1998.01.05

    内橋克人の"経済学は誰のためにあるのか"という本を半分ほど読んだ。いろんな人との対話で、最近の規制緩和の大合唱への警告である。規制にも良いものも悪いものもあるので、当事者を抜きに権力を持ったものが進めていけば、大企業の為の自由放任経済になってしまう。その弊害はマルクスの頃から知られている事であり、歴史的にもその経験から、アメリカ等では弱者保護の規制が市民レベルで監視され、守られている。という趣旨で一貫しているようだ。

    どうも経済学というのは当たり前の事がなかなか当たり前に理解されない所がある。妙に論理整合性や実証性に拘っているために、かえって、自然科学のような、後戻りの無い、積み重ねて進歩していく体系が作れていないのではないかと思う。いろいろな主義が出来てしまって、それぞれを正当化するような論理や実証が積み重ねられるが、物の見方は一つではなくて、別の見方からすれば別の結論と論理が出てきてしまう。事は価値の中身に関わり、それは人間が何に価値を認めるかで大きく変わってしまうのである。

    内橋克人は明らかに心地の良い地域のコミュニティに大きな価値を認めている。そこから見れば企業とか国家とか利潤とか株主とかいった物は抽象的で信頼するに値しない概念にすぎない。あるいはコミュニティにとっての生存手段の一つに過ぎない。消費者ですら企業によって作られるものであり、しばしば生活者という概念と対立する。自覚する消費者とは消費行動の生活者に与える迷惑を自覚し、そのことを消費行動で表わす人たちである、とか言うことになる。車での買い物とかゴミ問題とか公害問題とかいったところで具体的にそれが現れる。

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