2018.05.14
安さにつられて買い、長年使ってきた IODATA の録画機は音飛びが目立つようになってきたので、買い替えることになり、残された録画番組をまとめて観た。最初を除いて、いずれも昭和史関連である。以下、メモである。

・・・『NHK:関東大震災と朝鮮人』

       司法省の調査書、51件、231名。(大正12年)1923年9月1日。新聞社が火災で、情報が無い。事態の把握が出来ない。流言が多い。(警察に記録が残っている。)「朝鮮人が攻めてくる。」9月2日、流言が千葉に拡がる。戒厳令が出た。夕方から朝鮮人殺傷事件が多発。自警団による。日本人も間違えて殺されていた(51名)。9月3日、内務省警保局から朝鮮人警戒通達が出た。地方では自警団が結成されて逃げてくる朝鮮人を殺した。船橋では海軍送信所が朝鮮人の攻撃を知らされて、大森所長は全国に救援要請を出した。自警団に協力を求めたため、何名かが殺された。9月3日、誤報に気づいた警視庁から修正通達。しかし、9月6日まで殺害が続いた。死体を火葬して不明なままにする、という処置。12月、帝国議会で追求されるも流された。司法起訴は362名。被告の職業は収入の不安定なものが多かった。経済的には朝鮮人と敵対していたのである。

・・・間に、松本清張の小説を二つ

・・百分で名著:松本清張『昭和史発掘』。
      君民一体の演出。天皇の像を公開する。国民の天皇への期待や想いが生まれた。天皇と臣民の間に居る人達「君側の奸」への攻撃。2・26事件はクーデターであった。天皇の本意を信じて待ったのではなく、積極的に天皇を拘束しようとしたのである。

      中橋基明中尉に焦点を当てる。皇居を占拠する目的。疑われずに坂下門の警備に就いた。しかし1時間半を要した。その間に情報が入り、中橋が疑われた。警視庁への手旗信号が送れなかったので、クーデターが失敗した。秩父宮の動き。青森から東京へ。反乱軍に知人が参加していた。その擁護の為である。しかし、天皇の固い意志を知り、寝返る。皇太后は次男の秩父宮を可愛がっていた。この2人は青年将校に同情的だった。天皇が怒った本当の理由はその辺りにあったのではないか?

・・『神々の乱心』。島津ハル事件を元にしている。宮中の女官長が新興宗教に入った。昭和8年、昭和天皇の子供が生まれる直前。平田と霊媒者静子による新興宗教。軍隊や宮中にまで入り込むが、教団の主導権が静子に握られる。昭和、戦前、皇太后は隠然たる権力を持っていた。見えざる世界の話。平田の野望は皇太后を信者にすること。平田は古物商から三種の神器を入手する。誰も見たことが無いものだから、これを秩父宮に持たせようとした。

・・・・・未完に終わった小説の最後。娘の美也子を後継者とする。皇太后は信者となり、陸軍がクーデター、三種の神器を渡して、秩父宮に即位を促す。その時、静子の呪いによって稲妻が平田を襲った。

・・・『NHK:日本は何故焼き尽くされたか』

      アメリカ空軍の将校聞き取りテープが公開された。開戦当初米国空軍は陸軍の下部組織で、爆撃機はわずか14機で、極めて弱かった。大戦中にB29の開発を始めた。高さ1万メートル、航続距離5,000Km。戦前からのウィリアム・ビリー・ミッチェル構想、本国の軍事施設を直接攻撃する。真珠湾攻撃は1924年に預言されていた。空軍独立を主張して除隊処分された。(ミッチェルは同時にガス弾や焼夷弾を使って一般市民を攻撃して戦意を失わせる案を出していた。)ヘンリー・ハップ・アーノルドがその意思を継ぐ。B29は3年で開発終了。陸軍と海軍がその指揮権を主張したが、航空軍が指揮権を手に入れた。精密爆撃の為のノルデン照準装置。まずドイツでB17で攻撃したが、ドイツ空軍の反撃が激しくて失敗。ハンセルが指揮を執った。B29での中島飛行機工場の爆撃も失敗。ジェット気流に邪魔された。エンジンのトラブルもあった。

      すでに、1943年には焼夷弾攻撃計画、1944年には毒ガス爆撃計画があった。解任されたハンセルの後任がカーチス・ルメイ。1945年2月、海軍が日本の中島飛行機工場空爆に成功。低空飛行で反撃をかわしたのである。アーノルドは海軍に先を越されて焦った。早く戦争を終わらせる世論に押されてルーズベルトはアーノルドに圧力をかけ、アーノルドはルメイに都市への焼夷弾攻撃命令を下した。ただし、アーノルドには計画の承認を得なかった。非人道的爆撃の責任を被るためである。ルメイは対空火器の状況を分析して低空飛行に切り替えた。3月に東京を始めとした大都市の空爆。陸海軍の沖縄上陸作戦と対抗するために、地方都市を全て爆撃する計画を実行した。陸軍長官は焼夷弾爆撃の非人道性に驚いて、これ以上の使用を止めさせるため、原爆の使用に同意した。

・・・『NHK:樺太地上戦』

       上陸したソ連軍を攻撃した兵士達は終戦の放送を知らされていなかった。しかし、司令官達は知っており、撤退あるいは降伏するつもりだったのだが、何故か札幌第5方面軍から樺太を死守せよという命令が来ていた。北海道を守るためである。沖縄と同じような意味合い、つまり本土のための防波堤である。しかし戦力は無かった。住民を国民義勇隊として組織して全員戦死まで戦わせた。南へ避難する住民の列にソ連軍の飛行機が襲い掛かった。8月20日真岡でのソ連の上陸作戦。日本軍は豊原の師団本部防衛の為に真岡を捨てた。引き揚げの為に集まっていた住民の集団自決。ソ連軍の数々の暴行と破壊。電話局の女性達が残って豊原に連絡した後、青酸カリで自決した。やっと、8月22日戦闘停止命令が来た。

・・・『沖縄 空白の1年 1945-46』

      沖縄戦が終わったら直ぐ住民は全て収容所に閉じ込められた。その間に本土攻撃の為の航空基地を作った。終戦で基地は不要となった。陸軍は占領を主張したが、国務省(海軍軍政府)は自治(本土からの解放)を主張。沖縄諮詢会。住民を土地に返そうとしたが、陸軍が居座った。基地が拡張されていった。ソ連と中国に対抗するためである。日本政府は沖縄を日本の領土と認めるという条件での基地化を容認した。陸軍は住民を解放して基地労働力として雇った。沖縄人10万人が本土に居た。GHQはこれが本土の負担になるので沖縄に戻そうとした。海軍軍政府が反対。統合参謀本部は沖縄の統治を海軍から陸軍に変えて、結局10万人が沖縄に返された。

・・・『ザ・スクープ:ビキニ水爆実験』(テレビ朝日)

       1954年、水爆実験『ブラボー』。死の灰の降ったロンゲラップ島には住民が64人居た。一時島からキリ島に強制避難させられたが、1957年に安全宣言で元に戻り再度被爆した。1985年に全員島を出た。ロンゲラップ島と同様に、第五福竜丸も米軍の危険区域外の東側だった。23名被爆。頭髪が抜け、貧血が進行。しかし翌年政治決着、1人200万円。未だに被爆は認められていない。ビキニ島民は核実験計画の為、事前にキリ島に強制移住させられていた。そこは今温暖化で海に飲み込まれかけている。環境難民として米国に移住。

      ロンゲラップ島の島民はいつもの実験では事前に避難させられていたのだが、この時だけは避難させられなかった。米軍は風向きから島民が被爆することを予想していた。艦艇は避難していたのだが、島民には知らされなかった。1953年の研究計画プロジェクト4.1には被爆した人間の最も完全なデータを採るという事項があった。この人体実験によって、死に至る放射能濃度として225radが得られたのである。治療は意図的に行われなかった。1957年の安全宣言もまた人体実験の為だった。第五福竜丸の船員についてもABCCの調査が入った。
https://www.morizumi-pj.com/bikini/bikini-index.html

・・・『NHK:将校は、砂漠に木を植えた』

      杉山龍丸。父は夢野久作(杉山泰道)。航空機整備技術将校。「この戦争には勝ち目が無い。東条を暗殺すべきである。」昭和19年、フィリピンに送られた。魚雷にやられて13時間漂流後、ネグロス島に上陸。飛行第31戦隊。隼34機。「この戦争に理は無いが、西洋の支配からアジアを解放するという意味はあるだろう。」部品を集めて4機を復元して反撃したのが最後。3月飛行機を失った。龍丸だけに脱出命令が出て1人脱出後、アメリカ軍が上陸した。

      戦後10年。かっての東条暗殺の同士に出会う。彼は僧侶になってインドを支援していた。龍丸もインドからの留学生を受け入れる。農業や手仕事を教えた。7年後インドを訪問。砂漠を食い止める方法を研究。植林を知る。ユーカリは生育が速く根を深く張る。ヒマラヤからの地下水脈に沿った国道1号線沿いに植える。父の農園を売った。更に山にも植林。国連や日本政府は援助してくれなかった。家も売った。

 
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