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インドの大地で
一つの声をぼくは聞いた。無数の声をぼくは聞いた。
この縹渺たる風の中で、この閉ざされた電子のうねりの中で、この言葉の無い三界の中で。
限りない冥土の原野には無数の虫たちが群がっていた。
大地はゆっくりと宇宙開闢の歌を歌った。
インドラは神酒ソーマを痛飲し、名馬ハリの引く戦車に乗り、マルト神群を従えて、ダーサの城塞を粉砕した。
アグニは闇を除き、悪魔を滅ぼし、稲妻として中空に閃いた。
天空を彩る色彩豊かな星々がゴーゴーと夜空に音を立て始めた時代、
石たちが遊星の表面から転がり始めた時代であった。
シヴァは神秘的な静寂の中に瞑想し、カイラーサ山の頂で世界の創造と破壊を踊った。
虎の皮を腰にまとい、羅刹を退治し、神々に挑戦する阿修羅の三つの城塞を破壊した。
ヴィシュヌは温和と慈愛の神、善を嘉する神であった。
妃ラクシュミーと共に永遠の光に満ちたヴァイクンタに住み、霊鳥ガルダに乗り、
四本の手に武器を携えて、地・空・天を三歩で闊歩した。
けれど太初にはなにもなかったはずなのだ。
波のない無限空間の中で、光が一定の法則に従って輪舞していたはずなのだ。
ただ唯一者が闇に包まれて存在し、ひとり呼吸していたはずなのだ。
唯一者たる者の愚かなる意欲よ、タパスによって生まれ出た者の永劫の苦しみよ。
茎から絞り取った神酒ソーマを祭火に投じ、世界の内側に渦巻くカオスに捧げるがいい。
そして気高い宇宙の沈黙に向かって弔鐘を打ち鳴らすがいい。
そうだ、神々との戦いは遥か彼方の時代から始まっているのだ。
ぼくは扉をたたく者たちの声を聞く。
ぼくはガンガーの流れの中に渦巻く声を聞く。
存在の裏側の斜面で薄っぺらなトキの断片を砕いている者たちよ!
風の中の反乱を引き起こす無数の記号たちよ!
世界の浜辺で戯れている無垢の天使たちよ!
遊星の表面の骨壷の中からは多様性をもった現象世界が立ちのぼり、
車輪によって粉砕された時間は宇宙の底に向かって落下し続けるだろう。
引き裂かれた図形たちの呻き声はどこに結晶したのか?
傷付けられた世界の壁の前で記号たちはどんな響きを発しているのか?
錆びついた鉄の塊は朝日の中で煌々と輝き、色褪せたビルディングは純白の雪の中に埋もれるだろう。
けれど凍り付いた時間の向こうに、青々と燃える金属色の炎の向こうに、ぼくの投げ捨てられた記憶があるのだ。
現在という虚ろなトキを越えて、さざ波のように響く音の障壁を越えて、
占星術師の文字盤の向こうに、荒野の巨石の向こうに、ぼくの涯てしない反抗があるのだ。
遊星の上では鬼神たちと虫たちとの血みどろの戦いが飽くことなく繰り返されてきた。
カンダルヴァの歓喜は闇の中へ葬られた。
シヴァの踊りは遊星の上の光を破壊した。
ラクシュミーの歌は色褪せざるをえなかった。
けれど世界を創造したのは誰であったか。
それは神であったか、それとも創世主であったか、
世界を創造したのは「私」ではなかったのか!
ヤージニャヴァルキヤよ、汝はいったいどの断点から世界を切り裂き、どんな聖句によって時間を静止させたのか。
アートマンはどの業を通ってブラフマンに達したのか。
宇宙はなんという深い霊性の風土の中に浸っていたことだろう。
聖典の叡知はなんという閃光を祭儀の上にきらめかせたことだろう。
けれどこの遊星は熟して熱に浮かされ、人々は軋みあって生きてきたのだ。
モヘンジョ・ダロが廃墟と化した日、どれほどの悲鳴が赤い空を焦がしたことだろう。
バカヴァットの聖句によってパンダヴァの勇者はクルクシェートラを血の海に変え、
かつてクヴェーラ神と戦って、天空を自在にかける戦車を奪い取ったラーヴァナは鬼神ラーマによって葬り去られた。
多数の都市国家が起こり、自由思想が勃興し、森林が切り倒され、畑が潅漑された。
東方の産物、西方の貨幣が流入した。
海を渡る恐れを知らぬ船乗りたち、灼熱の砂漠を何日も旅する商人たち、旱魃に収穫の望みを断たれて農民たち。
婆羅門は祭祀の中心として不動の地位を築き上げ、降雨・豊作を祈願し、病魔を払い、呪術によって万物を支配した。
そして弱肉強食の戦争が果てしなく続き、強力な専制君主国は武力で小国を併呑した。
かつて草原を疾駆した彼らの戦車がどれほどの虐殺とどれほどの略奪を欲しいままにしたか、
それを一遍の詩の中で歌い上げることは並大抵のことではない。
聖仙リシが霊感によって与えた光明は茫漠たる大地で干からびずにはいなかったのだ。
でも遊星の上のちっぽけなさざめきに十億年の彼方の宇宙に潜むあなたのまなざしは届きはしない。
平らな時間の上に滴り落ちる響きはあまりにも不可解だった。
シッダルタよ、けれど世界の壁は突破されねばならなかったのだ。
車輪を止める光が指し示されねばならなかったのだ。
世界でないものの剥き出しの響きがびゅうびゅうと吹き込んでこなくてはならなかったのだ。
光明は爛熟した呻き声をぐつぐつ煮込んだ坩堝の中でカピラヴァストゥに現れた。
それは人類の青春時代でもあった。
東では孔子が、老子が、西ではソクラテスが、プラトンが、
そして遊星の上の様々な表面で無数のソフィスト、諸氏、沙門が、
ロゴスを、タオを、仁を、ニルヴァーナを、ダルマを、ブラフマンを求めた。
人類が踏破への道を探った黎明の時代でもあった。
シャカ族の賢者は愛馬カンタカに乗って別れも告げずに家を出、森で苦行し、菩提樹の下でついに禅定に入った。
奇跡を透視した聖仙アシタよ、捨て去られた麗しきヤショダラよ、乳粥を差し出した愛しきスジャータよ、
教えに耳を傾けたヴァーラーナーシーの行者よ、汝らは祝福されるがいい。
一方、マーラは楽器が天上で鳴り響き、神々の称賛の声が聞かれるとき、軍勢を整えてホトケを目掛けて進軍した。
毒蛇を吐き、火を吹く山を転がし、闇の軍勢の閧の声が三界に響き渡った。
けれど、ボサツの眉間から一条の光明が発し、マーラは敗北する夢を見たのだ。
哀れなるマーラよ、けれど汝が負けたのはただホトケに対してだけであった。
ホトケは法の車輪を回転させ、無量の光を解き放った。
多くの沙門が教えに帰依し、僧伽に帰依した。
ブッダガヤが、シュラーヴァスティーが、ヴァイシャーリーが、クシナガラが光に包まれた。
無明が打ち砕かれ、縁起が明らかにされ、輪廻が終滅させられた。
けれどゴータマに背を向けた沙門シッダルタよ、汝の道もまた正しかった。
一者への道は教えによっては極められなかった。
自己の内に、自己の奥底に潜む声によって生み出されるものの内にのみ道はあった。
そして世界は相も変わらず喧噪と欲望に満ち溢れ、苦しみは炎となって大地を駆け巡った。
聖と俗の戦いもまた繰り返された。
アレキサンダーはカイバル峠を越え、タキシラへ進んだ。
若き天才の偉業はけれどはかなかった。
チャンドラグプタはギリシャ人を一掃し、ヒンドゥークシュを越え、バルチスタンに達した。
アショーカはカリンガで十万人を殺害し、巨大な統一を成し遂げた。
けれど彼は仏教に帰依し、無数の石柱を打ち立て、法勅を刻ませた。
野の中に横たわる岩には今なお彼の理想が結晶している。
サンチーで、サルナートで、ストゥーパが築かれた。
ガンダーラで、マトゥラーで仏頭が刻まれ、寺院が作られた。
広大な大地のいたるところに僧たちの帰依、一者への帰依があった。
アジャンタの石窟では仏頭が何千年も瞑想を続けた。
金色の鳥は永遠の中を飛び続けた。
タキシラではカニシカのもと仏教会議が開かれ、ペシャワールは商都として栄えた。
ブッダの声は北へ、東へと広がっていった。
東方の賢者らは天竺に憧れ、天山を越え、タクラマカンを越え、パミールを越えてやって来た。
法顕が、玄奘がやって来た。
ナーランダでは何万という僧が学んだ。
図書館には数千冊の写本が収まり、ホトケの教えのみならず、芸術、哲学、言語、医学が教えられた。
どれほど溌刺とした学僧たちの議論が戦わされたことだろう。
どれほど熱烈な読経の声が響き渡ったことだろう。
けれど、その高揚した時代の声は廃墟の中に埋もれてしまった。
仏頭は石畳の上に転がり、壁画の鳥は洞窟の中に置き去りにされた。
経典の教えは流砂の中に埋没し、悟りの清妙さは空無の中に飛散してしまった。
アジャンタでは無駄となった努力が化石と化していた。
サンチーでは乾いたレンガの上を風がひゅうひゅう舞っていた。
サルナートでは塔の回りの菩提樹だけが朗らかだった。
今なお五体倒地で礼拝するチベットの僧たち、敬虔な香の薫りが遥かなる時代の余韻をさざめかせるだけだった。
ブトカラでは今なお荒野のただ中に長大な時間がうずくまっていた。
冷たい風の中の、薄曇りの空の下の、忘れ去られたブッダはどこを見てほほ笑んでいるのか、
そして石たちはどんな沈黙で時間のうすを回していったのか。
野の向こうの雪山に輝く夕暮れの微光を受けて、ぼくはトキの空虚を手で探るのだ。
そうだ!ブッダは五百年と言った。
けれどあれからもう五倍の年月が流れ過ぎたのだ。
ぼくたちの道は下り坂になり、古い神々が、インドラが、シヴァが、
亡霊のように立ち現れては遊星の上の巨大な機構を支配している。
カーリーは今なお髑髏の首飾りをして、いけにえを求めている。
そうだ。遊星の上にひしめきあう無数の喘ぎ声を聞くがいい。
今なお殺戮と虐殺と女たちの悲鳴と子供たちの泣き声をいたるところで耳にすることができる。
人生の内に閉じ込められ、世界のフラスコの中で犠牲となった尊い生き物たちよ。
彼らにできることは祭壇の回りを跳びはねることだけ、干からびた文字を砂の上に並べることだけなのだ。
かつて僧院に響き渡った読経の声はどの空に霧散したのか。
かつて経典に刻まれた叡知はどの時間の中に燃え尽きたのか。
ぼくはインドの大地を踏み締め、人々のひしめく喧噪の街を歩き、
死に絶えた神々に祈りを捧げ、世界の壁に描かれた光の文字を読んだ。
ガンガーでの沐浴に一生の願いを託し、リンガの回りに麗しい花束を投げ掛ける脅えた生き物たちよ。
行者たちの虚ろなまなざしをぼくは見過ごし、街の商人たちの間をすりぬけた。
混乱の国、そして色彩の豊かな国。
かつて異国の軍隊がこの大地を踏みにじり、かつて一人の裸の聖者が非暴力で独立を勝ち取った。
世界に喚き散らした詩人はガンガーのほとりで死体を焼いた。
ちっぽけな、ちっぽけな、ちっぽけな石たちの声よ。
ダルマの消えた海で怪鳥ガルダが虚空の中を飛び回っている。
渦巻く時間がぼくの相念を泡立たせている。
歴史の苦味が大地に染み込んでいるのだ。
ああ、アシュバッタの木は永遠であった。
人々がよりどころとするプラーナの胎動によって生まれ出た世界よ。
鏡の中に映る像のように自己の中に見られる巨大な歴史の渦よ。
けれどトキは完結してはいないのだ!
そして遊星の上での生起はただ引き起こされたというだけなのだ!
エメラルド色の海の底に沈澱した石たちの声、星座の隙間で光を放つ鬼神たちの踊り、
かつてフラスコを振って神が与えた法則を今はさそりたちや蛇たちが食い荒らしている。
大地の叫びが荒れた野に亀裂を走らせ、跳びはねている生き物たちは水辺の泥の中から空を仰いでいるのだ。
朗々たる日の光の下のモヘンジョ・ダロの廃墟で、野のただ中のブトカラで、シルカップで、ビール・マウントで、
アジャンタで、タクティ・バイで、ぼくは知らない神に祈りを捧げ、古びた聖典の文字たちを拾いあげた。
けれど存在の深奥では今なお未知なるものが無気味に光り続けている。
世界の壁は遊星の表面にへばり付いているだけのぼくたちにはあまりにも重々しい。
かつて無の領域に意識の波動を投げ入れた何ものでもないものたちよ、
おまえたちの狂気が生み出した荒れ騒ぐ宇宙に、ゴーゴーという存在の断片の流れの中に、
いけにえとなった者たちの墓標を打ち立てるがいい、世界の終わりの日には、きっと。
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向殿充浩 (こうでんみつひろ) / 第7詩集『架空世界の底で』