一日中、結構時間をかけて、ハンナ・アレント「活動的生」(「人間の条件」のドイツ語での改定版)の第5章を纏めた。どうしてこんな面倒な本を1ヶ月以上かけて読んでいるのか、と言えば、僕が今まで無視してきたような観点から人間性を考えているからである。この人は例えば人間国宝のような素晴らしい職人の仕事よりも井戸端会議のようなお喋りの方が人間の活動として意味がある、という。何故ならば人間国宝の価値を決めるのはその作品そのものではなく、それを評価し伝える人々だからである。全面的には賛同しがたいが、一理あると思う。

・・・さて、第5章をまとめてみよう。今までの章で、人間の行動をその目的によって分類した。つまり、
・「労働」:
      生存と生殖を目的とした行動。食料の生産とか家事とか、マルクスの言う疎外された労働とか、勿論食事や生殖行動もここに入るものと思われる。
・「仕事」(英語版)=「制作」:
      何かのプランに沿って耐久性のある物を作る行動。通常の意味での道具製作や大ざっぱには文明を築く行動である。やや特殊なものとしては芸術活動もこの中に入る。職人の仕事。特徴としては、市場や展示会やコンサート会場といった評価の場を持つ。
・「活動」(英語版)=「行為とそれに伴う言論」:
      人間が自らを他者の前に表現する行動。自発性と独自性の発揮。

・・特定の行動がこれらのいずれかに分類される、という意味ではないと思われる。目的意識が一つとは限らないからである。むしろ行動というものの3つの側面とでも言えるだろう。(もう一つ「観照」があるが、これは論じられていない。)第5章ではこの「行為」について詳細に論じられている。

・・・まずは「行為」が「言論」を必要とする事が述べられる。「行為」は何らかの行動によって人々の前に自らの存在を誇示すること(人格を開示すること)である。それが意味を持つためには「言論」によって説明されねばならない。このような「行為」はそもそも人々との関係を前提としている。どのような関係か?それは同じ世界を共有しているという事が一つ。もう一つは多様性が認められているという事。個人の行為や言論はその「人間関係の網の目」(公的世界)の中で様々な評価を受けて、彼等の更なる行為や言論を誘導する。個人の行為の結果はその個人には判らない。多様な人々がその個人をどう見ているか、という事に過ぎない。また、行為や言論の齎す結末も予測が出来ない。
< いやそんな事は無いだろうと思うだろうが、これはあくまでも本質的にはそうだ、と言いたいのであろう。人々が自由である、ということによって本質的に活動の結果が予測できないのだが、人々はそのような行為の危うさを回避する工夫をしてきたから、今日的な思い込みとして、そんな事は無い、といえるのである。 >

・・・「行為」の保証された場として古代ギリシャのポリスが生まれた。それは、神々や自然に対して無力な人間がお互いに競い合い評価しあって、その結果としての「物語」を残す場であった。物語を人々に見せるにはヒーローの行動を真似るのが最も効果的である。これが演劇である。ポリスは「永続的な現在性」を演出する場である。そのような場、公的世界を維持する力を「権力」と定義する。権力は語源から言っても本質的に潜在的である。顕在化して暴力となれば人々を強制し、公的世界の本質である多様性が失われてしまうから、権力の基盤が損なわれる。

・・・多様性を持った人々の自由な「行為」は容易に無秩序となる。そういった予測不能な性格を彼女は行為の「プロセス性」と表現している。ポリスのプロセス性を指摘したソクラテスは自害に追い込まれた。弟子のプラトンは「行為」よりももっと確実と思われる行動、つまり「制作」のスタイルでポリスの「行為」を代替しようとした。これがプラトンの「国家」である。制作においては行動の前にプラン(モデル、設計、知識)がある。それに従って確実に作品が作られる(作業)。つまり、知識と作業が分離している。プランに相当するものとしてプラトンは「イデア」という概念を作った。イデアを知る人が哲人で、哲人がそれに従って「行為」(政治)を始める(判断する)。その判断にしたがって人々は「行為」(政治)を実行する。本来ギリシャ語では一体化していたはずの「始めること」と「実行すること」を分離して、実行する人は判断しないようにした。つまり技術としての政治である。このプラトンのスキームは現在まで根強く生き残っている。目的のためにはあらゆる手段が正当化される。目的は変遷した。古代においては「劣悪な人達から優良な人達を守ること」、中世においては「魂の救済」、近代では「生産性と社会の進歩」である。しかし、プラトンの「国家」は人々から多様性を奪い、人々を目的の為の手段に貶める。
<これもまた極端な言い方ではあるが、そういう側面があることは否めないだろうし、そこから直接民主主義への憧憬が出て来る。>

・・・「労働」は生命循環の中に閉じ込められているが、そこから救い出すのは「制作」による「道具」である。同様に「制作」は目的と手段の無限循環の中に閉じ込められているが、そこから救い出すのは市場による評価、一般的には「行為と言論」である。つまり、行為と言論によってのみ、言い換えれば公的世界によってのみ、制作に意味が与えられる。そして、「行為」のプロセス性(危険性)を救うのは「行為」そのものであり、それが「赦し」と「約束」である。赦しと約束によって人間関係の時間的連続性が維持される。赦しは過去の行為の不幸な結末を許すことで現在へと人間関係を繋ぐ。約束は人間関係の将来への確信を与える。

・・・赦しの力を発見したのはキリスト教であった。神が人を赦すのではなく、人が人を赦す(愛)。それは「彼等が己の為すことを知らないからである。」行為の不確実性に免じて赦すのである。罪過が人間関係の網の目の中で発展していくのを防ぐには赦しと忘却が必要である。赦しの背景には罰がある。罰(とその可能性)を抜きにして赦しはあり得ない。勿論、罪過を認める事なしには赦しもあり得ない。

・・・約束はアブラハムの行為に由来する。彼は諸国を巡って協定を結ぶ事で多くの紛争を解決し、これが神に認められて、ついに神と契約することになった。以後、本来商人の道具であった契約理論は政治思想の中心となった。人間関係の網の目の不確実性にも関わらず人々が結束できるのは相互約束があるからである。(ニーチェは「約束を為しうる動物」として人間を定義した。)

・・・行為の予測不可能性はこうして人間世界では克服できるように思われるが、近代に至って人間が自然を支配できると信じるようになって、新たな行為の対象として登場したのが「自然」である。自然に条件を指定して自然の成り行きを挑発する、という近代科学の「実験」がその始りであったが、それが制御できなくなると、自然科学は「後戻りの出来ないプロセス」に捉われてしまう危険性がある。こういった近代化に伴う問題は次の第6章のテーマとなる。

・・・この章の最後に、これはハンナ・アレントの信仰告白であろう。以下の文章がある。

・・・なるほど人間は死ななければならない。しかし人間は死ぬために生まれてきたのではない。何か新しいことを始めるために生まれてきたのだ。それは自然科学的に言えば、無限に非蓋然的なことである。そういうある種奇蹟的な出来事が、人間世界では繰り返し起きる。イエスは赦しと奇蹟を同等に扱い、この世的な存在である限りでの人間の可能性と解した。世界の歩みを繰り返しさえぎる奇蹟。それは「出生性」である。キリストは1個の「生れ出ずる者」としてのみ生きている。ギリシャ人にとって、忠誠と信仰は稀であり、希望はむしろ人の目を眩ませる禍であった。しかし、ヘンデルのオラトリオ「メサイア」の次の言葉に簡潔に表現されているのは「我々はこの世に信頼を抱いて良いのだ、この世に希望を持って良いのだ」ということである。
・・「われわれに1人の子供が生れた。」・・
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