「生きていることの科学」第三章は「ロボットの痛み=傷み」である。アペオスのコマーシャルの例から、内包的規定と外延的規定について説明される。内包的規定とは述語による規定であり、それは何かの性格なり特徴なりで規定するから、当然それ以外は無視される。外延的規定というのは属性なり例なりの集合である。これらが一致していると信じるからこそ知識という感覚が生じる。しかし、これらが同値であることはあり得ない。必ずや内包的規定に収まらない例があるだろう。だから、それを発見するたびに齟齬が調停され、内包的規定が更新される。可能性と現実性、プログラムとデータ、仮想世界と現実世界、といった双対性と同類のものである。これらの対間の裂け目で外部から滲み出るもの、それらの区別を創り出しながらも潜在的なものによって区別を無効にする、そのようなものとして質料を定義したのである。内包と外延の齟齬と調停が引き起こすまるごとの現象が担う質料の痕跡を「痛み・傷み」と呼ぶことにする。私というシステムをプログラムとして想定すると、データとして刺激を処理することはプログラム自身の変形・変質、つまり傷みを含むことになる。痛みの問題は、一人称として論じるには自明すぎで意味がないし、三人称として論じるにはそもそも痛みがそこには存在しないから意味がない。痛みの問題というのは私が対峙する他者、つまり二人称の問題であり、私の痛みを他者に伝える際の問題である。

    自由意志の起源について。オットー・レスラーはロボットが「ご主人様の命ずるままに」と発話するなら、そのロボットは自由意志を持つ、と言った。ジャック・モノーは山頂へ大石を運びながら決して成功することなく繰り返す苦役を強いられるシーシュポスが苦役を自ら引き受けていると感じるとき、彼は自由になる、と言った。単純に考えるといずれの場合も客観的には他者の意志のままに動いているのであるが、当人が命令に背く可能性を持ちながらもその命令に能動的に従うとき、それは自由意志がある、と言える。このパラドックスは本人という一人称の世界と関係の無い他者という三人称の世界とが互いに調停不可能で独立な対立項としてあることに由来する。所謂ダブルスタンダードであるから、自由であるとも言えるし自由でないとも言える。ただ、レスラーは単に能動性や選択の自由だけでなくて、全体性内面化、すなわち、主人の個々の命令に従うということを超越して「全ての命令に従う」という一般的な言明に達したということ、を意識の起源と見ている点で異なる。ロボットがそうなるには、それなりの神経系があって、何回も命令に従っている内にそれらのネットワークと相互作用する中枢が生成して一般化したタグを付けるようになる、ということでもあり、これは進化という風に考えられる。しかし、実際にはある初期条件を指定して力学に従って時間発展しただけなのであるから、進化と言えるのか?という問いも成り立つ。ところで、そもそも、初期状態を指定する、ということは意識を持たないものに対してしか有効でない。進化の物語は、意識を持たないものが意識を持つようになる、ということであり、この物語の途中で、もはや自明性を失った起源(初期状態)を問う必要性が生じたと言わざるを得ない。この必要性というのは、明らかに進化の物語の外部にある、観測者・理論家の必要性である。つまり、進化の物語はそれ自体に外部への裂け目を持つ。これが質料である。意識への進化は外延的規定から内包的規定への進化とも言える。内包と外延の関係が少しずつ変質し、表現された内包・外延では覆いつくせない外部が潜在し、浸潤してくる。この内包と外延を区別し、繋ぎながら、この区別を無効にするもの、として質料が想定される。外延(三人称世界)と内包(一人称世界)とを区別し繋ぐのは二人称世界である。

    私の痛み、というものもそれが単に私という容器に入れられただけでなく、窺い知れない何物かと未分化な形で存在すると想定される。私の痛みは私秘的であるが故に私に所有される。ここに現れる私という境界は予め存在するわけでなく生成され、立ち上がる。単なる入れ物とは異なる自明性の喪失がそこにはある。予め与えられた規則に従って石の再配列を繰り返すことで境界が出来たとしても、そこには私秘性は存在しない。観測者・観測過程の関与が必要である。潜在性というのは予め数え上げられる可能性ではない。

    一人称世界での痛みはかけがえの無いものであり、これが正に痛みである、というそれしかない指定である。しかし、三人称世界での痛みは選ばれないものまで視野に入っているから、痛みであるか痛みでないか、痒みであるか痒みでないか、、、という多重選択である。一人称では集合の要素を指定するが、三人称では写像を指定する。選択肢がn個なら、一人称ではn通り、三人称では2のn乗通りからの選択となる。このような一人称と三人称の間の齟齬と調停が痛みであり、それは二人称の世界である。ところで二人称世界はどうやって必然性を持つか、がだんだんと判らなくなってきた。読み返して思い出してみると、それは齟齬が他者の問いかけを生みそれへの回答が調停を生み、こうして選択の有様が変化していく、という事であった(と思うが。。)要するに、仮想世界を抜け出すには具体的な他者との対話しかない、ということなのだろうか???

    どうも次から次へと例ばかり出てきて嫌になるのであるが、次は体温測定である。そもそも温度というのは平衡状態で定義されているから、平衡であるかどうか確認が必要となり、全ての場所の温度測定が必要である。前者で体温を知ったというのは系の内包的規定であり、後者は外延的規定を与える。しかし、全ての場所の温度測定は不可能だから、結局局所の測定で全体を代表するしかない。それはどこかに平衡系を想定している、ということである。それは測定後において理念として出現する。これは温度変化、つまり病の兆候が期待される平衡系であり、それ故にこそ温度測定に意味が生じる。それは温度変化を潜在させているが故に意味がある、つまりこれまた質料性ということになる。

    この章最後が、捕球するロボットの例である。(1)カメラを通して空中を飛ぶボールを認識する(2)ボールの落下位置を推測し、そこへ移動してグラブにボールを当てる(3)グラブに収まったボールの衝撃を吸収するように少しグラブを引く。これらの動作を一連の作業として見ていればロボットが意識を持つ(全体性内面化)とする。一連の作業として見ているということは、(1)の処理結果を引き継いで(2)を準備し、(2)の処理結果を引き継いで(3)を準備する、ということである。(2)と(3)について考える。(2)でグラブに受けたボールの衝撃はグラブにダメージを与えるかもしれず、そういう意味で正確なボールの位置や運動の測定とは言えないかもしれないが、そんなことを気にしているわけには行かず、(意識があるとすれば)ロボットはボールの全体像を作りだす。これこそが「痛み」であり、齟齬と調停を含んだ質料性である。痛みの検知は既にグラブを引くことの予知となる。その観測結果を演算処理してグラブを引く準備をする、というものではない。意識のある人間であればそんなことは起きていない。(2)と(3)は予めボールの捕球を1個の作業として用意しなくても、各部分作業が自ら糊代を伸ばして全体として貼り合わされてしまう。もしも通常のロボットのように「痛み」が無かったら、(2)と(3)は分断されているから、別途実装されたプログラムに従って事前に教えてもらった動作をすることになる。この場合は(2)のプログラム系から(3)のプログラム系へとデータ(情報)が伝達されるだけである。「痛み」があることによって、(2)と(3)は一連の作業として認識され、ロボットが意識を持つことになる。ここで言っているのは、具体的には生身の肉体(骨格、筋肉、反射神経)が持つ痛みを契機とした反射動作によってグラブを引くという動作が習得される、ということだろうと思う。

    そのような肉体の属性の関与は捕球プログラムによって最初から可能性が予期されるものではなくて、むしろ潜在していて、思いもかけずに出現したと考えざるを得ない。これは観測者と完全に分離された外部世界に対して世界と独立に思いを巡らせること、すなわち予測ではない。また逆に未来は完全に決まっていてそこに誘導されるということでもない。痛いから思わず手を引いてしまったというその動作自身が未来でしなければならない動作であったということであるが、未来を勝手に作ってしまったということでもない。未来は予測されたのではなく(自らが関わる運命という意味で)予期された。ロボットと世界はマテリアルとして繋がっていて、世界はおのずと運動している。そこに見出されるのが質料である。言い換えると、ロボットと世界を区別してプログラムが作られるわけであるが、実際には物質的に繋がっているから、そのことに由来してプログラムでは予期できない、潜在的な運動が生じてしまう。動物と環境もそのような関係にあって、そのような環境は動物にとってアフォーダンスである。知覚するものと知覚されるものが分離できずに丸ごと成立する知覚現象。運動そのものがアフォーダンスの知覚である。

    さて、ここまで来て、これが「質料の装置化の理論」だったのだろうか?仮想世界から救い出す装置なのだろうか?まだ最後の章がある。

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