えました。彼女は、そういう日本人旅行者へのイヤガラセの話はこの数年で一件聞いたことがあるだけだそうでした。少しホッとします。
 午後3時半、私たちは再度さっきの銀行に行き、今度はカードを出してドルの引き出しを申し込みます。すると彼らは「ビザ・カードかあ?」と言います。
「ビザカードはこの先の**銀行でしか扱わない」と言うのです。女性行員が丸文字のスペイン語でメモをくれました。私たちはその「パチンチャ銀行」を求めてアマゾナス大通りをさらに進みました。
 丸文字のメモ(笑)
 500メートル以上は歩き、途中で一回間違いながら、パチンチャ銀行にたどりつきました。でもその銀行でも窓口では現金引出し出来ず、表通りに面したキャッシュコーナーで引き出し作業をします。警備員の一人が案内に付きましたが、彼も操作に精通しているわけではないようでした。何度も操作しながら、最後にエラーが出て結局現ナマを拝むことは出来ません。ドル獲得に失敗……。
 時間は5時に近く、明日の出発は早いので、このままでは一文なしでガラパゴスに行く羽目になりかねません。入島税を払えなければ島に入れてくれないかもしれません。結局、私たちは急いでホテルに戻ってパスポートを出し、最初の銀行で安いレート(1ドル=130円)で交換しました。銀行が遅くまでやっていて助かりました。
 懐にとりあえず使えるキャッシュが出来たので、夕刻を待って夕食にでかけます。6時半、ホテルの側面を通るフアン・ル・メラ通りを歩き、レストラン街のあるホセ・カラマ通りに向かいます。道は荒れていて二重駐車の列、信号はあっても歩行者は誰も守りません。車からクラクションを鳴らされても平気です。
 
   左:二重駐車の通り 右:ホセ・カラマ通りの壁画
 またも500メートルほど歩き、それらしい通りに来ました。なかなかシックな洒落た通りです。両側にレストランが並んでいますが、表示がスペイン語なのでどんなメニューがあるのかわかりません。ですから英語の表示のある店以外は入れません。いくつか覗いた後、道に張り出したテーブルのある店(DAGUI'S HOSTAL CAFE BAR)に入りました。
 乾杯!
 ともかくビールで乾杯し、店長に写真を撮ってもらいます。ピルスナー・ビールに料理はタコスとサラダのサンドイッチで8ドル、まあまあの味でした。途中で子どもの乞食が何人も来るのがうとましく、民族音楽をやる「流し」の青年にはやむを得ずコインを出すなど、この都市らしい苦味もスパイスの一つです。決して豪華な晩餐ではありませんでしたが、気分はリッチな夕食でした。
 最初の晩餐
 ビールを二本買って帰り、私はそれを寝酒にします。高地ではアルコールが回りやすいというのですが、そんな雰囲気はあるものの決して簡単に眠くなるわけではありません。この夜もなかなか寝付けませんでした。
ビールを買った雑貨店 

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