2022.09.20
『戒厳』 四方田犬彦(講談社): ふとした偶然から大学院修了後すぐに朴正熙(パクチョンヒ)時代の韓国の大学で1年間の日本語教師に赴任した著者の体験談である。なかなか衝撃的であるが、消化する時間がないので、とりあえずメモを残しておいて、後で振り返ろうと思う。

第2章 到着直後

・・・顕国(ヒョンクク)大学校師範学校である。たとえ朴正熙が許可していても、非道な支配者であった旧宗主国日本の言葉を専攻することは公にはできない事(両親に知られてはならない事)だったので、「日本語学科」ではなく「外国語学科」という学科名になっている。学生の入学動機は、教師になるため、日本の文学を読むため、韓国が独裁政権で軍事国家なのに、日本はなぜ民主主義国家になったのかを知りたい、とかいろいろ。韓国は日本における天皇のような権威が存在しないから統一できないのだ、という学生は、何と三島由紀夫の『憂国』を愛読していた。学生たちは、日本を追い越すために、皆それぞれに真剣である。男子学生は大学在学中に3年間の兵役義務がある。兵役後の学生はまた大学に戻ってきて、目の色が変わる。

・・・朴正熙大統領はベトナム戦争に積極的だった。韓国にとって南ベトナムは同じ運命を共有する兄弟国でもあったからなのだが、経済的効果もあった。軍人だけでなく、建設業、接客業まで手がけて韓国に膨大な外貨をもたらした。
   
第3章 城市ソウル

・・・著者は映画が好きだったので、あちこち映画を見て回る。梶山季之原作の『族譜(チョッポ)』に感銘を受ける。役人として改氏改名を迫らざるを得なかった日本人の物語である。

・・・国際詩人大会でのレセプションに出席した著者は、日本から来た詩人たちが一切詩の話をしない様子に驚く。大会は当時獄中にあった詩人の解放を決議しようという提案が出ると同時に当局によって強制解散された。

第4章 日本人と僑胞(ギョッポ)

・・・ソウル滞在中の日本人。韓国に全く馴染めていない。黒人の英語教師は韓国人には相手にされない。陰で怪物と呼ばれている。

・・・酒場で知り合う韓国人。世界に対するその鬱屈した感情が時折爆発する。呑み方が尋常でない。著者は韓国語を懸命に話そうとするので仲間のようにして受け入れられた。韓国人は貧しくもなければ反日的でもなかった。彼らは常に一人称現在形で、わたしに向かって真正面から話しかけてきた。

・・・在日韓国人が母国を訪問して、交流をした。彼らは日本の社会に馴染んでいて韓国の社会を軽蔑している。韓国人は彼らのことを許せない。全員韓国に連れて帰って精神を鍛えなおすべきだという。大学図書館の地下には戦前に日本人が所持していて捨てていった日本語の本が山積みになっていた。森田芳夫の雑誌『緑旗』があった。彼は韓国生まれで、朝鮮史を研究し、戦後は外務省に居て、現在は故郷の韓国に住み着いているのだが、戦前は「皇民化運動」の旗手だった。

第5章 残滓と模倣

・・・教材に日本のポップスを使った。岡林信康には敏感に反応した。石川セリも歌うようになった。ピンク・レディは韓国公演の時に韓国語で通したことで好感度が高い。韓国の歌を紹介してもらうと、アメリカのポップスのメロディに詞を付けたものばかりだった。内容は南北分断や民主化闘争であった。著者は「ゲゲゲの鬼太郎」の歌を歌ったが、理解されなかった。学校にも行かなかったら国はどうなるのか?と真剣である。安寧の場である墓場にお化けが出るなどもっての外である。彼らは大学生であることに誇りを抱いている。漫画など論外である。家にある漫画を持ってきてもらうと、殆どが日本の漫画の盗作であったが、彼らはそれを信じない。日本の少年漫画では民族差別や植民地問題は禁忌であるが、韓国では逆に民族主義が描かれる。大衆的なサブカルチャーにおいては日本文化の遺産に乗っているのだが、逆に高尚な文化においては西洋書の海賊版一色である。

第6章 全羅南道(チョルラナムド)への旅

・・・兵役を終えて帰ってきた光州出身の二人の苦学生と親しくなり、夏休みの帰省に同行した。

・・・扶余(プヨ)は、百済の首都として繁栄していて、唐ー新羅連合軍によって潰された。見るべきものは無かった。国家の敗戦とは本当はこんなものなのである。略奪と放火で何も残されていない。山中でキャンプを続けた。軍隊で鍛えられた身体と知恵が目覚ましい。一人は休戦ラインで北朝鮮のラジオを防諜していた。もう一人は独島を警備していた。独島を領土にしても殆ど意味は無い。韓国人は独島を奪われて悔しがっている日本人を見て心理的復讐をしたいだけなのである。日本に支配されたという歴史に対してどうしようもない屈辱感を抱いている。

・・・光州はソウルと比べるとのんびりした処である。1929年、光州で日本人中学生と韓国人中学生の間で大規模な喧嘩が発生し、韓国人中学生が抑え込まれ、抗日デモをして鎮圧されたのだが、やがてデモは全国的に拡がってしまった。三・一運動以来の10年振りの抗日運動となった。韓国には「学生義挙」という言葉がある。過去の抵抗運動は「知識人である」学生が主導したのである。

第7章 里門洞(イムンドン)

・・・突然 KCIA に呼び出されて、求職者の日本語試験を行うことになった。日本語に堪能な者は日本統治時代の年代と在日韓国人であって帰国した者であった。KCIA は韓国人にとっては給料の良い勤め先でしかない。

第8章 大蛸来韓

・・・大学でのゼミの同級生の女性(大蛸)がやってきてソウルの観光案内をする。妓生観光に来た日本人が連れの大蛸を妓生と間違えて侮辱したので、怒ったのだが、韓国語になってしまったので、彼らは逃げ出した。日本人は韓国人に恐れを抱いている。怒らせると怖い。うしろめたさがある。

・・・大蛸が土産に持ってきた日本の最近の小説(村上春樹)を読んで不安になった。主人公はかって大学で学生運動をしていたが、怒りや敗北感が語られているわけではない。アメリカのポップカルチャーを受け入れながら、人生を達観している。韓国人の意識とはあまりに隔絶している。こういう日本に帰ってやっていけるだろうか?

第9章 アジョシの還暦

・・・著者はアジョシという釜山出身者のマンションに下宿していた。彼は釜山の日本百貨店に勤務していた。俳句が趣味であった。朝鮮戦争が終わると新たにできた百貨店で勤め上げて、定年後ソウルに移り住んだ。久しぶりに日本語が話せるので著者を歓迎している。彼の還暦の祝いがあり、釜山から大勢の人が駆け付けた。釜山では公的には禁じられているが日本のテレビ電波も届いている。許南麒という人も彼の知り合いだったのだが、彼は日本に渡って朝鮮総聯に入ってしまったので、来ない。お祝いに来た客人は皆日本統治時代を懐かしがっていた。

第10章 夭折の映画監督

・・・河吉鍾(ハキルジョン)は38歳で亡くなった。彼の映画『馬鹿たちの行進』の話。哲学科の二人の男が徴兵検査を受けて、片方が合格する。二人は合同デートをしてそれぞれ恋の成就を目指すが、二人とも振られる。検査部合格者は絶望して自殺。強い理想と痛ましい断念がある。見果てぬ理想の滑稽を承知しながらもあえて愚行を繰り返し、心を破滅から救う。

・・・続編が『炳泰(ピョンテ)と英子(ヨンジャ)』である。炳泰は3年の兵役を終えるが、英子は青年医師と交際中であった。炳泰は青年医師に婚約披露宴までの競争を申し出る。マラソンと自動車の競争である。しかし、片や軍隊で鍛えた脚を持って走りきるのに対して、車の方は交通渋滞に巻き込まれて間に合わなくなり、炳泰と英子は無事結婚して、双子の子供を授かるのである。3年間の兵役を課された韓国の若者を励ます為の映画である。

・・・河吉鍾は李承晩政権を倒したときに学生デモの中にいた。その後アメリカに留学し、帰国したときは朴正熙の軍事クーデター政権だった。検閲によって表現を奪われた彼が喜劇の体裁で大衆に訴えたのが、上記二つの映画であった。

・・・田彩麟(チョンチェリン)はアメリカで彼と知り合って結婚したフランス文学者である。コクトー、ボーボワール、モーリヤック等の翻訳で知られる。著者は彼女を訪ねて河吉鍾のエッセイ集『白馬に乗ったトト』を借りて読んだ。アメリカ人を見下してやる、という意気込みで、白馬(アメリカ白人の女)に乗り、乗り捨ててやる、と意気込んだトトはアメリカで頑張って、白人の女を連れて帰ったのだが、捨てるどころかメロメロになってしまった、という話。『胎をめぐる過去分詞』という河吉鍾の詩集には、李承晩政権を倒して意気揚々としたその1年後に朴正熙のクーデターで希望が砕けた挫折感が歌われている。河吉鍾はその後若者たちが集う場を煩雑に訪れて彼ら素人ばかりを使って二つの映画を作成したのである。

・・・田彩麟の父親田鳳徳(チョンボントク)は日本統治時代から権力の中枢に居た人物である。姉の田惠麟(チョンヘリン)はミュンヘンに留学し、ヘッセの『デミアン』を翻訳して自殺した。河吉鍾の弟、河明中(ハミョンジュン)は『族譜』の主人公を演じた美男子俳優である。著者は彼の日本語会話教師を引き受けた。

第11章 戒厳令発動

・・・著者はソウル市街でいうとちょうど反対側にある吉祥女子大学での日本語劇の指導をやっていた。公演は2回延期され、いよいよ明日という日に、突然戒厳令が発動された。朴正熙が暗殺されたのである。少し前から、釜山をはじめとして全国で大規模なデモが起きていたから、何かが起きることは予期されていた。吉祥女子大学には入れなかった。大学図書館長の宋教授の感慨が意外だった。学生デモで崩壊する程度の政権しか作れない韓国が情けない。日本では安保改定反対デモがあれほど高揚したのに、岸首相が退陣しただけだった。やがて、暗殺者が公表された。KCIA の部長である金載圭(キムジェギュ)だった。(後に彼の意図は朴正熙政権の打倒であったことが判る。)学生とは英雄談義となった。戦後の日本に英雄は存在しない。朴正熙が英雄であったとするならば、それは韓国が英雄を必要としていたからだ。英雄によってしか国内をまとめられなかったからだ。学生には天皇が英雄でないということが理解できなかった。

・・・戒厳令下の市街を歩き回って、日本大使館まで来ると、直前に来韓した福田恆存主催のイギリス翻訳劇団「昴」の扱いでゴタゴタしていた。

・・・「昴」の公演『海は深く青く』(ラティガン)が2日間だけ許可された。駆け落ちした中年の女性が恋人に別れ話を持ち出されてガス自殺を図る話で、3時間もある。福田恆存による暗喩に満ちた台詞もよかったが、それよりも彼の挨拶が印象に残った。彼は後に『孤独の人、朴正熙』という評論を文芸春秋に書いている。

・・・KCIA の面接試験を受けに来ていた「僕ちゃん」の朴正熙評。僕らは生まれたときから韓国に居て、よその国の民主主義を知らない。韓国は韓国のやり方でやるしかない。李承晩が西洋一辺倒で日本を無視していたのに対して、朴正熙は日本語を認めたので、女性にも日本語教師としての職業が可能になった。朴正熙は親日だったのではない。利用できるものは日本だろうと何だろうと利用したのである。彼は開発独裁(産業育成)と農村改革を行った。下宿の主人アジョシの評は、清廉潔白で立派な人だった、ということである。知識人の間では嫌われていたが大衆には人気があった。朴正熙は紛れもなく愛国者だったが、暗殺者の金載圭もまた愛国者だった。部外者の著者には何も言う資格が無い。暗殺事件で韓国民が一番心配したのは北朝鮮の侵攻であった。

エピローグ

・・・1979.10 朴正熙暗殺後、暗殺者 金載圭は処刑され、しばらくは自由な空気が漂い、1980.02 金大中(キムデジュン)他政治犯が公民権を復権した。学生たちは民主化運動を始めた。05.17 金斗煥(チョンドゥファン)が実権を掌握して再度非常戒厳令が敷かれたが、ただちに光州でデモが激化して鎮圧された。金斗煥は朴正熙とは違って理念を持っていなかった。

・・・著者は韓国からの帰国者として、国内右派から誘いを受け、左派からは嫌疑の目で見られた。その後アメリカにも留学し、日本の外国語専門大学に応募したが、北朝鮮系の教授達の運動で却下された。日本の左翼は何故韓国を自らの目で見ようとしないのか?日本の行った罪悪から安易に訪韓すべきではないと言うが、それは単に逃げているに過ぎない。韓国人は、民族的にも歴史的にも、巨大な観念と格闘していて、それに触れることすらできない。

・・・1986年、著者が教鞭をとった顕国大学校は北朝鮮派(NL派)の拠点となっていて、東大の安田講堂のような事件が起きた。

・・・その後、韓国は急速に変化した。金泳三も金大中も大統領となった。韓国の新しい文化が日本にもやってきて、観光客も増えた。1979年の韓国は日本ではついに理解されることはなく、韓国社会自身もそれを忘れていった。

・・・2000年に、著者は再びソウルで客員教授となった。民主化と並行して大衆社会が実現していた。あの気味の悪いアメリカ風小説家、村上春樹の『ノルウェイの森』が民主化を成し遂げた若者の物語として大ブームとなっていた。彼は韓国で太宰治の後釜に座ったのである。

・・・池明観(チミョンクワン)氏に会った。彼は1972年以来20年間東京に亡命して、『世界』に匿名で韓国批判『韓国からの通信』を連載していた。彼は韓国に帰って来たのだが、民主化運動家との間には亀裂が出来ていた。安全地帯に居た彼との意識の違いもある。東アジア全域の未来を考える彼に対して、民主化運動家達は韓国と日本の対立関係とナショナリズムに凝り固まっていた。

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