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向殿家の由来などについて、両親から聞いた話などに基づいてまとめてみました。
但し、裏付けのない部分、私が勝手な推論で書いたものも含まれていますので、ご容赦ください。
向殿の本家は、熊野筆で有名な広島県熊野町にあり、広島藩(安芸藩)浅野家の武士であったと聞いています。本家のつくりなどから見て、下級武士だったと思います。
熊野という地名ですが、浅野家が紀伊和歌山藩(紀州藩)から広島藩に加増移封(1619年)されたときに、紀州から現在の熊野町に移り住んだ者たちが故郷を偲んで、故郷と同じ「熊野」という名を付けたと聞いています。但し、熊野町のホームページなどを見てもそのような由来は述べられていませんし、熊野町立図書館のページなどを見ると、もっと前の時代から熊野と呼ばれていたように書かれています。
浅野家についてですが、織田信長の家臣だった浅野長政(1547-1611)が、織田信長の死後、豊臣秀吉につかえて五奉行筆頭となりました。関ヶ原の戦い(1600年)では徳川家康に組し、この戦いでの功績により、長男の浅野幸長(1576-1613)が紀伊国和歌山37万石を与えられました。
一方、関ヶ原の戦い後、広島には、福島正則(1561-1624)が49万8,200石で封じられましたが、1619年、広島城の無断修理を武家諸法度違反として問われ、信濃4万5,000石に減封・転封されます。その広島藩に入ったのが、紀伊国の浅野家(当時の藩主は浅野長晟)で、安芸広島藩42万6000石となりました。
向殿家がいつの時点から浅野家に仕えていたかは分かりませんが、熊野町にある向殿の本家には、戦前は、立派な槍が広間に飾ってあり、家系図もあったそうです。ただ、その槍は、第二次世界大戦時の鉄の供出に充てられたそうで、今はありません。近所の人たちみんなが知る場所に飾ってあったので、出さないわけにいかなかったそうです。
熊野については、盆踊りが特別だという話を母から聞いたことがあります。普通の盆踊りは、女子供も踊りますが、熊野の盆踊りは、男性だけが、羽織袴に下駄をはいて、提灯を持って踊るのだそうです。小学校の校庭で、そんな盆踊りが行なわれていたと母が言っていました。熊野町立図書館のホームページに、8月15日に男だけが踊る「神楽おどり」のことが載っており、母が言っていたのはこのことのようにも思います。
最近有名になった熊野筆との向殿家のかかわりもあるのですが、それは別のページで述べさせていただきたいと思います。
尚、「向殿」の読み方ですが、江戸時代には、「こうでん」ではなく、「むかいどの」と言っていたと聞いています。明治維新のとき、「むかいどの」では長ったらしくて読みにくいので、「こうでん」に変えたということです。個人的には、「むかいどの」の方がなんとなく良いような気がしますが。
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