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【向殿家と熊野筆】

広島県熊野町にある向殿の本家の庭には、一つの石碑が立っています。子供の頃からあるなじみのものでしたが、何が書いてあるのかはまったく知りませんでしたし、知ろうともしませんでした。

しかし、最近、広島県熊野町立図書館のホームページで、この石碑が熊野筆の由来に関するものであり、向殿家と熊野筆のかかわりについて述べていることを知りました。ここで紹介したいと思います。

(熊野町立図書館ホームページ)

関連ページ1(198710月発行 熊野町史 通史編〜第7章 熊野の筆 第1節 筆の歴史と熊野)

関連ページ2(195402月発行 筆の町 熊野誌〜41熊野筆の由来と毛筆功労者)

関連ページ3(198702月発行 熊野の歴史(研究ノート・第5号)〜04資料B熊野筆に関する資料)

向殿の本家に立つ石碑(毛筆元祖佐々木為次先生碑)は、向殿嘉右ヱ門(こうでん かえもん)が建立したものだそうです。

向殿嘉右ヱ門は私の曽祖父にあたりますが、この石碑は、毛筆元祖 佑々木為次について述べています。向殿嘉右ヱ門は佑々木為次の門人であり、昭和6年(1931年)にこの碑を建立したと刻まれています。

石碑の碑文によれば、佑々木為次は、文政5年(1821年)、向殿本家もある熊野の城之堀地区に生まれました。天保5年(1834年)、13才の時に、毛筆製造技術を修得するため有馬に行きます。天保9年(1838年)、17歳の時に帰郷して村民に技術を教え広め、明治7年(1874年)に63歳で没しています。

上で紹介した熊野町のホームページによれば、熊野筆の由来については、別の石碑もあるそうです。

それは、昭和22年(1947年)に、熊野町商工会が建立したものですが、なぜか、向殿本家にある石碑の内容には触れられておらず、別の熊野筆の由来が述べられています。

この石碑によれば、弘化の頃(18441848年)、井上治平や乙丸常太が筆の製法を習って村に伝えたとあります。

向殿本家の石碑に刻まれた佑々木為次の方が数年早いことになりますので、佑々木為次を隠れた先駆者なのかもしれません。

また、向殿本家の「毛筆元祖佐々木為次先生碑」のそばに同じく向殿嘉右衛門が建てた芳名碑があり、その中に、熊野筆の問屋元祖として向殿四良兵衛の名が刻まれているそうです。四良兵衛は屋号「池田」 と称した明治初期にあった熊野最初の筆問屋だそうです。

また、向殿家の橙の墓には、「福本屋」という屋号が刻まれており、これも筆に関係しているのかもしれません。

尚、石碑を建立した向殿嘉右ヱ門が生きていた頃には、向殿家はそれなりに羽振りが良かったらしいのですが、向殿嘉右ヱ門が亡くなったとき、妾が金を持って逃げ、借金の証文だけが残って、向殿家はずいぶん貧乏になったそうです。

2014年掲載 / 201910月改訂)

 


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