2012.11.25

      11月24日、5時に起きて、6時の電車に乗って、6:27分発の「のぞみ」で10:33には東京に着いた。半分位は寝ていた。東京駅の新幹線乗り場は久し振りで懐かしかった。そのまま中央線快速で武蔵境に行って、小田急バス(\210)で11:45位には国際基督教大学の構内に着いた。途中は落ち着いた住宅街である。このあたりは昔三鷹に居た友人の家とか、会社勤めの頃には横河電機訪問とか、で結構馴染みがある。大学構内は広大な林のようになっていて素晴らしい。やはり武蔵野の面影がある。丁度紅葉の季節でもある。手入れも良くされている。ロータリーのちょっと先の食堂で昼飯を食べながら三石氏の携帯にメールを出しておいた。会場に行ってみるとどうやら理事会をやっているようで会えなかったので登録だけしておいた。登録といっても参加費は無い。まあシンポジュームだけの学会という感じだからだろう。懇親会\5,000だけを払った。政治社会学会というのはまだ出来てから3年経たない。文理融合による政策提言を目指したいろいろな人達が荒木義修氏を中心として集まっている。吉田民人や吉川弘之の考え方への共鳴から始まっているから、まあ同志の会という感じ。参加者の中にはジャーナリストの村田佳壽子、国会議員の誰やら、文部官僚の誰やら、がやや変わった経歴であって、大学人中心の集まりに喝を入れる役割のようである。

      今回は3回目の年会で、3日間である。昨日は荒木さんの「公益資本主義の理念−市場万能主義から抜け出すために−」という基調講演と「アダム・スミス再考−新古典派経済学からの脱皮」「経済学の新潮流」という2つのセッションがあって、なかなか面白かったようである。高安秀樹さんの経済物理学の紹介もあったようで、非線形統計力学の手法を応用して現実の市場取引で通用するPUCKモデルが今の流行のようである。企業取引のネットワーク構造やインターネットの書き込み分析なども行われている。勿論これらは現象の観察とその数理モデル化であって、それを全体として支配する社会の動向は分析対象外であるから、予測できる時間スケールは短い。今日の午前中には「政策提言型会員公募セッション」として社会学的な研究報告があり、三石氏によると広大グループのセミパラチンスク核実験場近郊住民の心的影響とその要因」として、ロジスティック分析の話が参考になりそうだった、ということである。

      僕が聴いたのは今日の午後だけで、「自然科学と社会科学の歴史的アプローチの異同:パート2」というセッションがまずあった。今回は発展とは何か、という、まあ経済成長万能主義への反省、という感じのテーマである。

      最初の小島麗逸さんは、中国経済学の専門家であったが、退官して岐阜の山奥で農業をしている。経済学というのは種々の学の寄せ集めであって、それぞれの分析方法論が統一されているわけでもなく、同じ時間軸で語れるものでもない。世の中での時間軸は大体世代交代を目安としていて25年位である。開発経済学というのは第2次大戦が終わって先進国の立場から後進国を見ることでその発展の道筋を予測し指導するという意味で政策学でもある。所得倍増論とか、中国の全国大会で承認される国家目標とかである。会計学は減価償却の期間で長くて60年位である。人口学では3世代70〜100年である。極端に短いのは金融取引であって、計算機の進歩により秒単位になってきた。大体が、世の中を見ていると5年同じ状態が続けば人々はこれが永遠に続くという感覚を持つ。バブルの時もそうであって、理屈ではいずれ崩壊すると判っていても永遠に続くという仮定の元で行動する。ところで現在の中国の勢いはいつまで続くだろうか?小島氏によると、長くはない。その理由は汚職である。その額を観察してみると、500万円→1,000万円→1億円→200億円、と指数的に大きくなってきている。いずれ経済学で扱えるレベルを超えてくるから、経済が制御不能となるであろう。といった取り留めの無い話であった。

      次の米本昌平氏は京大理学部寺本研出身である。僕も名前だけは知っていた。一時期アカデミズムに嫌気がさして民間の経済調査員として就職しつつコツコツと科学史の研究をして発表したりしている内に、新しく出来た三菱生命科学研究所に雇われて、生命倫理の調査というテーマから諸外国の動向を調査して日本と比較するという地道な仕事を行い、結果的に日本の制度批判として評価されてきた。生命科学と社会倫理の接点を研究してきた彼にとっては文理融合というのは当たり前の事であった。今回の話は国際的に外交と科学の係わり合いを解説したものであって、なかなか示唆に富んでいたように思う。

      第2次大戦後の冷戦によって、先進国での外交はかなり装置として過剰になっていたのであるが、ソ連の崩壊によって、その外交装置が無用になって、何らかの目的を探していた時に、たまたま地球温暖化の問題があった。それまでも地球温暖化の警告は科学界において為されていたわけであるが、冷戦という議題が消えたために突然主要な議題となったのである。そういう事情無しには初期の先進国が率先してCO2削減を行うという理想主義的な合意はなかったと思われる。実際に、中国の急成長と先進国の停滞を背景にした2009年のコペンハーゲン合意によって理想主義は終結した。もう一つの例は、欧州での長距離越境大気汚染条約である。1970年代以来その条約に沿って大気汚染物質の科学的データが蓄積されていて、計算機シミュレーションが行われていたが、冷戦終結によって、政治が動き出し、1994年のオスロ議定書においてはシミュレーション結果をそのまま議定書の一部に採用した。つまり、「外交の科学化」が実現した。これは関係者が全て先進国だったからでもある。東アジアにおける状況においては主要な国家、日本と中国が対照的な経済的立場にあるから「外交の科学化」からは程遠い。今からその方向を準備するには地道な共同研究を積み重ねることである。科学的に合意されたデータは平和のための最大の武器である。研究者の間には国境意識は希薄であるから、それを充分活用して外交に寄与する、というのは現在最も重要な大学人の任務である。自分の仕事の裏づけがあるだけに説得力があった。

      白石典之氏は考古学であって、モンゴルにおける食生活の歴史的変化を残された遺物から探っている。骨の炭素同位体比率から穀物が支配的であったかどうかが判り、窒素同位体比率から陸生動物か海生動物かが判る。これらを組み合わせると、モンゴル帝国成立前には陸生動物が支配的であったのに対して、帝国が大きな版図を持つと海生動物や穀物が食べられるようになったことが判る。特に穀物生産と陸生動物飼育(つまり放牧)は同じ土地を巡る対立関係にあるから、モンゴル帝国崩壊後の各地域の食性の変化を捉えて社会動向と結びつけることが出来る。なお、現在のモンゴルは食の多様化が進んでおり、そのために地下水をくみ上げてまで野菜が栽培されているし、ビニールハウスが一般的であり、明らかに環境が本来持っている限度をはるかに超えている。数千年後の考古学者がその痕跡を見て、これを発展と評価するだろうか、それとも自滅への道と考えるだろうか。こうしてみると、発展という概念が何を基準に考えたらよいのか、判らなくなる、という話であった。

      コメンテーターとして、八木紀一郎さんは、時間スケールの話の例題として、西欧と中国での一人当たりGDPの年代変化のデータをどうプロットするか、という学生に出した問題をとりあげて、両対数でプロットすると、それぞれでの工業化の始点が明確に見える、というのを説明。しかし両対数で直線になるような伸びは不可能であるので、いずれ縮小人口、縮小経済を真剣に考えざるを得ないだろう。そうなると、局所的に自足する経済とか潜在的なニーズの掘り起しとかいった対処と共に、国家レベルを超えた構想が必要になる、という話であった。

      中塚武氏は環境と人間の相互作用環を考えている。日本の気候変動のデーターをWavelet解析すると数10年周期での変動が大きい時代がある。弥生時代〜古墳時代にかけてと、戦国時代である。これらの時代は激動の時代でもあった。解釈としては、数10年に亘る良い気候が続くと人口が増えて産業が発展するが、やがてそれに慣れた頃に悪い気候に戻るのでダメージが大きく社会が乱れて新しい社会システムへの遷移が起きやすいということである。つまり人間社会には固有周期のようなものがあって、それに外的環境変化の周期がそれにあうと共鳴増幅されてしまう、と考えられる。そういう目で見ると発展には3つの種類がある。第1は10数年間の発展期のことであって、社会システムを保持したままの経済拡張であり、第2は社会システムの変化による制度改変による発展(破壊的創造)であるが、第3はそういう構造そのものをよく理解した上での社会システムの自覚的制御による変革である。第3のような発展を実現するためにこそ学問がある。なお、弥生〜古墳時代、戦国時代の次はその周期からいうと2,100年代ということになる。世界規模の混乱だろうか?

      小島先生のコメントとして、万里の長城の例を挙げられた。これは償却という概念が無かった時代のプロジェクトであった。全ての設備には見合うべき償却時間があるはずである。原発のようにそのことを無視して投資をすれば将来の世代に負担を強いることになる。そういう意味で時間軸は重要である。最近の人達は人生が有限であることを忘れているのではないだろうか?消費もまた有限である。先端医学は本当に必要なのか?

      米本さんの提言として、一般市民を募って学会傍聴ツアーでも企画してはどうか?学会が一般市民にとって判るか、面白いか、という基準は大切な事ではないだろうか?

      吉川弘之先生の基調講演「工学における設計科学」は初心者向けという感じで判りやすかった。有名な先生であるが、良く考えると話を聴いたのは初めてであった。昔、横断型科学技術連合を目指した会議がしばらく続いた時があって、会社から命令されて参加したことがあったが、趣旨は良く判らなかった。企業にとっては、マーケッティングと製品開発の融合とか、個別の工学的課題のシミュレーションによる解決、とかいった近視眼的な視点でしか見ていなかった。文理融合という概念には惹かれるものもあったが、それはまだ先の話という印象が強かった。その後運動は下火になったようである。

      人工物を歴史的に見ると、文明以前においては欲求に対して表象型のものである(原始絵画とか)。それが生存のための武器や道具となり、その機能的分析から人工物を設計して作るようになる。しかし、役に立つものを作った結果として予期せぬ災いが齎される場合もあるわけで、それらを充分考慮しながら設計するためには設計そのものを科学として確立しなくてならないだろう。デカルトの構想した科学は本来要素への分解と分析だけでなく、要素の統合による機能の発現ということがあって初めて全体を把握できる、ということなのであったが、現在の科学は分析に力点を置きすぎて、そこで満足してしまっている。そのために個別知識のみが手に負えないほど増大し、学問は誰にも把握できないほど細分化されてしまった。工学というのは実はこの逆で統合を旨とするが、科学として認知されずに軽蔑されている。

      工学を設計学として見直すために、概念整理をした。まず実体という世界は我々が認識できる全てであり、それは従来の学問体系にしたがって階層化されており、お互いに共通部分を持たないように明瞭に分割されている(これを直和分割という)。それらはそれぞれの属性のリストによって区別される。しかし、工学で必要とされるのは何よりもまず機能である。機能で分類するということは実体の直和分割にならず、どうしても重なりを持ってしまうから分析的学問に合わないのである。また機能というのは、主観性を持つという意味でも客観性を標榜する科学には合わない。機能による分類は実体の位相的分割ということになる。以上の考えは設計科学の公理として、認識公理(属性によって実体が記述可能である)、対応公理(実体と実体概念は1:1に対応)、操作公理(抽象概念は実体集合の位相である、つまり分類の重なりを許す)で纏められる。一言で言えばこれは主知主義宣言であり、そもそも設計が可能であるためにはそう仮定せざるを得ないだろう。ここから、定理として、スーパーマン(何でも出来る人)の知識はハウスドルフ空間(近傍によって繋がる)である、要求というのは実体集合の中の和集合(あれかこれか、、)である、設計というのは実体空間の中での積集合(あれもこれも、、)である、といったことが導かれる。設計の歴史を見ると、要求に対して実体の組み合わせで間に合わせようとする「器用人」の時代から要求を機能というレベルに変換してからその組み合わせから新たな構造を生み出す「科学者」の仕事へと進化している(レビ・ストロース)ことが判る。実際、現在でもこれらの2つのやり方が工学なのである。新たな人工物を生み出す知的操作として異なった見方による分類が有効な手段である。例えば、食べられる肉と腐った肉と乾燥して硬くなった肉があるとすると、これらを安定している(保存可能)かどうか、と食べられるかどうか、という2つの見方で分類することによって、4つの分類項目の一つ、つまり保存可能で食べられる肉、という新しい概念が想定される。ここでいう安定しているかどうかと食べられるかどうかは従来の分析的科学では異なるdicipline(分野)に相当する。つまり、新しい概念を生み出すには分野横断的な発想が必要となる。要求から工学的設計への最初のステップがこのような分類による機能の積集合の定義である。それは工学者の知識の限界からしてフィルターをかけられる(正規化)。そこに当てはまる実体を実際に見つけるためには当然種々の分野の科学が基礎となる(属性空間への写像)が、実際には工学者は思いつくままの組み合わせで物を作り、それを実際に行動者が使って評価して、科学の引き出しそのものを豊かにすると共に足りない機能を補うのである。このような、科学→工学→行動者→社会的評価→科学という循環の中で設計科学が成り立っている。

      最後に、この学会で問題とされる文理融合については、社会科学と自然科学の統合ということであって、工学における設計科学から更に先に進まなくてはならない。哲学的な概念で整理すると、存在→属性→挙動→機能→価値、ということになって、属性を中心とした自然科学と機能を中心とした社会科学とは理解されやすいが、工学というのは微妙な位置にあることが判るであろう。つまり、自然科学と社会科学を繋ぐものが工学であり、設計科学なのである。設計科学をこのように発展進化させるためには、現在の分析的学問だけでなく、設計行為を学問として認めることが必要である。つまり物を作った人の記録を論文として投稿して残し、大勢の人が議論する、ということである。しかし、これは企業から課せられる守秘義務と学会から課せられる一般性の双方から非常に困難な事となっている。もう一つの設計科学を超える立場は、設計された人工物の受容者であり、その立場からは設計科学の目的はサービスであり、サービスのネットワークが経済社会を構成している、ということである。サービスのネットワークの側から設計科学を構想することが出来れば、それが文理融合であろう。

      設計科学の話を聞いていると会社で研究開発に携わっていた頃のさまざまな場面を思い出す。確かに器用人のやり方と科学者のやり方があって、そこには単なる能力や知識の蓄積の問題だけでなく、組織の問題や事業のあり方や企業文化やその時の経済情勢や政治情勢に到るまでの様々なレベルからの「要請」が絡んでいた。それらを総合的に纏め上げて行くのがリーダーの役割であった。そういう意味では、企業においては文理融合という考え方が主流であって、理科に拘る研究者は孤立してしまう。僕はどちらかというと個人的にはその孤立した研究者に味方しながらも、有効な形で企業の仕事のネットワークに組み入れるような方向付けを意識していたと思う。設計科学という意味での能力として僕はあまり優れていたとは思わない。科学的知識において遥かに劣っているエンジニア達の方がむしろ良いアイデアを出すことが多かったから、最終的に僕は工学における現象のモデル化という技術に特化して貢献しようとしていた。モデル化無しには設計の検証が出来ないからである。つまり、アイデアというのは現場で真剣に取り組んでいる人達から出てくるのであるが、そのアイデアを検証するためにはモデル化が必要で、モデル化の為には幅広い科学知識が必要となる。ただ、企業においてはある程度閉じていたから可能であった設計科学も、社会全体としては難しい。

      セッションとしては「プログラム科学とは何か」が引き続いてあった。最初は三石博行氏の吉田民人の話である。これは一緒に勉強していたので判りやすかった。パーソンズのシステム理論に対する直感的な反発に始まり、それを主体性の問題として自覚する「生活空間の構造−機能分析」、それ故に吉田民人の自己組織性は物理屋の自己組織性と一線を画すのである。つまり、生物における自己組織性は物理屋の非線形ダイナミクスから主体なしに帰結される自己組織性とは異なり、自らのプログラムを適応させて改変する主体がある。社会においては主体は社会を改変すると同時に社会から改変される。そのような前提無しには社会システムも記述し得ない。つまり、社会を記述するという事には社会を改変し自己を改変するという事が含まれてしまう。プログラム科学が社会システムのプログラムを解明するということは自己改変を必然的に伴う。ここでは理論と実践、認識と行為が切り離せない。

      次は、吉田民人の直弟子である正村俊之氏の東日本大震災に触発された話である。ヨーロッパ中世において時間は円環的であった。過去の伝統は単なる歴史ではなく、そのまま現在におけるあるべき姿(規範)でもあった。人々は変革ではなく繰り返しを求められていた。事実=価値であり、認識=行為であった。近代とはこれらの分離であり、時間で言えば直線的に何処までも伸びる時間である。また、時間軸上で成立する因果律(法則)の支配は普遍的なものとなる。その普遍的な法則の確立のために認識を旨とする近代科学が発展し、法則の応用によって無限に発展する技術社会が築かれてきた。しかし、技術成果が社会に浸透し我々が人工物に取り囲まれ開発された技術が開発時に想定した環境が変化することによって新たなリスクが発生しているのが現代である。リスク評価は主観に関わるから、一度分離した事実と価値を再び結び付けなくてはならない。プログラム科学はそれを意識的に行う。しかし、リスクの評価はいつも不完全であるから、その不完全性(設計の限界)を組み込んだような定式化が必要であろう。これは単なる感想であるが、正村氏は多少とも理念的、観念的思考をする傾向があるように思われる。

      窪田順平氏は総合地球環境学研究所に所属する。この研究所は故日高敏隆氏が初代所長であって、「人間と自然の相互作用環」として地球環境を捉え、最初から社会的な目的を明確にした研究プロジェクト制を採っている。スタッフの任期も短いし、社会的評価を研究に組み込むような工夫をしている。具体的にアムール・オホーツクプロジェクトを例にしてその研究体制が説明されたが、左側に社会、右側に科学のセクションがあって、中央にプロジェクトからデザインに到る流れがあり、それらが絡み合っている、という図が記憶に残るばかりであった。ホームページを見るとなかなか稀有壮大なプロジェクトが並んでいて、どうやって管理しているのだろう、と思った。ともあれ、このようなやり方こそがプログラム科学なのであろう。本拠地も京都にあるようだが、そのテーマの領域から見ると独自の東洋学や文明史観を推進した京都学派の流れの中にあるような気もする。

      コメントとしては公共政策学が専門の新川達郎氏が客観化できないものを無視しないような注意が必要である、とか、総合地球環境研の佐藤洋一郎氏が知の協同研究が土台であり、その為に市民の参画を考えるべきである、といったものがあった。

      懇親会では、何しろ良く判らないまま参加していたので食べる事に集中していたが、理事長の荒木義修氏、国際基督教大学の石生義人氏、との挨拶程度の話と、米本昌平氏の研究人生の話と環境ジャーナリストの村田佳壽子氏との長話、くらいであった。村田さんは長年原発批判活動をやってこられたようで福島にも取材していて、現在の日本の政治状況に危機感を持っている。学会には政策提言を目指すという事で説得されて入ったらしいが、どうもやっていることが生ぬるくてどうしようかと迷っておられるようである。吉川先生も現在やっておられる原発の話をしないで初歩的な話をされて失望されたようである。(もっともこれは主催者側の要請であって吉川先生の本意ではなかった。)現場の立場や日本の状況を見ていると今回のような大学人のシンポジュームはあまりにも迂遠な議論のように感じられたようである。まあ、確かにそうかもしれない。こういう啓蒙活動だけでなく、協同プロジェクトを立ち上げるとかいった方向が良いのかもしれないが、多分予算的に難しいのであろう。

      ホテルは御茶ノ水の私学会館(ガーデンパレス)であった。設備は古いがなかなか良かった。翌日も午前中に原発のセッションがあり、午後は国際セッションがあったが、失礼した。僕は朝ゆっくりして新宿のムラマツに寄った。バッハのチェロやバイオリン曲のフルート編曲版の楽譜と金昌国さんの若き日のバッハのフルートソナタ集のCDを買った。

      ぶらぶら歩いていると損保ジャパン東郷青児美術館があったので入ってみた。東郷青児はピカソに影響されていて、そのころの絵がなかなか良かった。その流れで女性像を立体派風に描くようになり、やはり女性への思い入れがあったためにそれを造形的に表現した、という感じであろうか?もっともピカソの女性像に比べると随分上品である。企画としては絵画を巡る7つの迷宮、ということで、絵画の意味づけについて主題を立ててそれに沿った絵画を集めていた。東郷青児の女性像はその中の「妖精」である。

      新宿駅の東急地下のパン屋 Le Bihen でアップル・マロン入りのケーキをお土産に買ってから新幹線で帰った。連休最後で紅葉の盛りということで、自由席は鮨詰め状態のままで、乗車下車にも時間がかかって4分遅れで到着した。

      帰ったら直ぐにINAC神戸とオリンピックリヨンのクラブ対抗世界選手権の決勝をテレビで見た。(大宮なので、もう一泊すればスタジアムで観られたのではあるが。)前半はINACが圧倒して1点入れたが、後半はリヨンが前線の人数を増やして押し込んで1点返し、延長ではリヨンの猛攻が続きPKで1点入れて、結局リヨンが優勝した。でもまあ素晴らしい試合であった。

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