2000.02.17

「ことばの誕生」正高信男(紀伊国屋書店)

        クモザル、リスザル、日本猿、の音声コミュニケーションをソナグラム分析して、応答の意味付けを物理的な指標によって統計的に解析し、喃語段階までのヒトの赤ん坊と比較。類似性を指摘している。

        音声コミュニケーションといっても鳴き声であるが、解析すると周波数やその変動によって個別的な意味を持っている。それは特定の仲間の存在やその位置を絶えず確かめたり、危険を知らせたりするということである。発達の過程は身近に居る母親とのやり取りで起こる。そこではコミュニケーションの必要性から私的言語が生まれるが、第3者を介してそれが公共的言語に少しづつ変わっていく。しかしこれは別の体系に取って代わるという性格のものではなく連続していると言う。

        ヒトの言語の特徴である文法だとか構造だとかいうのは本質的な差では無いということであろうか?そもそも構造が意識されるのは私的な小さな言語集団がお互いに相互作用を始めた時、すなわち経済的交流が始まってからではないかという。これはまあ確かだとしても、ヒトの言語には構造が内在していて、それが言語の効率性や現実との独立性を齎していることは客観的事実である。ここで取り挙げた猿達のコミュニケーションにそれは認められない。ヒトの資質がそれに適する様になっているにしても、言語が構造を持つのはヒトの資質のせいではなく、単にコミュニケーションが複雑化することの必然なのではないだろうか?言語以前のヒトの認知カテゴリーと行動カテゴリーが言語の構造を決めているだけなのではないだろうか?何が何でも社会を形作り複雑なコミュニケーションを取らねばならないという必要があり、一方で重い頭を上に支える為に喉頭が下がり、多様な口腔音声を制御出きるようになっているとすれば、チョムスキーのいう普遍文法に辿りつくのが必然ではないかと思う。

      これとは別に視覚を利用したコミュニケーションも発達し、手話や絵文字から文字へと進化した。音声言語と絵文字言語がお互いにその構造を真似て行くことによって、今日の言語が出来あがったということではないかと思う。そういうことで、それではその一番元にある必要性とは何か?それはやはり難産を避ける為に未熟児として子宮から追い出されて無力な状態に 1 年以上も置かれる赤ん坊であり、それを助ける母親である。言語を本能と呼ぶのであれば、このような状態に置かれる事そのものが種としての必然という意味で本能であり、その結果として、ヒトは脳の言語野を進化させたと言える。

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