2007.10.19

    随分前に買ってあった安冨歩「複雑さを生きる」(岩波書店)を読み始めた。基本的に環境心理学 を下敷きにしているようである。最初にグレゴリー・ベイトソンが出てくる。「情報」とはちがいを生むちがい、として定義される。そもそも生物は変化しないものを知覚することはできず、今までとどこかが違うということを受け取るわけであるが、それだけではまだ情報とは言えず、その結末として何らかの違いが行動として表現されるということがもう一つの条件である。ちがいがちがいを産みまたちがいを産むというサイクルを「精神」という。したがって精神というのは身体だけでなくその環境も含んでいるし、社会も含んでいる。次に、「知る」ということの定義のために、マイケル・ポラニーの暗黙知を持ち出してくる。明示知は explicit knowledge であるが、暗黙知は tacit knowing である。

    ちがいとちがいのサイクルには階層性があり、下位の階層のサイクルと上位のサイクルの相互作用の中から「意味」が生成する。これが知ることである。基本的にはそのようなサイクルの相互作用そのものを tacit knowing という行為として捉えている。「創発」というのはこの「意味」の出現過程であるが、それがどのようにして可能なのかはまだ確かな理論はない。相転移や自発的パターン形成のような物理現象は下位の原理の作動に過ぎないから創発ではない。創発には初期条件の偶然性、歴史性、一回性が関わっている。勿論生命現象そのもののことであるが、セルオートマトンのような現象はそれに近い。最近の研究では決定論的カオスが一番そのメカニズムに近いと考えられる。すなわち、構造安定性を持たないカオス同士に相互作用を与えると何らかの構造が出現する、という現象である。これは長続きはせずやがて壊れ、また生成する、という遍歴を示す。知らない→ランダムカオス、知っている→周期解に近い弱いカオス、知らないが何かがある→カオス的遍歴、という対応である。においのメカニズムについて臭球での電気的活動の解析によって、どうもそうなっているらしいということが判った。以上はまず予備知識という感じである。

    「知る」ということが、ちがいのサイクルの階層性における「創発」である、ということであるが、論点は社会的関係に移る。コミュニケーションが成り立つためには、「意図」→「行為」→「解釈」というステップが必要である。その前提として何らかの「場」が共有されている必要がある。そうでないと解釈不能に陥る。たとえば、共通言語や規範があれば、解釈は容易である。場は全てに先行する。場の中でまず行為があり、それが意図として解釈される。そのようにして人は意図を知るのであり、その積み重ねが成長である。コミュニケーションの成立には必ずしも意図が正しく解釈される必要はないし、通常そのようなことは不可能である。そもそも意図の背景には過去の全てが反映されていて、重層的に意味が重なっており、完全に解釈されることはありえない。それでもなおコミュニケーションを成立させるためには、お互いに相手についての理論を作り続けるという努力が必要である。片方がそれを放棄したとき、コミュニケーションは終わる。

    更に論点が絞られてきて、社会を形成するに必須であるコミュニケーションの本質的危うさとして、「ハラスメント」を取り上げる。ハラスメントとは相手についての理論を作り続ける努力を密かに放棄することであって、相手は自分についての理論を作り続けるから、それを利用して相手を操ることが可能となる。相手の予測を意図的に裏切る行為に出ることによって相手を混乱させる。しかし、相手が怒って関係を放棄してしまえばお仕舞いであるから、それを繋ぎとめるような行為も織り交ぜていく。相手は混乱しながらも関係を続けることになる。こうして相手に精神的疲労を蓄積させた上で、自分にとって好都合な行動基準を相手に吹き込むのである。1973年にストックホルムで起きた銀行強盗事件は典型的なハラスメントとして知られているらしい。ストックホルム症候群という名前が付いている。人質達は銀行強盗のハラスメントによって、彼を崇拝するようになってしまった。大学の研究室のような閉鎖的な環境でしばしば起きていて、世間に知られるのはその一部に過ぎない。

    社会を構成するのは個人ではない。個人と個人の関係としてのコミュニケーションである。個人はその環境に過ぎない。このコミュニケーションを破壊する要因はコミュニケーションの要素の中にあり、それがハラスメントである。ハラスメントの契機は「不安」、本来の自分が受け入れられていないという感覚、である。この不安から他人を支配し操作するという意欲が生まれ、加害者となる。被害者もまた「不安」からハラスメントに捉われていく。愛されていないという感覚を肯定できないために、全てを自分の欠点の所為にしてしまい、加害者につけ込まれて、ハラスメントの罠に嵌る。そもそも子供の躾というのはハラスメントとなりやすい。子供が自分の感覚に従って判断して規範を学ぶ前に、子供に規範と罰で臨むと基本的にハラスメントとなる。子供は本来の自分の感覚を他者として敵視し、弱さだと思い込む。ハラスメントが蔓延るようになるとコミュニケーションが破壊されて社会が不安定になる。規範を強化しても逆効果である。違反者が増えてますます社会が不安定になる。

    ここまで読んで、グレゴリー・ベイトソンの本を東図書館で借りてきて読もうと思ったが、あまりにも饒舌で大部な本なので諦めてしまい、一ヶ月が経ってしまった。

    第3章は生き物の世界として本質的な複雑さを持つ対象においては計画制御が無意味であることを説いている。ここでもグレゴリー・ベイトソンが登場する。「目的と因果関係に基づく枠組みの中では、精神全体や外界の出来事に存在する回帰的な因果関係を捉える事が出来ない。出来事の循環回路の一部だけを切り取った<弧>に意識が集中してしまう。それを避けることこそ知恵というものの本質である。」複雑な系を制御する方法として示唆的なとして、スポーツのコーチ、カオス的な系におけるノイズによる秩序形成、多賀厳太郎の試みた2足歩行システム 、が挙げられる。システムの持つ自立性に委ねつつ絶えず観察しその勢いを利用する、という制御の仕方、とでも言える。結果的に見て制御とその結果は線形であるように見えるが、それは複雑な系に複雑な系を接続した結果なのであって、確認されていない多くの要素が絡んでいるために、得られた線形関係をそのまま適用しても同じ結果にはならないのである。アシモの2足歩行におけるような複雑な制御では動きの柔軟性は得られない。社会に対しても同様であって、ある目的を持って特定の社会に資源を投入する、というやり方自身は破綻をきたす運命にある。逆に目的を定めず、利用できる資源を並列に検討し、参加する人々のコミュニケーションを活性化することこそが最も重要なことである。とはいえ目的を持って働きかけることは切っ掛けにはなる。例としてキリマンジャロ林業開発プロジェクトが挙げられている。プロジェクトは計画的に進められたが、やがて元の木阿弥になり、その中で村人達自身によって小学校建設が進められて、それだけが成果として残った。社会に対する計画制御ではプロジェクトの部分への分割とそれぞれの責任分担が基本となる。うまく行っている場合は良いが、うまくいかなくなると分割が細分化され責任者が増大し、それらを監視したり報告したりするだけで人々が疲弊してしまう。そうではなくて、人々のコミュニケーションの連鎖を作り出し、自分で筋の通った判断を下せるようにすることが大切なのである。大きなプロジェクト、大きな会社になればなるほど、これが重要である。

    第4章は戦争と政治の話になる。ここでは孫子の兵法が出てくる。極意は「無形」ということにある。予めあれこれの戦略を決めてはいても戦場では何が起きるか判らない。その場の判断が問われる。こちらの戦術が相手に見えない、ということこそ最高の戦略なのである。敵の形に合わせてこちらの形を決め、その形が相手に見えなければ(意図が見えなければ)勝つのである。無形に到るためには個々の戦闘に集中していては駄目であって、その戦略的コンテキストを考えなくてはならない。戦わずして勝つのが最良の戦略なのである。お互いに軍事的運動を行いながら相手の態勢を崩そうとする。そのような運動の中で生まれたチャンスを獲得することが勝利である。正にコミュニケーションを如何に高度に保つか、ということが無形を齎すのである。

    20世紀に到って、人類は初めて総力戦(第一次世界大戦)を経験した。それまでの戦争は平時に蓄えた軍事力を一気に使って戦い、資源が無くなれば終わった。しかし第一次大戦においては、戦争を行いつつ資源が再生産され、武器や戦術が大きく進歩していった。高度な生産力、教育水準、資源を持つ国にしかできなくなった。そのような戦争によってヨーロッパの各国では戦争そのものの考え方が変わってしまった。消耗しあう塹壕戦は出来るだけ避けられねばならない。結果として生まれた戦術としては、一つは敵国の都市や工場を狙う戦略爆撃であり、もう一つは自動車を利用した機動戦であった。リデル=ハートという軍事思想家は「間接的アプローチ」という孫子の兵法の現代的な概念を提唱した。戦争における情報の重要性が強く意識される。いわば暗闇で戦う二人の男のようなものである。数少ない相手の情報を頼りにして、相手の動きに対するモデルを構築し、そのコンテクストのレベルを攻撃する。もはや物理的破壊ではなく心理的破壊こそが重要となる。戦略爆撃は相手国民の心理を揺さぶる。機動戦は相手の補給路を絶ったり、孤立させたりする。しかし前者は勝った場合にも負けた場合にも禍根を残す、ということでリデル=ハートは後者に拘った。

    第一次大戦は理性の成果とも想定された近代国家同士がお互いに殺しあうというもっとも非理性的な行為を行った、ということで、理性への不信を生み出した。その結果として、一つは大衆の理性を信頼せず、少数のエリートの理性で社会を指導する、という政治思想が生まれた。ファシズムや共産主義である。しかし、もう一つは理性への信頼に依存しない民主主義という思想も生まれた。マイケル・ポラニー、バジル・ヘンリー・リデル=ハート、グレゴリー・ベイトソン、クロード・レヴィストロース、ピーター・ドラッカー、エルンスト・フリードリッヒ・シューマッハー、等々。レヴィストロースが「野生の思考」の中で展開した「プリコラージュ」。無限の差異をもつ世界に直面したときに有限の生命に出来る事は有限の要素を組み合わせて折り合いをつけることであり、つまり手持ちの材料で何とかするしかないのである。これは目的を決めてその為に必要な材料を集める、という「計画制御」の手法とは全く異なり、最初から目的など定めないで出来る事をやる、という立場である。

    第5章は経済と社会構造の話になる。近代化というものを、村落共同体の市場原理による破壊と、その結果としての近代的個人の成立として捉える見方は、一般的なものであり、大塚久雄によって東大出身の官僚達の頭に刻み付けられた。それはマルクスの資本論に由来する。「商品交換は、共同体の果てるところで、共同体が他の共同体と接触する点で始まる。しかし、物がひとたび対外的共同生活の中で商品になれば、それは反作用的に内部共同生活でも商品になる。。。交換の不断の繰り返しは、交換を一つの規則的な社会的過程にする。。。」

    しかし、中国、インド、イスラムなどの文明圏においては近代化以前から市場が存在していたし、その意味はマルクスの見た市場とは大きく異なっている。スキナーは中国四川省の郷村部で調査を行い、そこでは共同体が市場によって支えられているという事実を見出した。近世日本のような土地による境界で定められた郷村ではなく、一つの市場に属することによって家族が共同体意識を持つようになっている。本来、交換の為の交渉や現金の支払いという利己的行為は人間関係を不安定にさせるものであるから、共同体を破壊するはずである。この疑問に答えたのはギアツによるモロッコのバーザールについての研究である。そこでは人間関係が交渉と常連化の円環を辿る。交渉は敵対的であるが、常連化はそれより長い時間スケールで起こり、これによってバーザールが共同体の結節点になっている。本来対立すべき運動が何故結びつくのであろうか?著者は深尾氏と共に黄土高原の村で調査を行い、その仕組みを探った。そこでは無償労働行為有償労働行為が明確に意識されて使い分けられていた。有償労働行為は交換であり、その価格は噂によって広まり社会的基準を成立させるが、無償労働行為は私的な関係として噂にのぼることはなく、両者の関係を深める役割を果たす。そして、この関係こそがの伝播経路である。古典的な市場の概念である需要と供給のバランスにはコミュニケーションの要素が欠落している。そのような古典的な市場はマルクスの時代から存在していなかった。彼は現実の市場から抽出しただけなのである。現実には顧客とのコミュニケーションこそが市場でもっとも重要な要素なのである。いくら良いものを作っても顧客とのコミュニケーションがなければ成功しない。顧客を知り(マーケッティング)、顧客に提案する(イノベーション)ことによってコミュニケーションが成立し、顧客とのコンテキストが形成される。利益と成長は企業の目的ではなく、その結果に過ぎない。これからの経済活動は、相談に乗る、手はずを整える、面倒を見る、励ます、世話をする、立ち上げる、育成する、というコミュニケーションによって、お互いに相手の差し出す情報を解釈しあう運動が主体となる。経済活動が国境を越え、情報が瞬時に世界を駆け巡るようになって、世界が古典的な意味での市場(マーケット)に支配されているようになったと思われているが、それは表層(利益の側面)である。実際には個人個人が直接自分なりのインターフェースを構築して参加すべきバーザールの性格を帯びてきていると捉えるべきである。近代における日本の成功は家と村落共同体を基盤とした国民市場を独自に作り上げていて、西洋世界のマーケットによる近代化に素早く適応できたためである。それは国家の保護下での活動に限られていて、そこから出て行くことはほとんど無かった。また、その過程で、村落共同体が崩壊しそれを基盤にしていた家族から個人が飛び出していくことで核家族が生まれた。しかし、生産活動が職場に移行し、家庭が消費の場に限定されてしまえば家族は崩壊する運命にある。これに対して、中国は流動性の高いバーザールの中で市場経済を発展させていて、西欧近代国家システムに適合しなかったため国家としては劣勢となったが、個人としては国境に頓着することなく、世界中に移住して華僑社会を形成した。そこでは家族はますます強固になっている。一見して非効率的・非経済的活動こそがその鍵を握っている。

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