第二部:ガラパゴス・サンタクルス島

8月24日(三日目)

 いよいよガラパゴスへ出発です。

 午前6時に起床、6時半に朝食です。女房が歯磨きに時間がかかり、一人でチェックアウトします。通信費を請求されるのが心配でしたが、それはゼロでした。そうだと知っていたら、もっとばんばん通信するんだった。

 7時15分、ハンサムなガイド、ディエゴさんが迎えに来ました。車でキト飛行場に向かいます。チェックアウトした時ボーイさんからカードを貰いましたが、それが何だか分からずポケットにしまっていたら、ガイドさんから「チェックアウト・カードはないか?」と聞かれて分かりました。それをドアボーイに渡さないと車で出かけることが出来ないのです。ホテルの玄関の前に出迎え、という経験がなかったので分かりませんでした。

 朝の大通り、ディエス・デ・アゴスト(9月10日)通りにはトロリーバスが走っています。それを追い越し、追い越されながら飛行場に着きました。ガラパゴス行き飛行機は9時半出発。まだずいぶん時間があります。待ち時間にディエゴさんといろいろ話しました。飛行機からエクアドルの高峰コトパクシやチンボラソが見えるか、という話から、登山したことがあるか、とかスークレはいつ廃止されたのだ、とか主にかみさんが質問しました。その質問や応えを私が通訳します。スークレはエクアドル独立の英雄ですが、その個人と通貨がごっちゃになって、結局「英雄のスークレはずっと昔に死んだが、通貨のスークレは去年死んだ」という話になりました。

 そうこうしている間にチェックインが始まりました。みすぼらしい出発ゲートの粗末な椅子に腰掛けて待ちます。全体に貧しいこの空港ですが国内線の資材は特に貧相で、日本なら粗大ゴミになりそうな机やパソコンが並べられていました。だんだん乗客が集まって待合室は満杯になります。しかし出発まではまだずいぶん時間がかかりました。

 

 左:粗末な国内線の待合室  右:TAME航空EQ193便

 エクアドル軍が運営しているというTAME(タメ)航空は制服軍人の姿が目立ちます。これでガラパゴスの中心、サンタクルス島に渡るのです。

 お尻から搭乗

 9時半、飛行機はまずグアヤキルへ飛びました。途中、窓の左側にエクアドルの巨峰コトパクシとチンボラソが見えます。乗客はワイワイ言いながら左窓に注目します。新幹線から富士山を見ようとするお登りさんと変わりありません。私たちは右側の席なので残念ながらよく見えませんでした。チンボラソ(ちょっと恥ずかしい名前です)は窓際の席にいるの若い女性に撮ってもらいました。その女性は次々とカメラを手渡されるので、チップをよこせ、とばかりに手のひらを振って笑いました。

エクアドル最高峰チンボラソ山 

 10時15分、グアヤキル到着。ここはいくつもの大きな川に囲まれた中州のような街でした。外には出られませんが、暑そうな気配です。グアヤキルに30分ほどいて、飛行機はいよいよガラパゴスに向かいます。11:30に昼食が出ました。チキンとマカロニです。このタメ航空は女性が少ないせいか、男性アテンダントがもっぱら給仕をしていました。

 男性乗務員の給仕

 

 12時40分、サンタクルス島の北、バルトラ島にあるガラパゴス空港に到着。サボテンと灌木の荒野のような島です。武装した迷彩服の軍人たちが乗客を威嚇しています。あんまりいい気持ちはしません。西部劇の牧場のような木造平屋の空港施設に入ると、外国人観光客は長い列を作っていました。

 

 左:木造の管制塔が立つ空港  右:入島手続きの行列

 じわじわと進んで口蹄疫予防のマットを踏み、入島カードを提出します。荷物検査があり、その後一人100ドルの入島税支払いがあります。いっきに財布が軽くなりました。代わりに「ガラパゴス国立公園入園者証」を貰います。ナンバーは134373番でした。95年版の「地球の歩き方」で6万台だったと書いてあるので、6年間で倍以上になったわけです。しかしそれだと年間1万人程度で、千葉にある東京ディズニーランド(一日5万人だとか)なんかに比べるとほんのわずかな数です。もう一つの空港(サン・クリストバル島)もあるので実数はもっと多いのでしょうが、入島が厳しく制限されている様子はわかります。

入園者証 

 外に出ると陽射しが強くまぶしいくらいですが、風は涼しいのです。赤道直下とは思えません。キトが高原地帯だから涼しいのはわかりますが、低地なのにこんなに涼しいのは不思議です。フンボルト寒流の影響と言われても不思議は消えません。

       バルトラ島空港前でバスを待つ人々

 出口に色の黒い、西郷さんに似た無精髭の青年が迎えに来ていました。(若い頃の南方熊楠にも似ている)彼は私たちがリュック一つしか持っていないのが信じられない様子でした。彼は一切英語を話さず、スペイン語で何度も何度も尋ね、それでも心配なのか英語の分かる男性を引っ張ってきて彼にも確認させました。なんだか私たちがいかに非常識か叱責されているようで参ります。

 

 左:出迎えの「西郷さん」 右:ハシケ

 彼に導かれてバスで移動、小さな船着き場でハシケに乗り換え、サンタクルス島へ渡ります。そこから彼の車、トヨタのランクルで誰もいない道をひたすらぶっとばします。途中山を越えましたが、山の部分は霧に覆われ、(映画「ジュラシック・パーク」のイメージです)そこから緑が濃くなって風が冷たくなりました。50分ほど走ってプエトロ・アヨラの町に着きました。

 

 プエトロ・アヨラの中心からアカデミー湾をまたいで反対側にホテル・ガラパゴスがあります。ハイビスカスの花咲く緑の中に点々とバンガローがあって、ホテルというよりはキャンプ場という感じです。レストラン兼管理棟の中から見る景色は素晴らしい。目の前が波騒ぐ湾です。潮風の匂いが突き刺さるようです。思わず「ブラーボ!」と叫んでしまいます。

 ロビーから湾が

 管理人はカルロスさんと言って、サダム・フセインの影武者みたいな顔で、英語が通じます。いきなり明日からの日程を「ダーウィン研究所に行って、午後はカルデラに行って……」と早口で立て板に水とまくしたてました。記憶力はなかなかのものです。終わったら二人で拍手してしまいました。この管理棟にあるバーは自主申告のセルフサービスだということでした。

 日程をメモ

 それからバンガローに案内されましたが、コロニアル風というのか、質素ながら爽快な別荘という感じです。この部屋の窓からも、目の前が海です。

バンガロー風の部屋 

 大きなペリカンや、プテラノドンのようなグンカンドリが空を舞い、魚を目掛けて湾に飛び込んでいきます。原始の風景を見るようです。バンガローの外に出て波打ち際へ歩いていくと、小道にイグアナがいました。60センチほどの海イグアナで、もっさりしています。生きているのか死んでいるのかわかりません。でも、顔をよく見ると眠そうな目を開けています。とりあえず写真を撮って海岸に出ました。

 

 

  四枚とも部屋の前にいた海イグアナ

 黒い溶岩や灰色の岩の上に大小無数のイグアナが甲羅干しをしていました。近づいても逃げる様子はありません。

 

 海岸にいる海イグアナの群れ

 イグアナだけでなく、この島では様々な小鳥たちもすぐそばに停まって逃げません。感動してしまいます。

目の前にとまった小鳥 

 ロビーの裏でセルフサービスのビールを飲み、シャワーを浴び、落ち着いてから夕暮れの町を散歩しました。暗さが懐かしく、全てが夢のように美しいのです。

 

  左:セルフサービスのバー  右:ロビー裏の吾妻屋

 

 左:ロビー裏の海イグアナの群れ  右:ロビー裏の海岸

 

 左:船を使った土産物屋    右:町の中心部のロータリー

 ペリカン湾の側を通ると、たくさんのペリカンたちが羽を休めていました。写真を撮りましたが、フラッシュの光は彼らにはとても迷惑だったでしょう。

 ペリカンたち

 ホテルの部屋には電話がありません。町に公衆電話はありますが、古いもので通信端子もありません。一軒だけ「ペリカン・ネット」というインターネットカフェがありましたが、入る余裕がありませんでした。ガラパゴスからも通信したかったのですが、これはこの際出来なくても仕方がないでしょう。ここは世界の果てなのです。

 ホテルの夕食は「塩気のない野菜スープ・白身魚のソテー・豆の煮物」で、質素というよりも粗末なものでした。それでも私たちは満足して休みました。夜になると波音が激しく、しぶきが窓まで飛んでくるようです。イグアナたちはどうしているのか、気になります。

 

 左:夕食のメニュー   右:暮れ行く海岸

8月25日(四日目)ガラパゴス二日目

 午前2時にかみさんに揺り起こされました。自分だけ寝ているのがずるい、と言うのです。そんな事言われても困ります。そして彼女はまた寝てしまいましたが、私は眠れません。ベッドの上で何度も寝返りをうっていましたが、4時になってとうとう起き出しました。テーブルにあった蝋燭に火をつけて、モバギを打っていました。

 ローソクとモバイルギア

 5時になってもまだ真っ暗。6時になるとうっすらと白み始め、7時にやっと夜が明けました。これはやっぱり本土との時間差が問題だと、時計をあわてて1時間戻しました。今度はガラパゴス時間で6時20分、朝の海を見に行きます。今にも泣き出しそうな重い雲がたちこめています。風の中にポツポツと雨の粒が混じっています。暗い波間をペリカンが滑空していきます。黄色い朝焼けがうっすらと水平線を染めていきます。カメラを構えて朝焼けの空を撮ろうとすると、足元の岩の間からイグアナが這い出してきました。80センチくらいの大物です。彼らの出勤時間もけっこう早いようです。

 

   左:海岸の夜明け    右:岩から這い出た海イグアナ

 6時半、かみさんを起こし、7時に朝食に行きました。パンとジャム、スクランブルエッグにベーコン、コーヒーにフルーツジュースという普通のメニューです。

 今日はこのサンタ・クルス島を探検するのですが、ガラパゴスではガイド(ナチュラリストと呼ばれる)なしに勝手に歩き回ることは禁止されています。仕度してロビーで待っていると、8時半にガイドが迎えに来ました。ベロニカさんというちょっと猫背の綺麗な女性です。

 ベロニカさんと私 

 ベロニカさんに連れられて、ホテルのすぐ隣りに位置する「ダーウィン生物研究所」に入ります。自然公園の中をゆっくり歩きながら、草花や鳥や虫について解説してもらいました。植物に関してはかみさんが専門で、私はあんまり興味がありません。でも、耳を傾けないと悪いと思って一生懸命集中します。時々通訳もしなければなりません。植物名の英語などほとんど知らないので四苦八苦です。

チャールズ・ダーウィン生物研究所の中で 

 ハイライトはゾウガメの飼育所です。各種のゾウガメが谷の間に保護飼育されていて、その上に作られた橋から観察します。後半はすぐ側へも近づけます。巨大なゾウガメには圧倒されます。「ロンサム・ジョージ」として有名な一頭だけ残った種類のゾウガメがいて、広いスペースに二頭のメスといっしょに暮らしています。「メスには名前はないんですか?」と聞くと、ベロニカさんは苦笑して「ジョージアナ&ジョルジョーネ」と答えました。そのまんまです。

 

 左:ゾウガメ飼育所  右:ロンサム・ジョージの飼育所

 一箇所、ゾウガメに近づける場所がありました。そこで飼われているのは不法に飼育されていて、押収された亀たちだということでした。またとない機会なので夫婦そろってゾウガメと記念写真を撮りたかったのですが、他の若者のグループがやってきてゾウガメに触ろうとするのでベロニカさんが「さわらないで、フラッシュもたかないで」と注意しました。そういう中では彼女にシャッターを頼むわけにもいかず、撮影できずじまいでした。

 

 左右とも:巨大なゾウガメ

 11時まであちこちガイドしてもらい、出口へ向かいながら雑談していました。ベロニカさんは推定30代前半、二人の子持ちだそうです。

「英語はどこで習ったの?」「米国に一年間留学したの。日本語も勉強したい。今、兄が新婚旅行で日本に行っている」

「この島の車も日本車が多いね。トヨタ、ニッサン、ミツビシ……。バイクはホンダにヤマハ」「……&カワサキ」「そうだね、カワサキも」

 日本での子育ての話から、宗教・哲学の話になります。

「日本では家族のコミュニケーションはどうですか?」

「ジェネレーション・ギャップがすごく大きい、家族のコミュニケーションはそれで難しくなってしまいます」

「宗教的な問題もありますか?」

「私たちの親の世代は、まだ仏教が生きていますが、若い世代にはもうほとんど影響していません」

「私もカソリック学校に行きましたが、子どもたちには行かせていません。祖母は『どうして行かせないんだ』と言うんですが」

「都市文明では個人単位の文化が発達して、家族が壊されていますね」

「個人文化はエクアドルでもこれからどんどん力を持ってくると思います」

 そういう会話の後、「あなたは宗教を信じますか?」と聞かれてしまいました。

「既成の宗教は信じていません。しかし心のどこかで、この世界の存在、大地の、空の、宇宙の、生命の根源(場所柄、ダーウィンの「ORIGIN OF SPECIES(種の起源)」にひっかけて「ORIGIN OF LIFE」と表現)の存在を信じています。誰でもそうではないでしょうか」と答えました。彼女はこの答えを気に入ったようでした。

 こうして素朴な英語でお互いに一生懸命話してから、いったん昼食を取るために別れました。ホテルの昼食は、ラード風味のおかゆと茹でた豚肉、ポテトとブロッコリーのサラダという豪華版でした。

 

 午後2時、今度は「西郷さん」の運転する車で島の高地に行きました。西郷さんはホテルの従業員というよりは使用人という感じですが、ベロニカさんとカルロスさんは縁戚関係にあるらしく、彼女もこの青年を顎で使っていました。途中でベロニカさんのボーイフレンドという青年が乗り、二人は助手席に密着して座り、人目(西郷さんと私たち夫婦)もかまわず抱き合ってキスしたりイチャイチャしています。ちょっとあきれます。

 一本道を走っていく途中に「歌を歌わないの?」と言うとエクアドル人たちは「?」という顔をします。私はラテン民族は毎日陽気に歌って踊るものだとばかり思っていたので、こんな時に歌の一つも出ないのが不思議でした。でも、彼らは首を振るばかりでした。それでこちらも歌う気分をなくしてしまいました。

 サンタ・ロサ村を通り、途中でボーイフレンドを降ろし、国立公園の中に入って最初に霧に包まれた高地北側の湿地を歩き、植物相を探索します。木々に厚いコケがはりつき、パラサイト・プラントがからみついています。

 

 左:湿地の植物たち  右:カルデラをバックに

 それから二つのカルデラ湖を観察しました。深い穴の縁に立つと、足がすくみます。それから火山性の洞窟に入りました。富士山の麓にあるものと似ています。観光化はほとんどされていませんが、適度にライトアップされていてなんとか歩けます。天井からも下からも水が湧き出して、頭にポタポタあたります。

 

 左右とも:火山性トンネル

私は石の上で滑って、左手を打ってしまいました。後から見るとすりむいて血が出ていたので、ハンカチでしばりました。

 左手の怪我

 最後に野生のゾウガメのいるポイントにも行こうとしましたが、道がぬかるんでトヨタの四駆にも通れなかったので途中で中止しました。かわりに、ベロニカさんの友達の誕生会があるというので、そこに招待されました。

 クリスチーヌさんと息子

 誕生会は二つのキャビンを建築中の、ジャングルの間の畑の中の仮小屋で行われていました。三組のカップルと子どもたち、合計12人のグループです。キャビンの一つはもう屋根まで出来ていましたが、バルサ材という極軽量の木で出来ているので、ボール紙のように頼りなく感じました。8畳ほどの部屋の中で男女12人が雑魚寝した、と話していました。もう一つのキャビンはコンクリートの土台と水回り、カマドなど基礎部分だけが出来ていました。こちらは頑丈そうです。しかしいつになったら出来上がるのか見当もつかないそうでした。なんとなく「三匹の子豚」の話を思い出しました。

 

 左:バルサ材の小屋  右:作りかけ小屋のセメント土台

 焚き火を前に、コーヒーを飲みながら主に日本の話題をかわします。ここで私たちは日本の教育と子どもの現状を語りました。

 焚き火を囲んで

「え、レギュラーのスクールに通った後で、クラム・スクール(塾)にも行くのかい?」

彼らは信じられない、という顔をしました。それだけではなく、ヘビーな宿題もある、だから彼らの遊びはテレビゲームだけだ、というと「まったくクレイジーだ」と一同暗い雰囲気になってしまいました。

 5時ころに二台の車で町に帰りました。子どもたちは四駆の荷台で歓声を上げていました。この「誕生会」で感じたのは、ベロニカさんのような高等教育を受け、英語を話せる白色人種は超エリートだということでした。彼女は運転手である「西郷さん」にお茶の一杯も出さず、車に何時間でも待たせて平気なのでした。この国の階級差別を感じた一面でもあります。

 

  左:子どもたち   右:ランクルの荷台に乗る子どもたち

 6時半、ホテルの前で「またいつか」と言い合ってベロニカさんカップルや子どもたちと別れました。夕食は7時。チキンと白身魚の焼き物、ニンジンにスープ、炒りライスでした。この日はさすがに疲れてぐっすり眠りました。

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