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アラビアの街で
ぼくは故郷を捨て、船に乗った。
かつての街での堅苦しい空気、杓子定規な人生観、
享楽と打算だけの大学の仲間たち、
何もかもがぼくの心に合わなかった。
ぼくは自由な空気を吸いたかった。
だからぼくはひとりで船に乗り、アラビアにやって来た。
アラビアの街は何もかも新鮮だった。
景色も違えば、行き交う者たちの衣服も顔も表情も違う。
慣行も風習もだ。
市場の活気も広場の大道芸も
楽師たちの奏でるエキゾチックな響きも
ぼくの心に適った。
酒場に行けば若い娘たちが薄衣の衣装で酒を運んでくれ、
舞台での女たちの踊りも煽情的だ。
ここにはぼくの心を満たす自由な空気がある。
仕事には簡単にありつけるし、金も簡単に稼げる。
難しい顔をして理屈を並べる必要もなければ、
ややこしい帳簿とにらめっこする必要もない。
気ままに金を稼ぎ、好きなように振る舞う。
知らない国でまるで夢の中を歩いているかのようだった。
だが、そんな夢のような気分も少し褪せてきたある日、
夜の酒場で立派な身なりの紳士風情の男が話しかけてきた。
「その発音や表現はどこで身につけたんだ?」
ぼくは素っ気なく答えた。
「国の大学で身についたんだろう。みんなそんな風に喋っていたから。」
すると男はぼくのことをあれこれ聞きただし、
「今いくら貰ってるんだ?週にこのくらいだろう。」
と言って金額を言った。
ぼくが軽くうなずくと男は言った。
「週1回、1回あたりその金額でどうかね。」
ぼくはまだそっけなかった。
「やばい仕事は願い下げなんでね。金を稼ぎたいわけじゃない。」
男は大笑いした。
「やばい仕事じゃない。お堅い仕事だ。ただ教養が要る。でもあんただって金は多いに越したことはないだろう。」
「それはまあそうだ。」
男はぼくの肩を叩いた。
「なら話は簡単。私が執事を務める外交官の家で令嬢の家庭教師をやって欲しい。上品な言葉を教えて欲しい。」
ぼくは怪訝げな顔で聞いた。
「なんでまたぼくなんかに。」
男は肩をすくめて言った。
「この地でそんな言葉が使える母国人はなかなかいない。あんたは流浪者を装っているが教養はあるようだ。
だからだよ。ただ髪は綺麗に整え、髭も剃ってもらわねばならない。私が床屋に連れて行く。」
「服装は?」と聞くと
「それはこちらで用意する。あんたに任せてはどんな格好になるか分からんからな。」
これで話がついた。
準備が整ってその家に行くと、
外交官は居丈高でいけすかなかったし、母親は高慢で厳格。
とても好きにはなれなかった。
だが、娘は純情可憐なうぶな少女だった。
教えてみると素直で頭も良かったし、
給料も良いから悪くない仕事だった。
ただ毎回の授業の後での母親とのお茶の時間は
苦痛以外の何ものでもなかった。
自分を何様と思っているかは知らないが、
授業にはあれこれ注文をつけるし、
自慢話や世間話にゴシップのてんこ盛りで
まったくやれやれだった。
そんなことで多少嫌気が差し、
娘ともそれなりに親しくなったので、
大学で身についた上品な母国語とやらで話されている
隠語や卑猥な言葉を娘に教え込んだ。
だけどそれがバレたもんだから、母親はカンカンで即刻クビだ。
でも、ぼくは不届きなことをしたわけじゃない。
ただ、上品な方々という輩がしゃべっている
生の言葉を教えただけだ。
いかがわしいことをしたわけでもないし、
誘惑したわけでもない。
だけど、そんなことがやつらに通用しないことは
ぼくにも分かっている。
だから、ぼくはまた船に乗って街を出た。
ぼくにとってはそれで良かった。
せいせいしたし、こんなところに根を下ろしたくもない。
ぼくの道がこれから先どうなるかは分からないが、
そんなことはどうでも良い。
また知らない街に行って違う生き方をするだけ。
それがぼくのしょうに合っている。
どこかでのたれ死ぬかもしれないが、
それもどうでもいいことだ。
海のうねりと潮風の香りだけが、ぼくの心に叶っている。
ぼくはただのどうでもいい流浪者、
誰とも共感しない孤独な異邦人。
港が近づいた。
稼いだ金があるからこの街で商売でもするか。
それから酒と女だ。
紳士淑女ぶった輩とはおさらばだから、
何一つ気兼ねすることもない。
明日からぼくの生き方に戻るだけ。
それだけだ。
とはいえ、ぼくはもう夢の中を生きてはいない。
ぼくは現実を生きている。
砂を食むような現実をだ。
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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 第7詩集『架空世界の底で』