2006.01.07

「お能の見方」白州正子・吉越立雄(新潮社とんぼの本)

    あまり講釈は無くて代表的な演目を採り上げて実際に見ている様に解説してある。写真が沢山あって楽しい。能の中にいろいろな思想を見るのは良いけれども、お能自身はそういった思想から生まれたものではなくて、お神楽の延長であり、昔からの民衆芸能が洗練されたものである。舞台も昔は戸外で神殿に向かっていた。世阿弥は足利義政の稚児さんであって、まあ一種の男娼である。そういった目で見ると男娼の透徹した目で整備された芸能という趣も見えてくる。能が貴族の眼鏡にかなったのではなく、世阿弥の美形に将軍が惚れ込んだのである。

「が、見れば直ちに判るものがある。眼に見える形から頭で考える意味に下ることは出来ても、謡本から舞台へ、あるいは理解から芸術へ、我々は決して上がっていくことは出来ないのです。」

お面にはアフリカのお面と共通する無名さと不気味さがある。今でも誰の作が判らないものの方が美しい。能面として洗練されたのは江戸時代に入ってからである。写真で見たのでは判らない。動きの中でその意味を伝えるように彫られている。「そういう風に呪術の名残と仏教の思想と祖先崇拝の信仰と外国の技術、日本の民芸が入り混じっているのが能面の本質です。ということは、本質なんてものはなく、全て借り物の衣装だったかもしれない。この雑然たる秩序は、美術品としてははるかに立派な伎楽面にも、ゲテモノとして面白い民芸の仮面にも、全く見ることの出来ぬ或る「中間的な」存在であります。それは常に何物かを待っている。お能の面にしても、お茶の茶碗にしても、単なる道具でもなければ美術品でもなく、人を得てはじめて蘇る生きものです。」

思想といえば、「日本には古くから、何か物の中にこもることによって、別な人格を得る、あるいはもっと美しいものに生まれ変わるという、根強い信仰がありました。。。。ここで行われた仮想の死は動物の冬眠とか昆虫の変態といったような、自然との共感から生まれた身振りだったでしょうが、それには後世さまざまの芸術に転身していく萌芽とも言うべきものが見られるように思います。」ともあれ機会があれば見てみようという気になった。

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