エリック・ドルフィー(Eric Dolphy)


    学生の頃、一日中ジャズ喫茶に居て、そこで、量子力学の勉強をしたり、そこから夕食を食べに行ったりしていた時期があった。いろいろな Jazz Giants に触れたわけだが、その中にエリック・ドルフィーが居た。最初は ミンガスのグループでの演奏で知り、ヨーロッパでの演奏など、いつもドルフィーは飛び抜けていて異様なソロをとっていて、存在の根底を覆されるような衝撃を与えてくれた。その後、僕はフルートを通じてどちらかといえばバッハの世界に入り込んだので、ジャズと真剣に向き合うことはなくなっていたが、最近、友人がそのドルフィーに嵌ってしまったので、あれこれとディスクを集めて、訪問し、一緒に聴いた。20年以上の時を隔ててドルフィーに再会した気分である。持って行ったディスクは、 Looking AheadLPより)、Out ThereOutward BoundFree JazzFar CryAt the Five Spot #1LPより)、At the Five Spot #2LPより)、Illinois ConcertOut to LunchLast Date である。友人宅にあったOut ThereOutward Bound 以外の全8枚を聴いた。


     行く前にコピーを取るために結構聴いていった。その中でもFree Jazz には再認識させられた。左右に4人づつで、木管、金管、ドラム、ベース、それぞれが全く自由に演奏していて、当時は衝撃的だった。うら若き彼女と同棲していたお金持ちの H 君のアパートで皆で聴いた時のことが思い出される。ドルフィーの側はちょっと保守的だねえ、などと皆で評論していた。そういえば、その後しばらく オーネット・コールマン に嵌ったのだった。こうして聴いてみるとまだ結構行ける。身体が動いて戦慄が走る。8人が自由にやっているようでいて、ものすごくお互いの交感があって、、、ふと、僕は多少岩本拓郎の絵の影響を受けたのかもしれない。。。と、思って、LPのジャケットを見ると、そうそう、Jackson Pollock の絵なのである。先日拓郎氏の絵を見たとき、どこかで見た感じだなあ、と思ったのだが、まさにこの絵なのだった。題名は White Light


     さて、これだけドルフィーばかりをまとめて聴いたのは、実を言うと初めてである。いつも一本調子のように思っていたが、結構相手やそのセッションの意図に合わせて自分を変えているのが判った。というか、その場に合わせながら自分の吹きたいように吹くというバランスの取り方が絶妙であって、それがドルフィーの魅力にもなっている。ドルフィーのスタイルは基本的に垂直志向である。つまり分散和音を一瞬の内に詰め込むことでその時点での音楽的な意味での時間を空間へと展開する。これはある意味でチャーリー・パーカーが新しいバップスタイルを始めたときに取った方法でもある。しかし、この詰め込まれた音をどういう風に纏めるか、どこに出口を持っていくかという点では異なる。パーカーはあくまでもブルーズの人であるが、ドルフィーには現代音楽の感覚がある。それともう一つの相違は、パーカーはあくまでもジャズのビートの中に綺麗に詰め込んで外すことは例外であったが(勿論当時としては外した方であった)、ドルフィーはしばしばビートを完全に外し、外すことで緊張感を作り出し、それを自分で解決する。この外れている間の時間、ドルフィーの脳はかなり分裂しているのではないだろうか?いずれにしてもドルフィーの解決方法はいつも聴く人を驚かせる。12音技法までは行かないが、相当に込み入った現代音楽に使われる和声構造が彼の脳の中には用意されている。


    ジャズは共演者との対話であって、そのような音の使い方(解決の仕方)が共演者によって即興的に発展させられるのが普通であるが、ドルフィーの音はちょっと特異であったために、そういった共演者はまれであったように思われる。そういう意味でよく似た志向を持つトランペットのブッカー・リトルを含んだセッションはどれも素晴らしい(Free JazzFar CryAt the Five Spot)。多くのセッションではドルフィーはむしろ浮き上がって見えるか、あるいはドルフィー自身が上手く妥協してある種の調和の美学さえ感じるものもある。だだ、Last Date だけは共演者が控えめなこともあるだろうが、特別に輝いている。ここでの彼のフルートについては技術的には勿論完璧なものではない。しかし、その表現しようとしている内容自身は聴いている人の脳に深く刻み込まれてしまうだけのものがあって、一度聴いたら忘れられないのではないだろうか?


    You don't know what love is. はビリー・ホリデイの愛奏曲である。序奏がまたドルフィーの本質を表している。テーマの段階から中間音やフラッターを使ったりしているばかりでなく、フレーズの最後の音が和声的にはかなり遠いところになっていて、幻想的ですらある。アドリブパートに入ると勿論分散和音のすばやいパッセージもあるが、それよりもフルートらしいトリルが多用されているところに思い入れらしきものが感じられる。メンゲルベルクのピアノは判っているのかいないのか、ドルフィーの鳥の囀りのような展開に対してひたすらオリジナル曲の和声を付けていく。もっとも、これなしにはドルフィーもこんな風には自由になれないだろう。ドルフィーは更に重音奏法まで持ち出すことになる。ここで見せるドルフィーの技術は技術的な完成度よりもその技術でなくては表現できない感情の迸りに直結していて、どうしても、その先にあるもの、表現不可能な何か、を想像させる。次にでてくるメンゲルベルクのソロは明らかにドルフィーの解釈の影響を受けているが、すぐに種が尽きてしまうような感じである。最後のカデンツァ的なドルフィーのソロは面白い。線で作ろうとしながら垂直な動きを捨てきれない。最後はついにバッハの無伴奏チェロ組曲を思わせるような千鳥足の分散和音である。36歳のドルフィーはこの後病死するが、そのことを知っていたわけではない。しかし、何かしらそのことを暗示させるような演奏である。


    ドルフィーがその天国で演奏する音楽に一番近いのは多分 Out to Lunch である。この録音で、ドルフィーは彼の理想とする音楽を実現するために、用意周到なメンバーとの共同作業を行った。ピアノの替わりに ボビー・ハッチャーソンのビブラフォンを使ったことが成功の要因であった。全員がドルフィーになりきったように演奏していて、もはやジャズのビートはどこかに飛んでいってしまうわけであるが、それでも隠れたビートが全員の脳の中に刻まれていて、その同期たるや奇跡的にすら聴こえる。それほど緊張感に溢れた音楽になっている。


    ジャズという伝統の中でのドルフィーはオーネット・コールマンの始めた
Free Jazz の中に位置づけられることもある。しかし、コールマンの発想には最初から和声などなくて、あくまでも水平志向であるから、共通しているのはチャーリー・パーカーからの影響くらいなものである。ジョン・コルトレーンはドルフィーに影響されて、垂直志向の同様なスタイルの中で和声を拡張したのであるが、そのアプローチの仕方はドルフィーのように論理的ではなく、痙攣的な発展を見せて、ついにはお経のような音楽になってしまう。ドルフィーとの共演は結構あるようなので、聴いてみようかと思う。
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