2018.05.21
      今日はアステールプラザで 『Hiroshima Happy New Ear No.25』 である。今日のタイトルは『魔術としての音楽』。

      最初は、ルチアーノ・ベリオという20世紀後半の巨匠の曲で、セクエンツァ IXb。これはクラリネットの為の曲であるが、今日はアルト・サックスで大石将紀が吹いた。独特の音の動きが多分テーマになっているのだろう。その展開をしている感じである。こういう調性的起承転結の無い曲でも何となく背景にある秩序が感じられる。ちょっと良質のジャズのソロを聴く感じである。アルトというよりテナーの感じもあって、素晴らしい演奏だった。

      次のセクエンツァ III の方はソプラノの太田真紀である。赤いドレスを着て突然歌いながら登場した。歌うとは言っても言葉ではなく、様々な声である。声と言っても声帯を震わせる声だけではない。叫んだり泣いたり、唸ったり呟いたり、囁いたり、手で口を覆って変なビブラートをかけたり、、等々、人の口から出るあらゆる音を素材として使う。それでもやはりテーマの様なものが背景に持続している感じがする。
      3曲目は、細川俊夫 のスペル・ソング−呪文のうた−。これはオーボエの為のソロ曲であるが、ソプラノサックスで大石が吹いた。細川氏の解説のせいでそう感じるのかもしれないが、確かに毛筆で横に流して描く線やポツポツと滴る墨のような音型である。最後の方はまあ、呪いのような激しさがあった。

      4曲目は、同じく細川俊夫の『声とアルト・サクソフォンの為の 3つの愛の歌』。
これはなかなか面白かった。和泉式部の有名な3つの和歌、

「くらきより くらき道にぞ 入りぬべき はるかに 照らせ 山の端の月」
「あらざらむ この世のほかの 思い出に いまひとたびの あふこともがな」
「もの思へば 沢の蛍も わが身より あくがれ出づる 魂かとぞ見る」

を太田さんが歌って(相当起伏が激しいが、これはまあ一応歌ではある)、サックスが即興的な感じで伴奏する。音を重ねる普通の伴奏の部分もあったが、何だか長唄に三味線という風に音を埋めている感じのところもあった。和泉式部の激しい情念がうまく表現されていたと思う。

      後半はジャチント・シェルシという作曲家の曲である。初めて聞く名前である。この人は12音技法を勉強していて精神に変調をきたして精神病院に入り、そこでピアノの前で一つの音を延々と鳴らしてその余韻を味わい尽くす、というような感じだったそうであるが、お金持ちなので、微分音が連続的に出せる電子オルガンのような楽器で即興演奏して録音し、プロの作曲家を雇ってそれを譜面に直してもらう、というやり方で曲を作っていたらしい。そこに日本人のソプラノ歌手平山美智子が惹かれて、その音の連続を声に直した。ただ、楽譜は他の人には渡さなかったらしく、本人が死んだ後はその許諾を得て平山美智子が作り直して秘伝の曲となってしまっていた処に、太田真紀が弟子入りしてそれを引き継いだということらしい。平山美智子は今年の4月1日に亡くなったそうである。

      曲は、『Ho/ホウ より5番』をソプラノソロ、『Tre pezzi/3つの小品 より1番』をアルト・サックスソロ、『Canti del capricorno/山羊座の歌 から1,3,5,7,14,15,17,18,20番』はソプラノ・ソロに、サックスとパーカッションが時々入った。なかなか自由奔放に音が舞う感じで掴み処が無い。サックスのソロはまあフリージャズのような感じで聞きやすかったが、ソプラノの方は相当破天荒なのでまともに聴いているとこちらの頭がおかしくなってきそうだった。

      終わってからのトークで司会者がうまくまとめていた。知的構成的なベリオと即興的で作曲と言えるのかどうかが疑われているシェルシという対照的な作曲家の曲が並んだのは初めてかもしれないが、細川俊夫は2人の丁度中間に位置していて、うまく収まった、ということである。
 
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