2014.01.29

      中央図書館まで本を返しに行って、大分前に途中で投げ出したデネットの「解明される宗教」の続きを読もうと思ったのだが、パラパラ見て止めた。この人は宗教に頼ることが如何に馬鹿げたことであるかをぐだぐだと説明しているだけで、現実に宗教を妄信している人が居るという事実に向き合っていないと思う。無神論者には当たり前の理屈であり、信心深い人には無視されるだけである。つまり、他ならぬ「私」が神を信じているという事実に対して、如何に論陣を張っても空しい。進化論的に理解すると言いながらミームという概念を振り回して説明するばかりである。ミームを擬人化してあたかも意志を持った人であるかのように扱う。こういうのは科学的とは言わないし、進化論でもない。最後の方には宗教が道徳の源泉であることに対しても反論しているが、如何なる道徳であれ道徳の源泉であるとも言えるし、信者以外の立場からはとても道徳的とは言えない。これもまた議論が噛み合わない。「発掘された聖書―最新の考古学が明かす聖書の真実」もあったが、今読まなくても良いだろう。べリングの「ヒトはなぜ神を信じるのか: 信仰する本能」が面白そうだった。宗教に限らず、理屈上ありえない事を信じてしまうような心の働きを「心の理論」で説明している。結局大澤真幸の「現代宗教意識論」(弘文堂)を借りた。これは宗教という心の働きを哲学的に分析していて、現代におけるさまざまな事件の解釈に応用している。

<序論>
      遇有的なこと(他を選択し得たこと)を必然的なことに変換する装置が宗教である。これは社会秩序を保つ方法でもある。自明でないことを前提にする、つまり信じるということには根拠無き飛躍が必要である。これが信仰である。奇蹟は信者の目にしか見えない。イエスが神と一体化されていることは証明を必要としない。信じるという事はそれを信じる他者が存在している、私が信じていることを承認する他者が存在する、ということである。客観的に実証されたことは「知っている」のであって、「信じている」のではない。信じるということは他者との差異を媒介にして、他者との距離を前提にして機能する。その他者が信じていることは更に他者を必要とし、という連鎖の果てに想定されているものが「神」:大澤の言葉では「第3者の審級」である。

      第3者の審級は、存在を確信しなくてはならないが、知った途端に絶対性を失う。この矛盾を避ける一つの方法は、過去のある時点に、また特定の人についてだけに、神との出会いを限定することである。その記述が聖典となる。もう一つの方法(予定説)は未来のある時点に神との出会いを延期することである。ただ、この出会いはいつまで経っても実現しない。無限延期された神との出会いは、神がどんな意思を持っているのか、ということの「研究」を誘発する。しかも、それは「知」の試みであり、反証されれば崩れる。反証を許さない「信」というものが、「知」の試み自体によって薄められていく。これが、西洋の近代化で起きたことであった。信仰を求めつつ、正にそのことによって信仰が薄められる。その事態に抵抗するように、あたかも抑圧された本能(信仰)が噴出すように、過激な信仰が突発的に表に出てくる。これが今日観測されている異様な事件の背景である。信仰に頼らずに社会を運営していけるようにさまざまな仕組みが発達したお陰で、本能としての信仰は行き場がなくなってしまうのである。

第1部の第1章:宗教の社会論理学
      宗教の定義は超越的他者への信仰とする。一連の諸行為が超越的他者の存在を前提にしていると見なしうるとき、宗教が存在している。超越的他者の定義は、経験的な宇宙の内部には直接に現前しえない他者。認識を含む経験的操作の対象にならない他者。なお、超越的他者に与えられる価値を聖性という。

      近代化とは西洋化であり、西洋化の核をなすものは西方キリスト教である。近代化とは宗教からの離脱であったが、にもかかわらず、西洋社会を特徴づけるものは西方キリスト教である。キリスト教の宗教としての特徴は超越的他者が同時に内在的でもあること、つまりイエスの位置づけである。

・・・宗教に至る「認識論的」道筋を考える。
(1)他者に対する不可避的な関与、気がついたときには応じてしまっているという盲目的な信頼
      志向作用は、宇宙内の諸現象を私に対するものとして現前させる(求心化作用)と同時に、中心を対象の方へと移転させる:他者は私と同等な資格で志向作用の中心となりうる(遠心化作用)。そのような他者は私が他者を対象化することによって他者でなくなってしまう。この他者の喪失、逃亡こそが、私にとってのこの挫折こそが、否定的にではあるが、他者の現前である。つまり、対象化されえないという認識こそが他者なのである。大澤はその典型を性愛に見ている。

(2)他者が超越的で抽象的な第3者の審級に転化することによって生じる聖性の体験
      遠心化作用は、私に現前した対象が他者にとっても現前であるという直観を可能にする。この共帰属した相において、私と他者との差異が無関連となり、両者が同じ一つの間身体的な連鎖の内に組み込まれる。他者が充分に多く、志向作用が充分に強ければ、間身体的連鎖それ自体が個別の身体から独立した固有の実体であるかのように現れ、対象は個別の身体からは独立した固有の同一性を持つ。この間身体的連鎖は第3者の審級である。更に、意味が同定されるためには、意味の集合たる地平の中で、他の意味ではなく、正にその意味であるという差異化が必要である。そのためには地平そのものの意味が同定されていなくてはならない。こうして無限後退となって、結局宇宙そのものが問われることになる。つまり、宇宙そのものが他でもあり得るという偶有性を持つことになり、これは宇宙を第3者の審級の偶有的な選択に帰することによって解決される。

<第1の類型:自然宗教>
      こうして、人が志向作用を通じて関係する自然の対象物はそのまま超越的他者へと転化する可能性がある。とりわけ、共同体の一部でありながらも、如何にしても操作できない他者として認識する自然の対象が「神」の契機となる。多神教の形態を採る。

      ここで、宗教の進化論との関係を追加しておく。対象化を逃れるという他者の本質、というのは心理学的には「心の理論」である。他者もまた自分と同じようでありながら自分とは異なる心を持つ、という認識。大澤はこのような意味での他者認識を個別の人間でなくむしろ自分が操作しえない自然に拡張することによって、神々という観念が生まれると考える。自然宗教である。それでは、その神々に対して共同体が何をするのか、といえば、お願いしたり罰を受けたりする。お願いするためには日常的な関わりが否定されているから、舞踏、トランス状態や儀式が必要になる。

<第2の類型:ユダヤ教とイスラム教>
      共同体同士の争いが統合を生み、神々が共に祭られるが、征服部族の神々は優位となる。優位性が強調されれば、被征服部族の神々は消滅する。古代エジプトの太陽神アテン崇拝はアメフィノス4世のアマルナ改革によって唯一神となった。しかし、この段階では単に神の優劣の問題である。具体的な事物に神々を見るということは超越性の否定でもあり、本来他者の認識からして、対象化しえないものこそが他者であった筈である。ここに、宇宙内に存在する個別事物とは等値し得ない抽象性において厳密な唯一の神という観念が登場することになる。神はどのような経験対象によっても到達し得ないという不可能性によって体験される。神は表象することの失敗を通じてこそ直観されるから、偶像崇拝が禁止される。この「一神教」によって、その民族は周辺の自然宗教の民族と差別化され、一神教である、というそのことによる普遍性と自在性を手に入れる。つまり、他の神々の干渉から自由になる。ユダヤ教とその徹底としてのイスラム教(スンニ派)である。

<第3の類型:西方キリスト教>
      西洋キリスト教においては、キリストは神とされながらも、神にふさわしくない。盗人と一緒に辱められながら人として父たる神を恨みながら死んでいく。元々超越的存在の由来は他者体験であった。捉えようとして捉えきれないという不可能性こそ他者の本質であり、そういう日常的な体験から積み上げる形で神に至る、その道筋として人間の形象をした神、キリストが現れ、その経験的存在が否定されることで、認識の不可能性が強調される、という仕組みになっている。信者が見ていたあの人間形象としてのキリストは、本来信者にとって到達可能な存在、(つまり、ユダの裏切りから助けるとか、裁判で証言をして助けるとか、そういったことが出来る存在)、ではないということを改めて強調するために神が見せた芝居であった、という事になる。聖霊というのは、神と人間が融合した状態である。もしも神に使わされたキリストが生きていれば、その間に立って融合を阻害することにならざるを得ない。キリストが死ぬことで、信者と神とが融合する。つまり、それだけで信者は救われる。キリスト教は超越性の原点である他者を媒介することで愛の宗教となった。その愛とは、外部の何らかの目的や機能には従属させることができない他者への関係性そのもののことである。他方、イスラム教はユダヤ教の超越的な神を逆の方向に徹底させた。法体系が整備されて、信者は法に従い、神は絶対に到達不可能な地点に遠ざけられた。

      西洋に由来する普遍概念、自然科学、民主主義等、には特徴がある。それは自己の普遍性を否定する契機を内包している、ということである。例えば、自然科学の体系的知識は畢竟仮説の集合であり、そのことを自然科学が積極的に主張し、どうすれば崩壊するか、という手段を与えているのである。それは真理に到達しているとは決して言わず、いつでも反例によって更新される。こうして、真理は無限の彼方に実在しているという信念だけがある。この状況はユダヤ教において、先延ばしされる神による民族救済、というものと同じである。他方で、西方キリスト教においては、神たるキリストが人間の姿で出現し、死ぬという出来事によって、信者は救済されていると信じられているが、これは自然科学の成果がそのまま信じられて工学的応用に向かうことに対応している。宗教改革の運動は教会によって与えられた(独占された)救済に対して疑問符を提起し、真実の信仰を求めて救済を先延ばしする運動であったと言える。民主主義も制度として定着しはするものの常に更新されるものとして理解されている。資本主義も将来に引き伸ばされた約束としての利潤を求めて投資が行われ、果実を手にすると、それだけでは満足できず、更に投資が行われる、という無限運動である。このような、キリスト教的なものとユダヤ教的なものの間の揺り返しこそが西洋思想を特徴つけるものである。

      自然数と実数の間の関係はそのアナロジーとして面白い。自然数の集合は無限であるが、それは人間の認識の極限である。なぜならば、人間の認識は意味を一つ一つ確定することだから、加算個にしかならないからである。カントールは0と1の間の実数の無限は自然数の無限よりも大きいことを巧みに証明した。仮定された無限の自然数からはそこに含まれないような新たな自然数を同数生み出すことが常に可能であるということを証明したのである。これは私が他者を認識するときの無限後退と同じ構造である。実数の無限と自然数の無限には無限集合が無いこと(連続体仮説)は証明されていないが、これを信じるのがユダヤ教であり、自然科学である。他方、西方教会におけるキリストの死とは、連続体仮説を諦めて、自然数の無限そのものに世界を限定することである。

<第4の類型:仏教>
      宇宙内の諸現象を捉えようとする私の経験的な操作の限界から私が逃れることが出来ないのは、私が到達不可能な他者を必要としている、つまり、私にとって他者の存在が不可欠だからである。キリストの死がそのことを教えてくれる。つまり、他者は追求すれば無限の彼方に後退していく不可知の存在でありながら、そのことが実は私の存在の根拠なのである。この逆説に定位した宗教が仏教である。

      超越的な神が超越的な場所から内在的な人間に関わろうとする宗教が、第2の類型であり、第1の類型はその前駆形態である。そこで不可欠なのは神の超越性を人間に接続する預言者である。人間は神の道具である。それに対して、内在的な人間が超越的な他者になろうとする宗教が第4の類型である。神化するという神秘体験が必要となる。また人間は神を受け入れる容器となる。第3の類型である西方キリスト教は第2の宗教に起源を持ちながら第4の類型との間を媒介している。(ここでいう仏教は小乗仏教であろう。大乗仏教は大衆の救済を目指すから、第3の類型に近づく。中でも浄土真宗で実際に行われていることは西方キリスト教とあまり変わらないように思われる。)

第2章:中世哲学の反復としての「第2の科学革命」
      デカルトはキリスト教と科学の間を取り持つために永遠真理創造説(我々が認識する必然性や永遠の真理は神の恣意(偶然的選択)である)を考えたが、これはオッカムの全知性と全能性の矛盾解決と同じことである。矛盾とは、神の計画に沿った人間の運命は神の全能性によっていつでも変更できる、しかし、変更されてしまうと、神が予知していたことが裏切られることになって、これは神の全知性に反する、ということである。オッカムの解決は単純で、選択がなされた時点で実は神は知っていたと考えればよいだけである。最初に神がどう考えていたかは判らないのだから。偶然的に見えることも神にとっては必然であったとすればよい。初期条件を与えれば後は力学の必然性に従って運動が進行する、という近代科学の世界観にはこのような背景がある。

      これに対して、量子力学の不確定性を示す実験(2つの孔の開いた障壁を光が通り抜ける)では、観測によって光が孔をどういう風に通り抜けたかが決まる。途中の経路で観測すれば、光は粒子であり、スクリーンに干渉縞は出来ない。観測しなければ光は波として振る舞い干渉縞が生じる。つまり、現在の観測によって過去の状態が規定されている。(この解釈は間違っている。光子が確率的な存在であると考えれば何も不思議なこともないし、現在が過去を規定することもない。そもそも波とか粒子とかは古典物理学の概念であって、そのまま微視的世界に通用するものではない。物理学は波とか粒子とかの本質を問わない。精密な予測の体系に過ぎない。)

      中世の普遍論争は実在論(普遍的なもの、概念が実在する。ドゥンス・スコトゥス が代表)と唯名論(個体が実在していて、類や種はただの名前にすぎない。オッカムが代表)の間の論争であった。パース解釈家の坂部恵の考えでは、普遍論争は個体の在り方の論争である。実在論では、個体は規定しつくすことのできない豊かさを持っていて、普遍者を分有している。唯名論では個体は規定されつくした原子に過ぎない。つまり、実在論とは神を個体そのものに見ようとする立場である。神の存在は人間の存在とどこが異なるのか?そもそも神は現前しないのであるから、異なると言ってもどう異なるのかも判らない。トマス・アクィナスは神の存在は人間の存在との類比によって語ることが出来るとした。これに対して、スコトゥスは神の存在も人間の存在も同じ存在である(一義性)とした。キリストは人間であり、個体であるが、神でもある。この両義性こそスコトゥスを実在論に駆り立てたものであった。キリストは神が人間に受肉した存在である。他方、仏陀は人間が神の水準に達した存在である。仏陀の行動は仏教の教義を例解するものであり、普遍と個別の関係にある。しかし、キリストは普遍的な真理の例解ではない。そうではなくて、キリストの存在そのものがキリストの教えの全てである。つまり、個別存在としてのキリストと普遍的真理としてのキリストは切り離せない。

      古典力学においては、認識と出来事の間のズレをいくらでも小さくできる。つまり出来事とその観察は同時である。しかし、量子力学では観察が必然的に遅れて、その結果として過去の出来事が認識される。粒子と波動の二重性のような不思議な状態は観測されれば消滅する。出来事の時刻を確定すればそのエネルギーが不確定となる。つまりエネルギー保存則はなりたたないが、その保存の破れは決して観測されない。観測されたときには辻褄が合っているからである。対象は観察者を常に欺いている。デカルトは騙されることのない観察者を神として想定できたが、量子力学では想定できない。それでは普遍性としての本質はどこにあるのか?本質は観測において騙すという否定的な力において、直接に姿を現している。通常、現れ(個体性)は彼方に存在する普遍(本質)を媒介するものであるが、量子力学においては逆に、限界があるのは本質の方である。それは現れの幽霊のような随伴物に過ぎない。神としてのキリストは人としてのキリストに直接現れる。この構図は量子力学と同じである。しかし、結論は逆である。中世哲学は神の存在証明であるが、量子力学は神の不在証明である。それは、しかし、キリストの本来の姿、「神よ私を見捨てるのですか」といって無様に死んでいった姿に近い。

      多少ここでコメントするとすれば、現代の大多数の物理学者は量子力学が不思議だとは思っていないし、判りにくいとも思っていない。直感的には確かに奇妙な概念を使って事実を説明したり予測したりしているように見えるが、重要なのはその有効性であって、手段としての理論というのは「実在」を保障されていない。どんな形式の理論であろうと、観測事実を説明して正確な予測が出来ていれば同等と考える。ごく日常的な力学の問題を真剣に考えてみれば気づくと思うが、物理が多少とも苦手な人にとっては古典力学ですら直感的にはそれほど判りやすくはないであろう。量子力学もそれと同じことである。いずれも「力学」である以上は徹底した決定論であることに変わりはない。違いがあるとすれば、それは我々人間の認識というものが我々の身体による探索や操作の延長にある以上、古典力学の世界(巨視的世界)に近く、観測結果もその概念の内でしか得られない、という事情にある。その限界を超えて「力学」を構成するためにこそ、数学が使われるが、その概念はやはり身体的経験を超えたものである。量子力学を第2の科学革命と称し、それが中世哲学の構造への回帰である、というのは、自然科学を理論の側からしか見ていないからである。山本義隆氏 の纏めたところによれば、自然科学を準備したのは大学のエリート達ではなくて、実業世界であるが故に侮蔑されていた職人達であった。そこでの新しい原理は徹底した経験主義(過去の理論よりも観測を信用する)であった。それを中世哲学で鍛えられた論理で纏め上げたのがエリート達であり、彼らが第1の科学革命の担い手として認知されている。その背景となる哲学は重要ではあるが、経験主義無しには砂上の楼閣である。その楼閣だけを取り出して哲学を論じても意味は無いし、そこに拘れば中世のスコラ哲学に逆戻りするのも当然である。経験科学としての量子力学は健全な力学である。そのことは量子力学成立の歴史(その実験的検証と理論の修正の歴史)を辿ってみればよくわかる。

第3章:法人の身体
      法人の起源はキリストである。10-11世紀の頃に神−キリストという序列が神−王という序列に置き換えられて用いられていた。王は神の信託を受けて国を統治するのである。13世紀には自然法(理性)−王という序列に変わっていく。その間に、王は自然的身体と政治的身体の2つの身体を持つ、という絶対王政の理屈が使われるようになる。政治的身体とは抽象的実体であり、王が死亡しても残る、つまり王権の永続性の保証であった。しかしキリストは神であるから永遠性を持つが王は永遠性を持たない。そこで、持ち込まれた概念がスコラ哲学で発明された天使である。中世の時間概念は神に属する永遠性(aeternitas)と世界内存在に属する有限時間(天地創造から最後の審判まで、tempus)であったが、天使は最後の審判でも無くならずに再生する。つまり、生成・消滅を繰り返しながら永遠の生命を持つ(aevem)。天使は個別人間の姿を持ちながらも、個別的存在ではなく、概念的、種的存在であるとされた(トマス・アクィナス)。王の政治的身体もこのaevemであり、その概念の起源はキリストである。この概念が自由都市や大学等の組織体に適用されて法人が生まれた。

      法人はその後資本主義の主体として著しい増加を示す。法人の生成消滅しながらも永続していく、という運動が正に資本の投資と回収を繰り返しながら無限増殖する、という性格と一致しているからである。天使は資本として現実化されたのである。マルクスはW(商品)→G(貨幣)→W'(欲しい商品)という、初期の運動(この段階では貨幣は便利な道具に過ぎない)に対して、G(投資)→W(商品)→(投資+利潤)という運動が資本主義であると、分析している。この循環の間に、商品には使用価値に労働者の付加した剰余価値が上乗せされ、交換価値となる。商品は差異化によって不必要な機能が付加されることで、商品価値を高めるが、やがて使用価値そのものが無視された状態が金融資本主義である。もはや商品は不要となり、情報によって利潤が生じる状態、つまり、高度情報化社会となる。人々の生活から資本主義が乖離していくのである。

      初期の資本主義(産業資本主義)においては、投資資金のために不特定多数の資金を集める法人(株式会社)が有効であったが、高度情報化社会(ポスト産業資本主義)においては、差異化された情報が商品であるから、資本の必要性がそれほどないかもしれない。しかし、投資家と企業との関係は必要であり、むしろ非上場企業(ヴェンチャー企業)として情報の独占を保障するという形での株式会社が有用となる。情報は囲い込まねばならないから、様々な方策が講じられる。金銭的なインセンティヴ、企業年金、退職金、従業員株主、株式オプション、はその一つである。もう一つは特異な企業文化である。それなしには情報が機能しないような文化を醸成すればよい。もっとも大きな懸念は会社が丸ごと買収されてしまうことであるが、それには、法で許される限りではあるが自己株所有とか株式の相互持ち合いがある。こうして、情報のパラドックス(共有されてはならず、共有されなければ機能しない)は近代資本主義の私的所有自体(自由に売り買いできる法人)の無力化を齎している。情報は最終的には消費者に共有されなければ意味がない。そういう意味で、商品に差異性を与える究極の情報とはブランドである。我々は情報内容がまずあって、その共有を考えてきたのであるが、ブランドの場合はまず共有があって、その内容が未来に約束されているのである。ブランドは人々がそこに自己を同一化しうる空虚である。この構造は法人が究極的にはキリストの身体と同じものになることを示唆している。所有ということが無化されてしまえば、営利法人とNPOの差異もなくなり、会社という共同体の存続が目的になるからである。

      大澤真幸の本を始めて読んだのは1996年頃だろうと思う。会社で情報記録媒体の開発をやっていたのであるが、記録媒体から情報そのものへと商品展開していく中で、情報とは何ぞや、ということに答える必要があって、「電子メディア論」を読んだが、結局新規事業の提案の役には立たなかった。現場たるアメリカ社会に居ない限り、頭の中で構想しても無駄であった。その後、退職した年、2009年に「資本主義のパラドックス」 を読んで、とても楽しかった。この人は頭が良い。現象の「本質」を抜き出して、無関係に思われた様々な現象を結びつける。これは物理の理論家のやり口と同じであるが、実践的検証を経ないから漫談にも見える。この人の主調である「他者性」が誰の影響なのかは勉強不足でよく判らないが、そういうことを考えるという傾向は多分内向的な性格に由来すると思われる。僕もそうだから。ここまでは第1部であるが、これからは現代の諸相を横断的に解釈することになる。

  <目次へ>  <一つ前へ>   <次へ>