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(無題) 投稿者:(り) 投稿日:2014年 3月15日(土)15時01分40秒 |
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「自己矛盾の法則」も生物界における大発見なんだけどなぁ。たぶん。
誰か体系化してくれないかなー
まあ、これも市場原理普遍型モデル構築の産物なんだけどね。
モデル構築の経緯は、例えばスポーツに世界共通のルールがあるように経済活動も
「世界共通の仕組みというか枠組みにのっとって競争をしましょう」という
意識から生まれたものだけど、そういう枠組みを構築する場合
人間が介在する活動である以上、おそらく自然の摂理に近い方が
堅牢だし、より普遍化しやすであろうという理念に基づくものなんだよね。
そんななかから「自己矛盾の法則」も生まれた。
なので、このモデルに従えば将来バラ色という意味ではなくて
あくまで経済構造の統一のためのプリミティブなモデルであるということ。
実用可能だけど比較検証しづらいのがなんとも。。
まあ、問題提起だったんだよね。あれから約10年か。。
↑ここまで、ねこすけBBSより転載↑(6/03 '14)
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6/15 '04
『自己矛盾の法則』(その3) :
パーソナリティの構築と自己矛盾の法則
人間にとっての自己矛盾の法則はどのようなものか?
というこを、パーソナリティの構築という観点からみてみる。
パーソナリティの構築は、自己と他の差別化のこと。当然ながら他人に対して無関心であろう
という意識とは違うし、逆に主体的に他への関心を持たなければ、差別化はできない。
差別化を進めようとすればするほど、他を理解しようとする意識が働くということになる。
これは性差が発生することによって男女が惹かれたり憎悪が生じたりする状況に似ている。
性差が先天的なものであるのに対し、差別化によるパーソナリティの構築は
後天的(相対的に)であり、これは自己矛盾に負うところが大きい。
矛盾したもの同士だからこそ、違いが生ずるのだといえる。
例えば、" ルート-1(あるいは虚数)を理解せよ " といったところで、
人々はそれぞれどう理解するだろうか?
自己矛盾を内包しているがゆえに、差別化という意思がはたらく。
と同時にコミュニケーション能力が発達する。
また、個人が自己の内部に" ルート-1(あるいは虚数) " を理解しようとした時、
実数でしか計れない以上、決してそれを理解できない。いわゆる" 神 "という概念は、
このような内部作業から発生するものだといえる。
" 運命や宿命を感じる " といったことも同じである。
生命体と自己矛盾の法則
前述の花の例え(10/08 '03)を、動物に当てはめるとこのように言える。
「動物は成長するにつれて運動能力が向上し行動範囲が広がる。行動範囲が広がることで
より多くの糧を得ることができ、それは自らの成長をより促すことになる。またそのことで
子孫を増やせる可能性が高まる。しかし、同時にその行動範囲の広がりは自らのリスクを
増大させることにつながるという矛盾が生じる。」
例えば、動物における「食物連鎖」はこの法則に基づくものといえるであろう。
さて、行動範囲が広がり子孫を獲得した後の「老い」と「死」をどのように理解するべきか。
動植物を含めすべての生命体は、この世に生を受けてからエントロピーの増大則によって
成長するが、同じく「老い」もその法則に従う。
(1/11'05修正加筆)
では、自己矛盾の法則に基づけば個体は「老い」や「死」のリスクをどう利用するのか
ということになるが、自らのリスクを増大させることで、子孫の成長を促すことに繋っている。
逆に、仮に個体に「老い」や「死」がなければ子孫を残す必要もなければ、
それらを成長させる必要もないわけで、個体は永遠に自らの獲得したテリトリーを
確保してしていればいい。しかし、現実においてそうではないということは、
「老い」や「死」は種の存続において極めて重要な役割を果たしているわけで、
植物は種子を残したら枯れなければ " ならない " し、動物は子孫を残せば、死を迎えなければ
" ならない "。自らが不安定なっていく状況を内部に取り込むことで、自分の分身ともいえる
子孫の成長をより安定したものにしていく。
生命体は遺伝子の乗り物と理解すれば、個体特有のそれぞれの遺伝子は自身の存続のために
個体の「老い」や「死」という現象を利用しているのだともいえる。
生命体は誕生、成長、老化、死という一連の流れの中で常に自己矛盾の法則に則っている。
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10/16 '03
BBSに記した10月8~9日の内容をこちらに転記します。
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『自己矛盾の法則』(その2) :
相互に反対、矛盾する二つの命題が一つの対象のなかに同時に 存在するという法則。
数式で現せば、" ルート(-χ^2)の解は、「+χと-χが同時に存在する。(+χかつ-χが、一つの解(χ)である。)」 "
物理的に言えば「ルート(-χ^2)の解としての+χと-χは、同時刻、同地点に存在する。」
2次元面が3次元空間的に閉じたものというのは球面だが、球面は必ず表面と裏面が出来る。閉じていなければ必ずしも表裏の区別は必要ないわけで、とすると3次元空間が4次元空間的に閉じたものというのは、そこに必ず表空間と裏空間(すべて符号がマイナスの表空間)ができるということになる。物理的に表空間と裏空間が瞬時に融合して大爆発しないためにはこの二つが全く同じ規模(同じエネルギー)で、同時刻、同地点に存在することが必然となる。
つまり、宇宙が4次元空間的に閉じているという前提のもとでは、自己矛盾の法則は常に存在する。
シュレディンガーの猫のパラドックス
表空間と裏空間が同時刻、同地点に存在するということは、
表空間に生きている猫(プラスの猫)、裏空間に死んでいる猫(マイナスの猫)とわければ、
生きている猫と死んでいる猫は同時刻、同地点に存在すると言いえる。
実際我々は観測つまり、それが表空間であるか裏空間を決定する行為を
選択しなければならないため(住んでいる我々が表空間か裏空間のどちらか
一方の地点にいるため)、矛盾が生じる。
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10/08 '03
BBSに記した8月10日(日)の内容(自己矛盾の法則の概要/エントロピーを使った「種」の観点からの考察)を
そのままこちらに転記します。
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『自己矛盾の法則』 :
自然界における、「エントロピー」の定義を
『 相互作用時の状態変化における安定度数 』とすると、
種(=生命体)は、自然の一部であり、例えば、" 成長 " といった無意識による
不可逆反応にみられるように、それ自身が「エントロピー増大の法則」に則っている一方で、
自己保存、種の保存のために意図的に「エントロピー増大の法則を利用する」
といったような、要するに「エントロピーを減少させる」方向に自己を働かせている。
例えば、" 花がなぜその多くが最も不安定な茎の先端にあるのか? "
というのは、まさに自己矛盾の法則によるものなのですね。
(=意図的にエントロピーを減少させている。)
とすると、
" 朱に交われば赤くなる " 、というようにこれが
「エントロピー増大の法則」を端的に表現しているとすれば情報化が
加速すればするほど、グローバル化はさけられないということになりますが、
一方で、自己矛盾の法則に従えば、「エントロピーを減少させる方向」=民族主義化
が加速するということになります。(笑)
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5/27 '03
『普遍型モデルからの自然の構造』
普遍モデルから、自然の構造を考察してみると、
自然の構造は、
自己保存の法則 →(能力主義)
+
種の保存の法則 →(民衆主義)
+
『自然』 → (自然)
という三角形が「競争原理」によって結ばれる。
※断っておくが、ここでいう「能力主義」は、あくまで " 個々の特異性を尊重する思想 "
ということであり、仕事が出来るとか作業が早いとかいった社会的な意味での優位性を単に肯定することではない。
{ ※『自然』について。
自然の構造が、『自然』という構造を内包するというのは、理論的に矛盾しているわけで、ここには本来自然を記述するなんらかの「法則」がはいるわけであるが、そのなんらかの法則をまだ見い出してはいない。しかも、その法則は「宇宙構造」に深くかかわりのあるものであるとも感じている。直感的には「自己矛盾の法則」のようなものだと思っているが、とりあえずそのなんらかの法則は、「自然を記述する」わけなので、ここでは『自然』としてみた。(5/28 '03追記) }
普遍モデルの中心にある「宗教」( + 信条等)は、その国のアイデンティティーを 示すものであることから、自然の構造の三角形の中心は「種」(+その種のアイデンティティー)。 人間であれば、" 人間という種と人間らしさ "。
また、「種」と各三点をむすぶものは「契約」、つまり" 取り決め事" は具体的に言えば、その種の行動形態や生活様式といった、その種によって形成される「社会構造」といえる。例えば、ミツバチはミツバチによって作られた「社会構造」によって各点と結ばれる。
このように、普遍モデルと自然の構造モデルが無理なく合致できるというのは、 純粋に普遍モデルが機能した場合、自然の理に適ったものなのだろう。(=鉄壁のトライアングル)
(物理に興味のない人はきついかも)
ここまできたら宇宙構造論に立ち入らないわけにはいかない?
幸いにも、4つの力の存在(強い相互作用・弱い相互作用・電磁相互作用・重力)が 示されているし、それぞれの関係もある程度分かっているので、強引に 普遍モデルに入れてみると、
強い相互作用(核力)
+
弱い相互作用(放射能)
+
電磁相互作用(電磁気力)
という三角形になり、それらをむすぶのは「相互作用(力)」。
また、それら三点と最も質がことなるとされる「重力」を中心にして、「重力」から各三点に 「契約」によってむすばれるというモデルを考えてみる。
では、ここから考察できるものはなにか。
以下考察中。(永遠にか?)
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5/17 '03
『市場原理普遍型モデル』
下記のようなながれから、日本型市場原理モデルを普遍的なモデルにする場合(統一論)は、本来の意味での宗教(日本の場合の「伝統」あるいは「情」)というのは、三角形のまん中に位置するということになる、つまり三角形(社会構造)を内側からささえるという構造。三点と「宗教」をむすぶものは「契約」。
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5/13 '03
『日本の社会主義型モデルとの比較。』
日本の社会主義型モデルは、
ブランド主義
+
平等主義
+
日本国(官僚にすれば天皇及び日本国)
という三要素で成り立っている。(成り立っていた。)
これらを結ぶのは「機構」、官僚機構によって三角形が形づくられる。市場原理モデルは、人間(人間も「自然」の一部とみなす)がシステムを支えるのにくらべ、システムがシステムをささえるという構造。文字通りシステマティクな構造といえるし、理論的な美しさがあるとは思う。
このモデルは例えば、「ブランド主義」という点を外に引っぱると、「平等主義」、「日本国」 という点も外に引っ張られることで、三角形が大きくなるという仕組み。
実際の現場では、「点を外に引っぱる( = 競争原理を創出する)」というのは機構であって、三角形の辺であるところの官僚機構によってバランスよく力(競争原理)が配分されることで、この三角形は大きくなっていった。ブランド主義、平等主義が拡大し、日本は富める国になった。また、教育の場での偏差値の導入も機構による競争原理の創出であるが、この時点ですでに機構の力が巨大化している事が、後のシステムの暴走につながった。
戦後、何も無い、つまりブランドもなければ平等でもない(結果の平等という意味)、まして貧困という時代にあっては、このモデルにしたがって日本が国力をつけ、人々が平等に豊かになっていったというのは決して間違ったことではないと思う。
このモデルの問題はこの正三角形が、常に膨張していかなければならないということにある。仮に成長をとめれば、市場原理モデルが恒常的にシステム内で競争原理が働くため、かならずしもその三角形を拡大する必要が無いのと較べ、相対的に国力は落ちてしまう。また、システム自体に「人間」が介在しいていないことにより、理論的には無限に膨張が可能であるにもかかわらず、強引に膨張を続けようとすればするほど、「人間」(官僚を含む)に反動がくるという結果になる。
バブル崩壊をこのモデルで示せば、「日本国」が豊かになり外国の資本がどんどん国内に流入することで、三角形が機構の力をはなれ勝手に肥大してしまったため(「日本国」という頂点が肥大したため)、より多くのひとが、さらなるブランド主義に陥いった結果、最終的に機構では「ブランド主義」も「平等主義」も制御できなくなった。
一方、市場原理モデルの問題点は、システム自体に「人間」が介在していること。なぜなら、人間自体がすでに矛盾しているため、必ずシステム内に矛盾が生じる。(ノート1参照)
逆に、そのためにグローバリズムとナショナリズムがシステム内で共存できるともいえる。我々はこの矛盾と永遠に戦っていかなければならない。
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5/9 '03
『アメリカ型市場原理との比較。』
アメリカ型市場原理は、
「資本主義」(契約された能力主義)
+
「民主主義」(契約された民衆主義)
+
「キリスト教」(宗教/神と悪魔の対立構造)
という三要素で成り立っている。(カッコは日本との比較)
これらを結ぶのは「契約 (+ 競争原理)」であり、アメリカが契約社会であることを物語っている。基本的には競争原理が働くしくみであるが、それは契約上の競争原理ということになる。
「キリスト教」と「自然」の比較。
ともに「畏怖すべきもの」という点では同じであるが、「キリスト教」は" 神と悪魔 " という対立構造から「神」のみを抽出した一神教であり、他方「自然」が、キリスト教での神と悪魔(恵みをもたらすものと災いをもたらすもの)を共に内包している点で、「自然」との相対的な比較においてキリスト教は「契約された宗教」ということができる。また、一神教でありながらその実、神と悪魔との対立構造を社会に創出することで、競争原理を生んでいる。
ちなみに、「日本の伝統文化」の眼目が「自然」(神と悪魔)を志向している(=自然への主体性の排除) という観点から言えば、キリスト教の「聖書」に相当するものであろう。
日本の伝統は" バイブル " であり、和の文化はそのような日本人の宗教的理念に基づくものであれば、日本型市場原理に社会が移行する場合、その重要性はますます増していくということになる。これは、5/6に記した社会的低層での「情」による和の形成を裏付けるものである。つまり、「自分ブランド」による自尊心が強くなればなるほど、協調のためには「情」が重要となるということ。
「契約」が希薄であるという点から、アメリカ型との対比でいえば、三要素を結ぶものは「情(+ 競争原理)」ということができる。どちらが自然派(ベーシック型)であるかといえば、明らかに日本型であるが、市場での有効性は『三要素が潤滑に機能すれば』、ほぼ同じものであろう。
契約という決まり事がないぶん、広角的な視野をもつ社会が出来る反面、だらけた社会になる可能性も否定できないが、人間が純粋に育つ場合、その多くが向上心のない人々になるというのは考えられない。社会的低層の人々が社会に対して卑屈になっていたのは、あまりに強力なブランド主義の旧体制下において抑圧されていたからであって、その多くは純粋に育っている(自分なりに自己を形成している)と私は感じている。
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5/6 '03
『鉄壁のトライアングル。』(鉄壁-自然の摂理に反しないという意味で。)
日本の市場原理主義型モデルをもう少し具体的に解説。
能力主義 → (適切な選択眼をよしとする土壌)
+
民衆主義 → (適切な選択眼を生み育てる土壌)
+
自然 → (適切な選択眼を維持させる土壌)
が、それぞれの" 主要 " な土壌とすると、その三要素を結ぶ「適切な選択眼(をもつ)」という線によって三角形が形づくられるということになる。
「適切な選択眼をもつ」というのは、簡単にいえば「競争原理」のこと。
具体的に言えば、自己と種の保存という2大法則に基づく競争原理によって、三要素は結び付けられているわけで、このような三要素に基づくシステムは、純粋に機能した場合(社会的制約がいっさい無い場合)、おそらくなんら自然の法則に逆らわないシステムなのだろうといえる。
『「民衆主義」の解説。』
簡単に言えば、『個の自立を「社会」(民衆の中)に求める思想』。
この思想を理解するには、自己の形成(アイデンティティーの確立/「自分ブランド」による自尊心の確立)は、「好奇心」という脳からの欲求により、様々な事象を主体的に経験し、その結果を自ら取捨選択することで " のみ " 、なされるという前提にたたなければならない。
確かに、日本の「伝統を引き継ぐ」とか「家柄を存続させる」といったことは、自己の形成は、" 様々な事象を主体的に経験するのみ "ではなく、「(主体的欲求により)型を受動的に経験する」ことでなされるわけで、必ずしもこの前提が正しいわけではない。
(また卑近な例では、戦後、急速な工業化社会に移行した日本は、ノレンを引き継がなかった家長が増大したように、個人主義の萌芽が発達した時期でもあるが、こういう萌芽をもった人々が「会社」なり「職場」を主体的に選択し、その場において「型を受動的に経験する」ことで、自己を形成していった。)
しかし、今日のように個人主義がますます発達し、伝統や家柄、会社への帰属意識が急速に低下している現状をみると、あえてこの前提を選択せざるを得ないといえる。
フリーターの増大は、『会社などの組織下で型を受動的に経験することで、自己を形成していくこと』という旧体制の自己形成システムに疑問をもつ若者が多いということを露呈している。
「この前提を選択せざるを得ない。」ということが、日本人の心の問題を増大させ、社会システム自体がゆらいでいる原因。
そして、このような前提に立てば、自ずとその選択活動において、社会的な意味での成功や失敗、挫折を伴うということになるし、また、そのことを容認せざるを得ないということになる。
他方、「民衆」を理解する場合、その多くの人々は社会的な意味での成功や失敗、挫折を繰り返して「自分ブランド」を構築しているわけで、自己形成のお手本というべき場であるといえる。特に既成プランド重視の旧体制下では、システムからドロップアウトした人間は、いやがおうでも「自分ブランド」を構築せざるを得なかった。何もない(ノーブランドな)わけだから。
私の経験からいわせてもらえば、旧体制下の社会的低層の人々ほど、「俺は俺」という「自分ブランド」によるプライドをもつ人が多かった。それぞれがそれぞれの価値観を構築しているわけで、互いに我がままなともいえるしアクが強い集団ともいえるが、実際その内側にはいると、それぞれのブランドを尊重しあう風土が出来上がってもいた。(全く皮肉としかいいようがないが、「和」の形成、それも「情」による日本的な「和」が作られていた。「御歳暮」や「御中元」による「和」ではなく!)
市場原理のもとでは、旧体制のような社会的地位が重要なのではなく、自己形成がいかになされているかが重要なのであれば、自己形成の場を「民衆」に求めることは妥当といえる。
この二点から、「民衆主義」が成り立っている。生物学的見地(自己と種の保存)からいえば当たり前という思想だが、伝統や宗教的価値観、国や会社といった組織の威信が肥大すると、当たり前が当たり前でなくなるというのが実感ではある。また、組織の前に人間はなんと無力であるのかと思うが、そのような組織(自然の法則を逸脱する組織)はいずれ自然の淘汰システムによって消滅していくのであろうとも思う。(断っておくが脅しではなく、道理をのべたまで。)
個人的な感想を言えば、現場は大変だけれど、いいところだと思う。(とっても!(笑))
" 働く場 " という意味じゃ、どこでも現場だが。
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