Karen Barad "Meeting the Universe Halfway" の第5章は、元々独立した論文だったようで、序文には、この章は本全体の縮小版なので読み飛ばしてもよいと書いてあった。しかし、フェミニズムの議論についてはこの章が詳しい。彼女の使う主要な概念がそこに由来しているようなので、読み飛ばす訳にもいかない。本当は Butler の<Bodies that Matter>を読むべきなのだが、竹村和子さんがその本の翻訳の途中で亡くなられたようで残念である。それで、いま一つしっくりとしていないのであるが、一応要約しておく。科学技術によって人工物と人間とが対等の立場に立つようになってきた時代において、このような考え方は、正しいとか間違いとか言うよりも前に、一つのオプションとして意味があるように思える。

第5章 「現実を知る(getting real):科学技術実践とリアリティの具体化」
 Foucault(フーコー) は「監獄の誕生―監視と処罰」において、権力は身体に繰り返し圧力を加えることで、権力の仲介者(執行者)を作り上げる(構築する)という分析を行った。Barad は圧電結晶もまた圧力を電圧に変換することで、仲介者となる、という。これは物質が人間と同様に agency(行為体) になるという意味である。

● 身体の具体化
  Butler の<Bodies that Matter>が批判される。彼女は言説的に構築されるジェンダーの物質的側面について分析したのであるが、ジェンダーの構築に<物質>が agency として関わることを見逃した。

● 具現化の技術
 Butler は、胎児のジェンダー診断という言説的構築の始まりにおける、「超音波診断」という技術の意味を分析できていない。それは、例えば、胎児に主体性を付与する事で、妊婦に対して胎児の健康への過度の責任を負わせる理由を与えて、妊婦の主体性を奪う。また、インドの非上層階級の家庭において、女性と診断された胎児の60%が殺される、という事態を引き起こしている。

● ボーアの認識論的枠組み
 20世紀初頭に明らかになったニュートン物理学の限界は、同時に認識行為と認識対象を予め区別するという表象主義の限界でもあった。Bohr はその事に気づき、それを織り込んで新しい認識論の枠組みを作った。測定値の指示対象は測定対象ではなく、測定対象と測定装置が一体化した<現象>である。ここで測定装置は agency であり、測定値を意味づける、つまり言説実践でもある。

● 画像化装置から具体化実践へ
 Bohr は<現象>の内部において、装置と対象との境界(内側の境界)を引く行為として実験を把握していたが、他方で装置がどこまで装置であるのか(外側の境界)について、つまり社会との関わりについては議論していない。超音波診断技術は社会と深く関わっており、その議論を発展させるための良い例となる。

  他方、Foucault は囚人の再教育を権力が仲介者を生成する行為として分析する際に、円形監獄という観測、生成、規律の「装置」を議論している。彼は、ここでの彼の知識対象(囚人という主体)が前以って存在するのではなく、円形監獄という装置を使った(社会に従順たれという)言説実践によって、出現するという事にこだわっており、その意味で、Bohr の認識論の枠組みと同型である。しかし、Foucault は円形監獄という装置と囚人との分離不可能性とか、それを表現する<現象>という概念には至っていない。また、彼にとって非人間は全て自然に与えられた対象であるように思われる。

● 物質は如何にして実現するか
 自らの形而上学を宣言する(存在論を表に出す)ことは、リアリティの概念を打ち立てることであるが、それは同時に、何がリアルでないかという排除を伴う。しかし、それを恐れてはいけない。脱構築分析は、社会的規制による排除の不可避性(歴史性)を明らかにすると同時に、排除されたことへの責任を取る、つまり、排除の構築をやり直すということが目的なのである。だから、そのような将来に向かって開かれた形でのリアリティの<理解の仕方>が必要なのである。

  リアリティというのは、Bohr の考えから推測すれば、<現象>を指し示す言葉である。現象は全体性であり、装置と対象の存在論的分離不可能性である。しかも、それは絶えずやり直され更新されるから、リアリティは固定された本質ではない。人間実践から独立した存在でもなければ、人間実践だけが関わるものでもない。人間実践は現象(世界の生成)の中にあり、またそれに関わるが、同様に非人間もその中にあり、関わる。

  科学技術的実践の果たす役割は遂行的に理解されるべきである。Butler の遂行性は逐次反復的な言説の引用によって具体化(つまり習慣化)されるのであるが、Barad の提唱する agential realism においては、人間も非人間も含む複雑な agencies の間のネットワークとして具体化される。それは人間と社会の領域を超えて一般化されている。Foucault の権力/知識実践も社会の領域に限られるのではなく、自然的な執行としても考えられねばならない。

  例として、超音波診断技術の進歩は患者と医師がスクリーン上にリアルに再現された胎児に排除的な焦点を当てることを促し、胎児の自律性と主体性に固執する政治的言説を助け、妊婦の対象化と彼女の主体性排除を伴う。

● 行為体(エイジェンシー)と因果律
 遂行性で考える場合は、主体は agency の宿る場所ではなく、むしろ遂行性の逐次反復的な性格であり、その性格が逆にまた新たな agency の可能性を与える。つまり、主体の構築は規律に従って完成することがなく、その不確実性が 新たな agency の関与による転覆の可能性をも与える。因果律は観測の agency の上に残された(観測対象による=原因とされる)印(結果)としてあるのみであって、決定論的ではない。また、agency が主体とは別の存在である、ということは、非人間の agency も想定できるということであり、自然科学においてはむしろそれが常態である。

  Monica Casper の主張「超音波診断技術によって、胎児は人間の資格を持つ潜在的な人格として構築され(agency を付与され)、妊婦の主体性が貶められ、妊婦は胎児の為の母体環境として対象化されてしまう。」に見られるように、agency の帰属と排除は、人間の構築における帰属と排除のように、政治的な事項である。ただ、問題は胎児にあるのではなくて、対象と主体の個別構築にある。胎児自身は対象でも主体でもなく、妊婦とその環境を含めて一体化した<現象>であるが、それを切り離すのは政治的言説と物質的装置である。

  社会の支配的装置(主体を構築する装置)に対する行為の可能性の一例として、精子を必要としない妊娠と出産の試み(研究)がある。これは確かに家父長制や異性愛規範に対する反逆ではあるが、他方で遺伝的子孫を育てるという階級非対称性の強化にもなる。

● 3次元超音波診断:表面を超えて
 胎児を計算機上で3次元画像として表示し、自由に切断面を見ることができるようになった。この装置は現在のところ、反中絶論者に利用されている。フェミニスト理論は、父親の法則だけでなく、自然や技術の理解も必要である。しかもそれは異なる専門としてではなく、それらの専門の intra-action を学ぶ、つまりそれぞれの構築原理を交差させるような分析が必要である。

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