2012.09.28

IV. 社会の情報科学
●社会心理学批判  p.247-p.253
    吉田の構想する社会の情報科学は社会という実態を自己保存系としてみたとき、それをあたかも生物や人間であるかのように扱う、という立場である。つまり「社会心理学」とでも言えるが、この言葉は今日では個人の心理が社会から受ける影響、あるいは個人の心理が社会に与える影響、を研究する意味で使われている。古くはヨーロッパにおいて、吉田の立場での社会心理学が、民族心理とか群集心理とか、集合心理とか、として存在したが、1924年にF.H.オールポートにより、社会心理の実態は個人の心理であるから、という理由で排斥されてしまった。勿論、大衆社会という現実に押されて、研究分野としては群集心理、社会的ムード、社会心理、流言、流行、世論、などが存在するが、それらの研究は「パーソナル回路によるフロー性の集合的情報処理」に力点を置くものである。吉田の情報論の立場からいうとパーソナル回路だけでなく、組織回路やマス回路が検討されなくてはならないし、フロー性の情報に加えてストック性の情報が、集合的情報処理に加えて分業的情報処理がが検討されなくてはならない。

●物質と情報の個体間伝達  p.253-p.256
    個人の情報科学においては情報の伝達は神経系が担当していたが、社会の情報科学においては個人と個人の間の情報伝達、つまりコミュニケーションが検討されなくてはならない。情報伝達は当然物質・エネルギーの伝達を伴う(それに担われる)わけであるが、個人の情報科学ではそれは生理学の問題であった。社会の情報科学においては、物的な側面と情報的な側面を両方扱う必要がある。社会的再生産過程(経済)は、情報変換とその対応物の変換に相当した「情報生産」と「物質生産」に依存するだけでなく、情報伝達とその対応物の変換に相当した「情報流通」と「物質流通」にも依存している。これらが、情報の社会的貯蔵(集団規範や文化等)や情報の社会的変換(社会的意思決定等)にとって、基底的な位置を占めているので、以下、基本となる個人と個人の情報伝達に絞って考察する。

●伝達システムのモデル  p.256-p.261
    記号論と個人の情報科学に基づいて伝達システムのモデルを考えることが出来る。個体間においては、記号以前の刺激パターン、状況記号、シグナル性シンボル、慣行性シンボル、イコン、外語(話されたり書かれた言葉)がやり取りされる。このプロセスを全体として一つの情報処理過程として見ることが出来る。

    発信過程は、発信者における情報の受信→動因変化・意味形成と記号形成(意味の表現)→送号化(encoding)である。ここで発信者の内部には受けた情報による動因変化が生じることに注意すべきである。

    送信過程は通信工学ではノイズの影響を避けるために大きな研究分野となっているが、社会では中継者による「情報回路」として別途採りあげねばならない。

    受信過程は発信過程の逆であって、複号化(decoding)→動因変化・記号受容(意味の理解)と意味受容→反応アウトプット(発信・行動)となる。

    このプロセスで一番重要なのは「意味形成」と「意味受容」である。その内容を分類すると、まず認知、評価、指令の区別がある。耐用情報と単用情報の区別、実経験的と象徴経験的の区別、フロー面での受容とストック面での受容の区別、が考えられる。更に。受容した情報の新規性から情報獲得、情報補強、情報改変が区別される。

●社会的コミュニケーションの諸類型  p.261-p.268
    コミュニケーションは必ずしも意思によるものとは限らないから、発信側の有意・無意と受信側の有意・無意によって4通りの場合がある。状況記号(仕草等)や慣行性シンボル(服装等)はしばしば無意発信となり、ディスコミュニケーションの原因となるが、他方では有意発信では得られない隠された真実を知る手がかりとなる。なお発信の有意性と表現の有意性は区別しなくてはならない。作為しない表情によって怒りを伝えようとする場合は、無意表現の有意発信であるし、第3者への有意表現が傍受される場合は有意表現でありながら無意発信となる。

    情報処理の実経験性(適応を目指す)と象徴経験性(カタルシス)の区別も発信側、受信側であるので4種である。前者は用具的、利用的、後者は表出的、満足的である。

    発信と受信の意思には認知志向、評価志向、指令志向が区別される。なおこの場合指令というのは発信者から受信者への命令である。これらの志向が発信と受信とで必ずしも一致するとはかぎらないので、しばしばディスコミュニケーションの原因となる。なお、意思と表現とは区別しなくてはならないから、指令志向の発信であっても、表現は評価志向ということはある(例えば広告がそうである)。とりわけ指令の意思を摩擦なく伝える工夫としてしばしば認知表現や評価表現が使われる。

    単用情報(その場限り)の伝達と耐用情報の伝達の区別もある。単用情報の伝達においてはタイムラグが致命的となる場合が多いが、耐用情報の伝達はストック面が重要となり、反復される傾向がある。

●社会的ディスコミュニケーションの諸類型  p.268-p.270
    コミュニケーションのプロセスから見て、発信側では、表現不備、送号化不備がある。送信路ではノイズもあるし、中継者の誤解もある。受信側では複合化不備、理解不備、受容不備、がある。理解不備というのは例えば認知、評価、指令の意思と表現が異なる場合に含意された意味を想像出来ない場合であり、受容不備というのは実経験性と象徴経験性の取り違え、理解はしてもフローレベルで拒否する場合、ストックレベルまで達することなく忘れられる場合、等である。

    概してディスコミュニケーションの研究は発信者の利害に供しており、受信者側でのディスコミュニケーションを問題にしてきたが、本来的には発信者側や送信路におけるディスコミュニケーションも課題とすべきである。

●社会的コミュニケーションの研究分野  p.270-275
    「発信」には「発信者」(その属性や構造、情報空間)と「発信過程」(発信プロセスと発信動機)が含まれる。「送信」には「送信媒体」(メディア)と「送信情報」(送信内容)が含まれる。「受信」には「受信者」(その属性や構造、情報空間)と「受信過程」(受信プロセスと動機過程)

    吉田は更に議論を進めて、以上の研究は単一のコミュニケーションであるが、社会で問題となるのはコミュニケーションの連鎖、つまり「情報回路」であるとして、その内容については触れずに考察を終えている。社会の情報科学は個人の情報科学に相応させて言うならば、一対の神経細胞同士の情報伝達を記述するだけで投げ出されたのである。

●持ち越された課題  p.277-p.281
    「社会的情報回路」は多数の社会的コミュニケーションの連鎖・回路であり、その中であらゆる情報処理がなされる。それらは複雑に絡み合って多数の層構造を形成している。現世人類の発生以来現在も発展しつつあるその様相を解き明かすことは容易でないし、研究対象そのものも流動的にならざるを得ない。吉田がさしあたり対象と考えているのは、「工業化国民社会」と「官僚制集団」である。前者におけるパーソナルコミュニケーション(1対1)とマスコミュニケーション(1対多)、組織内・組織間コミュニケーション、後者におけるフォーマルコミュニケーションとインフォーマルコミュニケーション等である。

    「社会的情報の諸形態」は社会的情報回路の各層が特有の「社会意識」を形成している様を記述するものである。しばしばマス・メディアによって、経験的適合性を持たない「擬似情報」が流布されて、社会意識が「虚為意識」となる。

    「社会的意思決定の諸問題」は、様々な統治機構を一般的な見地から整理したり、意思決定の社会性や集団性や共同性を保証する条件を整理したりする問題である。例えば、社会的厚生を生産性(国民所得等)、満足性(生活向上等)、連帯性、蓄積性(資本や技術や文化等)の関数と見て、それぞれの重み付けを議論するというようなやり方が考えられる。また、社会的意思決定は複数の社会でなされるから、それらの間の勢力布置と妥協がどうなされるか、という問題もある。代議制、官僚制、分権か集権か、あるいは計画経済か市場放任主義か、といった問題が社会全体の適合性の観点から議論されなければならないだろう。

    「社会的意思決定を規定する要因」としては、社会的要件、勢力布置、貯蔵情報が重要であろう。社会的要件は歴史性を帯びていて、異なって社会的主体は相互に矛盾することが常態である。国民経済における投資と消費の葛藤や資本家の利潤と労働者の賃金の相克はその例である。それらは社会の貯蔵情報を参照しつつも勢力布置で規定されるのである。

●自己組織性  p.10-p.19
    後に書かれた第一部の後半では、特にプログラムについて展開を追加していて、自己組織系をプログラムによって情報を処理する存在と定義している。これは物理・化学でいうところの自己組織系(単なる自発秩序形成)よりは狭い定義である。プログラムの改変によって、自己組織系は進化や学習が可能となるが、とりわけ学習による適応は「主体性の確立」という風に表現されていた。学習の段階に応じて自己組織系は、(1)構造保持のフェーズ、(2)構造破壊のフェーズ、(3)構造模索のフェーズ、(4)構造変容のフェーズ、を循環しながら適応度を上げていく(あるいは滅亡する)という見方を追加している。単なる物理・化学的な自己組織系は(1)のフェーズに留まる、ということであろう。もっとも、物理・化学的な自己組織系も環境条件の変化に対して自動的に最適化してその構造を変えるのであり、更に複雑系として見た場合にはその構造も分岐するので、吉田の定義との区別は実態として曖昧になると思われる。勿論、そこでプログラムというものが担体(物理・化学的実体)を得るかどうか、という点で区別することは可能だろう。

    吉田は更に進んで、自己組織性に相対一次の自己組織性(現状システムの制御)と相対二次の自己組織性(プログラムの選択や破壊や改変)とを区別している。相対、というのはこれがサブルーチンとその親ルーチンのように相対的にしか定義できないからである。自然と人間系を区別するために、自然生成的な自己組織性と制度化された自己組織性(自己組織性そのものが自覚され、管理される)という用語も定義している。最後に、「複合的自己組織性」である。これはさまざまな同位レベルあるいは階層レベルでの自己組織性がお互いに絡み合って連関している、ということを表現している。少なくとも社会を考える場合はそうならざるを得ないだろう。複合的でありながらも自己組織性を発揮できていない社会は烏合の衆であるが、そのような場合に吉田情報論そのものに有効性があるのだろうか?混沌の中から主体性が生まれてくる、そのメカニズムの探索やその為の種の仕込み方、のような考え方が更に必要なのかもしれない。

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