2023.01.17
・・・昔から、「実存主義」というのがよく判らなかった。初めてこの言葉を聞いたのは学生時代、パリで学生運動「五月革命」が勃興して、サルトルがちょっと有名になったので、僕も読んでみたのだが、その政治的主張よりも、彼の心身論に興味を惹かれて、メルロポンティも読んでみた。こちらは「現象学」ということで、何だか当たり前のことを言っているようにしか思えなかった。これは要するに西洋の哲学史を全く知らなかったからである。そういう僕にとってこの本『<実存哲学>の系譜』は長年の疑問に答えてくれそうな感じがした。以下、勉強なので、やや詳しく書いた。( )は、大体において、僕の注釈である。

第1部 哲学史の中のキェルケゴール

第1章 実存哲学について
・・・最初から難解である。アリストテレスの『形而上学』に始まる。「存在」という概念についての哲学である。人間にはいろんな物や事が存在しているように見えるけれども、それらは同じような資格で存在しているのだろうか?という問いかけなんだろうな、と思う。「存在」というのは言葉として語られるのであり、それはまあ人間がそのように受け取っているということであろう。ここからスタートするのだから、今日的には「主観」の枠内での議論になっていて、途中で付いていけなくなる理由ではある。

・・・言葉というのは主語と述語があり、主語的存在は本当の存在であり、述語的存在はまあその主語の容態であるから、第一級の存在ではない、という区別をするのだろう。(これは僕の想像である。)「花は綺麗だ」という場合、花は第一級の存在であるが、綺麗はそうではない。こうして、存在の中で検討に値するもの(述語になりえないもの)を「実体」と呼んで区別する。この実体について、アリストテレスは「質料(科学で言えば素材)」と「形相(科学で言えば状態)」の離れがたい要素(側面)の結合したものであると考える。

・・・(この捉え方は随分と応用範囲が広い。例えば氷は多数の水分子という質料が水素結合という形相によって結び付いてあの硬い透明な実体となっている、とか。更に水分子は、となって究極の質料を探究したのが素粒子論である。氷が氷として存在している本質はどちらかというとその形相(水素結合)にある、とアリストテレスは考えたらしい。まあ、機能的に言えばそういっても良いかもしれない。)

・・・ただし、実体の全てが質料と形相で語られるものではない。「神」だけは質料も形相もない、それだけで存在している実体である。こういう事に気づいたのがトマス・アクィナスである。神以外の全ての実体は神によって「存在」という特性(権利?)を与えられている、ということになる。(まあ、こういう意味での神を知らない我々にとっては呪文にしか思えないのであるが、とりあえずそういうことである。)

・・・キェルケゴールはこの実体の中で「実存」を区別する。人間は神以外の実体という概念に含まれてはいるが、人間以外の実体とは区別して論じるに値する実体であるから、それを「実存」と呼んだ。この背景にはヘーゲルの思想があった。ヘーゲルは彼の提唱する普遍的な理念が実現していくプロセスとして世界の構造や歴史を捉えていた。その理念が実現していくプロセスに関わることができない個人はそもそも存在意義が認められない。戦時体制においてはこのような風潮が生じやすい。お国の為に役に立つ、という思想である。(「お国」を「革命」に置き換えても同様である。)キェルケゴールはとてもお国の役に立つことが出来なかったのだが、そういう人間が一般的な事物と同じような価値基準(理念の実現に役に立つかどうか)によって評価されるヘーゲルの思想に疑問を抱いた。そういう意味で、人間という実体(実存)は人間以外の実体とは違って然るべきである。その違いは何か?これは当然「神による救い」となるのは自然であり、キェルケゴールの思索もそこに向かったのである。

・・・このような経緯を考えただけでは、何故キェルケゴールが後世注目されることになったのかは判らないのだが、「神による救い」というゴールに至る途上の思考経路として、いわば副産物として人間存在それ自身の分析(心理学)が行われていて、それだけが、ハイデッガー、ヤスパース、サルトル等によって、「神」の存在から切り離されて使われるようになったからである、というのが著者(鈴木佑丞氏)の言いたいことのようである。そして、キェルケゴールの本当の継承者はウィトゲンシュタイン(ドイツ語読みではヴィトゲンシュタイン)であった、という事になるらしい。

・・・さて、件の心理学書であるが、二つあるらしい。僕は読む気が無いので、著者の説明を要約しておく。

・・・一つは『不安の概念』で、これは比較的判りやすい。人間存在は神から与えられた自由を持つ。それは神的なもの(永遠)とこの世的なもの(有限時間)とをどういう風に総合していくか、という自由である。(例えていえば、アインシュタインの相対論における世界線は神的なものである(時間の経過は存在しない)が、現実界においてその世界線上にある人間はさまざまな苦労をして生きている(時間を実感している)。神の目から見れば必然なのだが、人間から見れば日々選択の自由がある。)そもそも、このような自由を与えられた時点において人間は原罪を負ったとされる。それが一つ。もう一つは自由を持つがために生じる罪を犯すかもしれないという「不安」である。

・・・もうひとつが判りにくい。『死に至る病』ということで、「絶望」について分析されている。これは「自己」に関わる。精神が自己として現れるということは「関係」の中に置かれるということで、それは自己と自己との関係であると同時に自己と他者との関係でもある。今風に言えば自己意識のことである。自己意識が深まれば深まるほど、絶望が深まる。あるべき自己と現実の自己とが比較されるからである。一番酷くなると自分を他者(神)の失敗作として顕示したがるようになる(悪魔的な絶望)。これは、結局の処、自己を措定した他者を神と認めることで救われる。人間はキリストによる贖罪の対象だからである。したがって、それにもかかわらず絶望することは「罪」である。この罪の最たるものはキリスト教を捨てることである。

・・・デンマーク人、キェルケゴールは1855年に死亡して、しばらく忘れられていたのだが、20世紀初頭にドイツで、ついでフランスで再発見される。丁度2つの大戦の間で、ヨーロッパに「不安」が渦巻いた時代である。この経緯を辿るには、元々のアリストテレスートマス・アクィナス時代以後の哲学史を知らねばならない。彼らは「存在」を語ったのであるが、その後デカルトを嚆矢とした近代哲学が生まれる。そこでは主観と客観という枠組みが支配的となり、存在は課題から外されてしまった。認識論、ドイツ観念論、唯物論、主観を世界全体の主観として拡張したヘーゲルが4つの主要潮流である。この主観ー客観の枠組みを外そうとしたのがフッサールによる超越論的現象学である。彼は、客観世界の中に主観たる私が居るという構図を丸ごと括弧に入れて無視した上で、その都度その都度、意識に対して世界がどのように現れているか(純粋意識)を記述した。意識はなにものかについての意識であり(志向性)、そうであるかぎり、そのなにものかについて考察することに意味がある。つまり、キェルケゴールの「実存」を探索する方法論として使えることになった。(以後、サルトルの「実存主義」とは区別して、「実存哲学」という用語を使う。またその中でも、キェルケゴールの実存哲学には <  >を付ける。)

第2章 実存哲学とキェルケゴール

1.ハイデガー
・・・ハイデッガーは、人間のことを、自身でその都度それであるところの存在、として「現存在」と名付けた。この現存在の「存在様式」のことを、「実存」と名付けた。その意味での実存の研究が『存在と時間』である。

・・・現存在が一般的な存在と異なるのは、「自分の存在に関心を持ち、その在り方をその都度選択する」という点にある。結果として、自分自身、つまり自分がそうあるべきと考えた自分、である場合(本来性)とそうでない場合(非本来性)が生じる。前者はとりあえず置いておいて、まずは後者の場合を考えるが、これは非本来性であることが日常的だからである。このありかたを「世界内存在」と言い直す。(どうしてそう言えるのか、日常性をどうして否定しなくてはならないのかは僕には判らないけれども。)

・・・世界内存在は周囲世界に対して理論的対象認識ではなく、「配慮気遣い」で関わっている。(誰もがそうではないとは思うが。)これは自分が他者に操られているので、本来的な自己を見失っていると考えられる。(これにも必ずしも同意はできない。)また、現存在はそこに現れる場でもある(場=周囲と自分の区別が曖昧ということだろう)から、自分の存在のさまざまな可能性を読み取っていて、そこに自由な選択が可能であることを知っているのだが、それは明確に論理化されたものではなくて、情態性であるから、公共性のうちで自らを見失っているという「不安」を抱く。この不安こそが、本来性を取り戻す契機である。

・・・現存在の存在可能性はいつまでも可能性にとどまり(成就しない)やがて死を迎える。死への不安を抑圧して逃避することも可能であるが、逆に「良心」の呼び声に応じて不安による日常性から引き戻され、本来的な存在の可能性を開くことも可能である。ハイデガーは、この応答を「決意性」つまり、もっとも固有な責めある存在へと向けて、沈黙したままで、不安に耐えつつ自己投企すること、と記述した。この決意性こそが「時間」の構造である。(中島みゆきがシンガーソングライターになる決意を固めたのもその類か?しかし、死に対してはそれを受け入れるしかない。遅かれ早かれ、死を本来の自分として認めるしかない。これが宗教である。)

・・・(家族や村落の内部で自己充足して生きていた人たちが、商品流通を契機にして外部に触れ、そこから飛び出して行って、その環境に合わせて生きるとき、「本来の自分」が見失われてしまったという「不安」に駆られる。そういう近代化の中で起きる人間の心理状況を背景にした考察ということなのだろう。「本来の自分」というのは人それぞれで、試行錯誤の末に辿り着くのか、それとも無念の死で終わるのか、それはそれとして、その「様式」を考察したということだろう。)

・・・ハイデガーは「不安」という心理現象の解釈においてキェルケゴールの考えを採用したのだが、その宗教的解決には同意していない。むしろ解決を提示する前に死んでしまった。

2.サルトル
・・・フッサールの現象学を学び、意識の絶対性とそこに示される世界の現存とを両方措定し、ハイデガーにも学んで現象学的存在論『存在と無』をまとめて、その延長線上に社会参加の哲学として実存主義(実存は本質に先立つ)に至った。ハイデガーの「投企」を具体化したということであろう。

・・・フッサールが意識の志向性に注目してその超越論的存在を措定し、意識されている対象に焦点を当てたのに対して、サルトルは意識する自分に焦点を当てた。何者かを志向することで記述される意識(反省的意識:即自存在)というのは実は二次的なものであって、その前にその意識の主体(非反省的意識:デカルトのコギト:対自存在)があり、それを何かの契機によって反省することによって初めて志向対象としての意識が現れる。非反省的意識(対自存在)は、その即自存在の不在を「無」として意識する。これが「自由」である。あるべき対象がそこに無いものとして意識される。この「自由」は人間の本質を本質たらしめているものであるから、本質に先立つ。この自由が「不安」をもたらす。自由と不安の関係はキェルケゴールと同じであり、流用されているのであるが、そこから「罪」の可能性に向かったキェルケゴールに対して、サルトルはそこに社会変革に関わる倫理的可能性を見出した。

3.ヤスパース
・・・元々は精神科医であり、そこに現象学を持ち込んだ。広い意味での超越者(神)を措定していて、人間は主観ー客観の枠組みにとらわれている為にその超越者を覚知することはできないが、理性を鍛えてそれを探究する試みが哲学である、という立場を採る。実存についての考え方はキェルケゴールと全く同じであるが、実存の在り方(自由)を保証するものがキリスト教的な神ではなく、より一般的な超越者であるという処が違う。キリスト教的な神は人間に「自由」を与えることで手放していて、それが絶望とか罪につながり、その解決はキリストの贖罪と罪の赦しなのであるが、ヤスパースの超越者はただそこに在り、人間には見えないだけである。

第2部 キェルケゴールの<実存哲学>

第1章 遠望
・・・キェルケゴールは著作を3種類に分類していた。一つは美的、観照的な立場で『不安の概念』はそこに入る。逆により高い見地の宗教的、実践的立場によるものが『死に至る病』である。これらにはそれぞれ偽名が充てられていて、自分とは別人というう風に考えていた。3番目がキェルケゴール当人の著作であり、「宗教的」と称される。聖書の字句を題材に健徳を語る。

第2章 キェルケゴールの<実存哲学>

1.著作家活動の意図
・・・1843年ー1851年という著作活動の目的は、キリスト教者であるとはどういうことかということの啓蒙活動であった。人間は神の無限性と永遠性に対して有限性と時間性を合わせ持つ存在、つまり実存である。このような考え方はギリシャからの伝統であったのだが、キリスト教徒であるということは、更に神から与えられた自由による罪を背負い、同時に人として降臨したキリストの贖罪によって罪が救われる、という要素が加わる。更に、このことは『哲学的断片への結びとしての非学問的後書』に書いてあるのだが、そのような「知識」があればよいのか、というとそうではなくて、そのような実存を「自ら生きる」ことが要求される。そのように思考するだけでなく、思考している自己に本質的に関与することが要求される。実存することについて主体的に思考する、つまり二重の反省を行う。このことは神との直接対峙であり、そういう意味で、孤独者となることである。(なかなか難解であるが、例えていえば、物理学者が物理の理論を構築したり理解したりすることだけでなく、そういう自分の行為の意味について反省する、といったような事だろう。量子力学という理論に対しては、物質的存在そのものが関係性の網の目の中に消滅するといった。。。)

2.著作家活動の方法
・・・彼の伝達目的を果たすためには、彼自身の二重の反省を語ることはむしろ有害である。何故ならば、主体的思考はあくまでも聴衆や読者が主体的に行うべきだからである。彼らには自らが反省する自由を与えなくてはならない。これを「間接的伝達」と呼んだ。

3.<実存哲学>
・・・彼の考える「間接的伝達」はソクラテスのやり方である。「非反省性はいつも、目標に到達しようとして、客観的なものに目を向け、外へ、あちらへと方向をとる。ソクラテス的な秘密は、動きが内へと向うこと、真理が主体の自己変革にあることである。」

第3章 著作家活動

1.前期著作
・・・美的・観照的著作は一般的な人々の関心を引き寄せるための餌(策術)である。それに興味を持った人は宗教的講話を読んで、意外な感じを抱くであろう。それが彼らにキリスト教者としての実存を目覚めさせる契機になる、と考えた。(中島みゆきのラジオ出演が聴衆を彼女の曲に向かわせ、その深刻な内容に驚く、というのとよく似ている。)彼は日常生活においても著作の目的に沿った演技をしていた。美的な著作の時期にはしばしば劇場に出かけたし、宗教的講話の時期にはわざと大衆雑誌に批判記事を書かれるような(迫害されるような)行動をした。

2.後期著作
・・・1848年に『私の著作家活動への視点』を書いて、前期著作の総括をしている。その後はキリスト者の理想像を描こうとした宗教的著作を中心として、そこに導く美的著作と実名による宗教講和が配された。自分より理想に近い著者を装った宗教的著作の代表作は『死に至る病』と『キリスト教の修練』である。

・・・キリスト教者としての理想像は、人に姿を変え、人間世界から蔑まれて、最後には磔の刑に晒されるキリストに、それでも付いていく「躓かない」人、つまり使徒のような人間である。しかし、殆どの人はそうではない。それが問題なのではない。自分は使徒のようにはなれないということに気づき(自認)、それ故に謙虚に神人キリストの救いを受け入れることのできる人間がキリスト教者となれる。彼の著作は人々に自らの罪深さを自認させるように誘導するためのものである。

・・・キェルケゴールは二つの著作について偽名「アンチ・クリマクス」を使った。これは、私にはこんな立派なことを書く資格はないと言いたいためである。私が伝導者となるのは越権行為である。私は伝導者ではなくて、伝導を受ける立場にある。私はむしろ宗教的詩人である、とした。しかし、たとえ詩人であるとしても、その描く理想像が世間の攻撃に晒されることになれば、彼は一人で宗教改革者にならざるを得ないことは覚悟していた。

3.著作家活動の動機
・・・キェルケゴールは幼少より父に厳格な宗教教育を施されて、絶えず神を気にかけて生きていたために、憂愁気質を持っていた。(不安、絶望、罪といった意識がそれに伴った。)一時期それに反抗して放蕩生活を送ったとされる。婚約の解消を機に、彼は世間一般の生活をあきらめて一懺悔者として生きる決意を固めた。著述活動は神に課せられた任務であり、その任務を果たすことで神が彼を生かせてくれると考えた。世間の疑似キリスト教者を目覚めさせるための戦略は彼が最初から意識したものではなく、事後的に反省して気づいたものである。それは神によって導かれた結果であると解釈した。
・・・死の一年前になって、彼はデンマーク国民教会を糾弾するキャンペーンを行った。糾弾の矢面に立ったマーテンセンはキェルケゴールの言い分を認めながらも、ただ告発するばかりで社会を顧みないから、実際的な意味は無かった、と回顧している。

・・・キェルケゴールは「職業哲学者」ではなかった。彼の言いたかったことは、判りやすく言えば、「あなたは誰かの手によってそこにそのようにして存在している筈で、そのことを意にかけない独りよがりの生き方は絶望的で、それは実は罪深いことでもあるのです」ということである。

・・・(これは著者の解釈だろうが、こういう表現にすると僕にでも納得できそうな気がする。「誰かの手」は別に神の手でなくてもよい。両親でも良いし、偶然に生成した才能であっても良いし、、、何らかのそのようなものを信じることで、生きることが楽になるのは確かである。ご都合主義という見方もあるだろうが。。。)

第4章 <実存哲学>とソクラテス
・・・キェルケゴールが哲学を学び始めた頃にはヘーゲルを受け入れていたが、やがてそれが実存の問題に触れていないことに気づいて批判し、離れてしまう。逆に、彼がもっとも信頼した思想家がソクラテスであった。ソフィスト達に対する問いかけは最終的には何も判らない、という「イロニー」に終結する。その活動によって、人間は真理に到達できないことを自覚させる、というやり方自身、キェルケゴールが模範とした生き方であった。一言でいえば、二人ともに「誠実」という美徳を備えていた。

第5章 <実存哲学>と実存哲学
・・・ハイデガー、サルトル、ヤスパースはキェルケゴールの<実存哲学>には目もくれず、その著作活動に残されたアイデアを借用して自らの哲学体系の中に組み込んで利用した。ハイデガーとヤスパースはそのことに自覚的であったが、サルトルは無自覚であった、という違いがあるにすぎない。ソクラテスーキェルケゴールは哲学体系の構築には無関心であり、体系化するということ自身が神への冒涜であると考えていた。実践的に人々に実存の意味に気づかせる活動を行うことに集中していた。この二人の遺志を引き継いだのはウィトゲンシュタインであった。

第3部 <実存哲学>の系譜:キェルケゴールからウィトゲンシュタインへ

第1章 『論理哲学論考』期

1.『論理哲学論考』の哲学
・・・ウィトゲンシュタインは「究極の言語」、つまり「定義上は、世界に起こりうる全ての事を漏らさず語ることが出来る機能と構造を備えた言語」を構築し、その言語によっても語りえない事の中に、それまでの哲学上の課題が含まれている事を証明した。語りうることは自然科学の命題だけである。その根拠には世界と言語の写像関係がある。これは究極の言語という「永遠の相」から世界を観るという立場である。これだけでは何とも納得できないのは当然であるが、納得するには彼の論考を読まねばならないので、ここでは省略してある。

2.『論理哲学論考』の生の思考
・・・
ウィトゲンシュタインは1889年ウイーン生まれ。誠実さは生まれつきの性格であった。当初はキリスト教に向けられていたのだが、やがて決別。工科大学からマンチェスター大学に移り、そこで数学の哲学や論理に触れて、フレーゲの紹介でラッセルに出会う。兵役は免除されたのだが、第一次世界大戦には志願兵として参加。オーストリア軍の一員として前線で戦った。その合間に哲学的思索をノートに残した。トルストイの『要約福音書』を愛読していた。それはキリスト教特有の教義としてではなく、人生に意義を与える書として要約したものである。「生命は個人自身のために与えられたものではなく、父の意志遂行のために与えられたものであって、この父の意志の遂行のみが人々を死から救って、生命を与える」というものである。1916年ロシア軍の大攻勢に晒されている最中に、「人間はこの世のあらゆる苦難に晒されながらも、何が幸福と言えるのか?それは正に「認識の生」によってである。世界の苦難をものともしない幸福。世界の心地よさを断念することができる生だけが幸福である」と書いた。それは世界で現に生じている事実を偶然と見る生であり、その「永遠の相」において、全ての命題は等価となる。1918年に彼はイタリア軍の捕虜となり、草稿はフレーゲやラッセルに託され、それが刊行された1922年には、彼は哲学を卒業して小学校の教師をしていた。

第2章 中間期
・・・トルストイの思想においては罪を赦すキリストが居ないから、自らが罪のない理想的な生を送ることが求められる。『論理哲学論考』もそのような理想的な世界からの視点で貫かれている。したがって、戦火の中という特殊な状況から逃れて日常生活に戻ったとき、押し寄せてくる「罪」への誘惑に対処することができない。一度は完結した「永遠の相」を壊す必要が出てくる。

1.『論理哲学論考』以後のウィトゲンシュタイン
・・・修道院に入ろうとしたりして、小学校の先生となり、そこで生徒を殴って失神させるという事件を起こした。その裁判で彼は嘘をついてしまう。潔癖な彼にとってこのことが後に影響する。

・・・『論理哲学論考』が刊行された1922年には、彼自身は哲学を卒業していたのであるが、学会からは評価され、「ウィーン学団」という、論理実証主義による統一科学の学派ができた。1929年にケンブリッジ大学に戻り、少しづつ自分の論考を見直し始めた。例えば、名前の意味とはそれが指す対象である、という定義が見直され、文法や使用という現実の使用実態を考慮に入れるようになった。

2.『論理哲学論考』後の生の思考

① 哲学復帰前
・・・ウィトゲンシュタインは従軍中の緊張状態においてトルストイの理想主義を生きていたのであるが、戦争が終わって日常生活に晒されると、それを維持できなかった。かといってその罪悪感を罪を悔い改めてキリストの贖罪を信じることで払拭することもしなかった。彼にとってそれこそが「偽善」だったのだから。キェルケゴールはカトリック教徒の教師ヘンゼルとの交流で知っていたと思われるが、このころはまだトルストイの影響下にあった。
   
② 哲学復帰後
・・・1929年頃から、ウィトゲンシュタインがみずからの罪悪感を「虚栄心」として認識するようになる。虚栄心ゆえに懺悔することができない、ということも自覚していた。

・・・1930-32年の手稿『哲学宗教日記』では、彼はキェルケゴールを導きとして虚栄心の問題に立ち向かっている。
・・・告白すべき罪とは、具体的に、彼が3/4だけユダヤ系であるにも関わらず、1/4だけユダヤ系であると偽っていることと、教師時代の暴力事件の法廷で嘘をついたことである。この告白を妨げていたのが虚栄心である。この状況を彼は「絶望」として認識している。

第3章 『哲学探究』期

1.『茶色本』から『哲学探究』へ
・・・有意味な命題の集合として<究極の言語>を定義する、有意味な命題が世界の事実と論理を共有することで、その写像となる、その言語の意味とは写像で対応する世界の対象である、としてきたのであるが、1934-35年に学生に記述させた『茶色本』において、言語の意味の具体的相を記述するようになる。これを「言語ゲーム」と呼んだ。これをまとめようとしたのであるが、失敗し、1937年に最初から書き直したのが『哲学探究』の最初の方である。(究極の言語というのは、この記述だけから判断すると、命題の集合体として世界を記述しようとした初期の(失敗した)人工知能を思わせる。)

2.『哲学探究』を生み出した生の思考
・・・『茶色本』が頓挫したあと、1936年に、ウィトゲンシュタインは自分の二つの罪を友人等に告白した。そして、キェルケゴールの『キリスト教の修練』に導かれて、罪を赦すことのできるのは、イエス・キリストしか居ないことを認める。理想を演じることへの誘惑を断ち切り、理想には程遠い自分の現実を認めること、そのような誠実な自分であればキリストによる赦しが得られる。ただし、彼はキリスト教の全てを認めたわけではない。最後の審判、不死には同意したが、創造という概念には同意しない。教会も認めない。

3.『哲学探究』の哲学
・・・『哲学宗教日記』の中には自身の『論考』についての反省も見られる。『論考』は使徒のような理想である。理想はそこに置いて参照すべきものであって、それによって現実を『反証』するようなものであってはならない。キリストは使徒のようには生きられない人々を救うのであり、そのような人々を糾弾するわけではないからである。このことをウィトゲンシュタインは哲学に翻案した。つまり、理論家が構築した理論というのは、理論に合わない現実を切り捨てたり、現実を理論に従わせるためのものではない。理論は現実をよりよく認識するための鏡にすぎない。たとえ現実が理論に合わないとしても、それは理論に合わないという現実として認識すべきなのである。

・・・理想として措定した究極の言語のかわりに、現実に使われる場において言語を考える。その場のことを『言語ゲーム』と呼んだ。彼はこの言語ゲームという概念すら、それが現実の言語の本質として想定されてしまわないように注意すべきであると言っている。

第4章 『哲学探究』とキェルケゴール
・・・『哲学探究』がキェルケゴールの<実存哲学>の系譜に連なるというのは、それが存在を問題にしているからではなくて、理論よりも現実を見つめる誠実さを共有するからである。

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