190317  2017.03.08の文章である。agency という言葉が何故使われるようになったか、という調査と考察。

      subject は哲学用語として「主観」であり、辞書にはそれしかないが、近代以降では「主体」と訳されることが多い。世界が本当に見えているのかどうかという認識論が主題であった時代から、人間が理性に従って世界を変えていく時代になって、その世界を変えていく主語が「主体」と呼ばれる。初期資本主義の生み出した社会の分断現象から階級闘争という概念が生まれて、そこでも労働者階級の主体性が鼓舞された。マルクス主義的な理論の中には知識人の直接介入できる場所がない為に、生まれたのが実存主義である。自らの直観を糧にして自らの主体を賭して労働者階級に加担する。しかし、労働者階級による資本主義体制の転覆というのは夢想であり、全体主義の一形式に過ぎなかった。2度の世界大戦は理性の生み出した惨劇でもあった。理性的な主体と信じているものはその社会の深層構造によって規制されているという構造主義、精神分析学が生まれた。しかし、深層構造は最初からそこに在るのではなく、歴史的経緯によって構築されてきたものである、ということを綿密な考証によって探り出したのがフーコーである。社会は繰り返し個人に働きかけてその主体を作り上げていく。だから、社会を変革したいのであれば、その事に気づき、主体そのものを問い直さなくてはならない。知の考証学は過去に遡り、主体構築の起源を探る。また、主体に含まれる人格的要素(構築経緯)は一旦抜き去られて、行為の要素だけが残り、ここに agency という概念が生まれた。

      結局の処、主体が構築されたものとして理解されるようになると、それを個人に帰属して良いものかどうか、という話にもなる。まあこれは責任逃れとも聞こえるのであるが、それでも哲学は行動指針でなくてはならないから、個別行為に対する主語として、主体ではなく、agency(行為体)というある意味で抽象的な概念が必要になる。agency は主体と違って、構築による来歴や首尾一貫した人格を概念的には切り離した純粋な行為としてのみの主体である。だから、そこにある種の「自由度=可能性」が生まれる。つまり、Judith Butler が言うように、我々は agency としてならば、我々自身を乗り越えてしまうこともできるだろう。また他方で、Karen Barad が言うように、そもそも agency は直接的に人間である必然性も無いことにもなる。そうなると、この agency という概念は、昔ながらの「八百万の神々」に近いのだろうか?

      意識は脳の指令を後付けするだけである、というリベットによる有名な実験 が、自由意思の問題を科学の問題として提起してしまったのだが、この脳の指令というのも agency と言えるだろう。結局の処結論ははっきりしていないようであるが、少なくとも意識がその脳の指令による身体の動作を察知する時間的余裕がある場合には、それを思いとどまる、という自由を有する、というのが衆目の一致する自由意思の働きということになったように記憶している。

      その時に考えたのだが、本当の処自由意志というのは、そういう脳の指令から行為へと至る部分(個別の行為)には無くて、そのように脳が指令するような訓練をするかどうか、にあるのではないか?それはどうやって可能なのか?と考えると、結局は自らの身体をその訓練の場(特定の環境、書物なども含まれる)に晒す、ということでしかない。しかしこれもまた行為であるから、意識の直接の働きではなくて、脳のより深いレベルでの指令なのだろう。結局の処堂々巡りになって、自由意志の存在には答えが出ないのであるが、逆に言えば、その起源を辿れないということこそ自由意志という意識の正体なのではないだろうか?意識にとって起源を辿れない行為、それは結局のところ習慣であり、その習慣を他者がコントロールすることが洗脳である。フーコーのいう権力による主体の構築とは、この洗脳のことである。だから、その起源を辿ること、つまりフーコーのいう系譜学が必要になる。起源を明らかにすれば、それは自由意志ではない、つまり主体性ではない、ということになり、新たな主体形成へと一歩踏み出すことになる。このような主体概念の可変性を表現するためには、その自由意志の側面を取り出す必要があり、それが agency という概念である。それは、人格とは異なり、絶えず更新される運命にある。

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