2011.05.21

     出かけたのは3時過ぎである。京都府立植物園のバラ園はちょっと最近の流行から言うと古い。一隅にイングリッシュローズがあっただけで、オールドローズは無かった。グラハム・トーマスも無い。ピエール・ド・ロンサーヌはまだ小さいのが2本、ブルー・ムーンは2本あったがまだ花が一輪咲いただけ。午後ということもあって、あまり香りが強くない。つる・ブルームーンは棚の上で沢山咲いていたが。でも全体にここのバラは手入れが良くて元気である。マーガレット・メリルとか和音とか白系の品種が映えていた。懐かしい桜貝が沢山あったが、栄養が良すぎるのか可憐さがなかった。つるでは定番のコクテールも無かった。

      5時に北門を出て、進々堂でパンを買って2階で食べてから会場に入った。安永徹と市野あゆみのコンサートである。写真で見た通りだが、安永氏は随分脚が短くて可愛い感じがした。それはともかく、最初のモーツァルトK.454変ロ長調からして、音の繊細さのレベルがまるで違う。友人に薦められてからCDを借りて聴いたとき、歌謡的で繊細な温かみのあるスタイルだと思ったが、それは単に彼独自の音色ということではなくて、レベルの違う音色制御能力の帰結なのではないか、と思う。まあ、当たり前と言えば当たり前であるが、目の前で音を聴くまではそこまでは考えなかった。スタイルを真似してもその為の技術が無ければ成就しない、ということである。大げさな身振り、表情も無く、淡々と無限の段階とも思われる音色を引き出す。特に弱音をここまでやすやすと表情豊かに出せる人は初めて見た。多分身体と楽器の動きが少ないのは右手の技術を安定させるためではないかと思う。それと、市野あゆみのピアノはCDで聴くよりもずっと柔らかく包み込むような響きを持っている。丁々発止というよりは、これも自然で何の気負いも無くピタリと息があっている。そんなことを考えている内にモーツァルトは終わってしまい、次はブラームスの1番のヴァイオリンソナタト長調作品78「雨の歌」。

ブラームスは苦手でこれも始めて聴いた。泉原さんが3番ニ短調のソナタを弾いたときはグイグイとひき付けるようにして曲の構造を説明してくれた感じであったが、この2人の演奏はいかにも自然である。単に楽譜を弾いているだけのように見えてその微妙なフレーズのやり取りや和音の動きが手に取るように聴こえる。何とも不思議な構造の曲のように思えた。論理的でありながらも尻取りゲームのような繋がりが出てきたり、突然思い出したようなフレーズの先祖返りが出てきたり、あれよあれよ、という間に第1楽章が終わってしまった。第2楽章はやや哲学的というか、明るいような悲しいような、まあこれはブラームスなのだから仕方ないか、という感じであるが、それでもその世界に浸ってしまう。第3楽章は民謡風というか歌謡風というか、そういう感じのテーマで一貫していて、とても気持ちの良い曲であった。これは多分絶妙な音の組み合わせの賜物なのだろう。何だかブラームスが好きになってしまいそうな気がする。

      さて後半に入って、3曲目がプロコフィエフの1番のヴァイオリンソナタへ短調作品80である。これは現代曲ということで、確かに伝統的な調性音楽というよりは人工的な新しい秩序に従った音楽という感じがした。特に第2楽章の畳み掛けるようなヴァイオリンとピアノの音の合い方は何だか奇跡のような感じがした。面白い。第3楽章は一転して瞑想的になる。第4楽章は複雑なリズムを持ってヴァイオリンとピアノが絡み合い、最後には消音器を付けて弾かれたスーッと消え入るような音で終わる。これは第1楽章にも出てきた。調べるとプロコフィエフは「墓場に吹く風のように」と指示したらしい。スターリンの時代のソビエト連邦という事は確かに感じさせる。まあ、もう1回聴いてみないとまだ全体は理解できないが、それにしても、こんな曲を極めて自然な表情で淡々と弾いてみせる。何とも凄い人だ。先日来ラジオやテレビでエマニュエル・パユのフルートを聴く機会が多いが、彼もまた音色の魔術師であって、バッハのソナタなど、稚拙ささえも音色で表現している。それに匹敵するヴァイオリニストかもしれない。最後にエルガーの作品15の1「夜の歌」と作品15の2「朝の歌」を演奏、更にアンコールにグラズノフのメディテーションという曲を演奏したが、CDで親しんだ安永徹の音が現前した、という感じである。どこか懐かしい、この哀愁さえ漂う音はベルリンフィルで鍛えた(と想像するが)技術に支えられていた、というのが今回の発見であった。

      北大路通りに出てから歩いて帰った。高野橋から見た高野川の黒い流れと比叡山の景色は安永氏の静かで温厚な佇まいのようであった。

<一つ前へ>  <目次>