鎌倉七口-亀ヶ谷坂切通・・・・その3

亀ヶ谷坂の深い切通道(扇ガ谷側)

上の写真の付近では、切通しの両側の壁が垂直に近い傾斜で狭まっていて、朝比奈切通のような景観となっています。外灯や電柱、落石防止用のガードなどが、じゃま物ではありますが、通行人の安全のためには、あってもしかたのないものなのでしょう。
さて、亀ヶ谷坂切通も切通し頂部(峠部)から扇ガ谷側に約200メートルほども下ればもう終わりです。左の写真はその切通し部が終わる付近のものです。ここから先は扇ガ谷の宅地中を道は進んで行きます。

切通し道が終わる付近の左手(峠側からみて)の隧道状の中は、現在マンションが建っていますが、この辺り一帯は勝縁寺(坂中山正円寺、坂中観音堂などとも称されている)という寺院があった谷なのです。現在では寺院跡を伝えるものは何も無いようですが、勝縁寺は北条氏が創建した寺で弁財天を祀っていたという伝承もあるようです。しかし実際のところは宗派、開基、開山、創建や廃絶時期等といずれも不詳なのですが、文献などから鎌倉時代末期には存在していた寺院だといいます。

右の写真は住宅地内を進む亀ヶ谷坂切通の道です。岩船地蔵堂前まではどこにでもある普通の住宅街の風景です。

左の写真は切通し道を振り向いて撮影したものです。この写真の右側に文字が書かれた石柱が立っているのがわかります。石柱には「田中智学師子王文庫跡」とあります。田中智学氏は日蓮宗のお坊さんで、この地に別荘を持ち、偉い布教家でおられたようです。大正9年に宣教の資金を得るために、別荘を売り、その別荘を利用した旅館が「香風園」なのです。香風園の付近(勝縁寺谷)は鉱泉が湧くところであって、香風園ができる以前には「米新温泉浴場」という風呂屋もあったといい、香風園もその鉱泉を利用した旅館なのです。

右の写真は上の写真より更に坂を下りて振り向いて撮影したものです。ちょうど写真の付近から坂の傾斜が急になっています。

最近の鎌倉研究の資料には源頼朝が入部する以前の鎌倉は、海岸線付近に古東海道の道が東西に通り、その北側にも別の東西方向の道(源家の館であった寿福寺前から鶴岡八幡宮の前を通る道で後の六浦道にあたる)があったと考えられいるようです。この2本の東西方向の道を結ぶ南北方向の道があり、その南北方向の道はさらに北へ抜けて、武蔵国方面へ通じていたと考えられています。その南北に通じた道が亀ヶ谷坂切通を越えていたとする説もあるのです。

このように亀ヶ谷坂切通は、鎌倉に幕府が置かれる以前からの古い道が通っていた可能性が指摘されているのですが、実際、現在も残るこの切通しの坂道が、その古い時代からのものなのかということは、これからの研究の課題なのです。一方では、先にも書きましたが、中世の文献資料から亀ヶ谷坂そのものを記述したものが見あたらないことなどから、この切通し道が鎌倉時代まで遡れるものかもはっきりしていないのです。

左の写真の道の先、後方の山は源氏山です。亀ヶ谷坂切通を下りてきた道は源氏山をめざしているようにも思われます。

亀ヶ谷坂切通道が源頼朝の鎌倉入り以前の道と考えられるのは、その方向性と地理的位置関係などにあると思われます。ホームページ作者は「鎌倉の古道物語」のページを作り始めてから、幾度も鎌倉を訪れていて、源家の館(現在の寿福寺)から山ノ内・北鎌倉方面へ通じていたらしい道の痕跡が、亀ヶ谷坂切通道以外にも数ヶ所あることを確認しています。『吾妻鏡』に度々登場する謎の道である「武蔵大路」も、或いはこの推定の道路痕跡にあたるかも知れない(定説では武蔵大路は化粧坂を通る鎌倉街道上道)と想像したりしているのです。

右の写真および、下の写真は閑静な住宅地の中を通る亀ヶ谷坂切通から下りてきた道を撮影したものです。

扇ガ谷から山ノ内へ通じる道路痕跡で、亀ヶ谷坂切通道以外のものを2つばかり紹介します。一つは扇ガ谷の海蔵寺手前から右に折れる新清涼寺谷と呼ばれる谷を詰めて行き尾根を越え、山ノ内浄智寺のある谷へ出る道です。この尾根越えのところには道の切通しを思わせる大きな堀切が存在しています。この道路痕跡ルートの東側尾根の東谷(現在のJR横須賀線トンネルのある谷)は尾藤ヶ谷と呼ばれ、北条義時の家令尾藤景綱の邸跡があったと伝わるところで、近年遺跡調査により宝鏡寺跡と考えられる遺構などが発見されています。

また、もう一つは海蔵寺境内奥の大堀切(蛇居ヶ谷切通)を越え、現在のJR北鎌倉駅付近に下りる道路痕跡です。海蔵寺奥の大堀切は、謎の堀割として以前から知られていて、大掘切の北側には瓜ヶ谷のやぐら群が存在しています。この二つの道路痕跡は「葛原ヶ岡ハイキングコース」で詳しく紹介しますので、ここでは道路痕跡の存在だけを伝えておきます。

山ノ内には古くは首藤氏が山ノ内荘の荘官として平安末期に居住していたと推測されています。また、古代における役所職員(政所)などの有力な家の内部事務を統べる「知家事(ちけじ)」の官舎も山ノ内にあったともいわれ、これらの事柄は扇ガ谷(亀谷)から山ノ内への道が古代から存在していた可能性をうかがわせるのです。

右の写真は亀ヶ谷坂切通から扇ガ谷へ下りてきた道の途中から右手に折れ、その少し先にある薬王寺の境内を撮影したものです。薬王寺は元は夜光寺という真言宗の寺であったのを、永仁元年(1293)に日像上人により日蓮宗に改宗されています。本堂の手前右手には、徳川家光の弟である忠長の供養塔があります。忠長は家光に領地を没収され自刃しています。供養塔は忠長の奥方である松孝院が建てたものです。また、本堂裏の墓地には四国松山城主蒲生忠知の奥方と息女の墓である宝篋印塔があります。本堂中央には日蓮大聖人尊像があり、ほか多くの寺宝がある寺です。境内墓地からは鎌倉の市街方面をみわたせます。

亀ヶ谷坂切通道を下ってきてT字路に接した角には左の写真および下の写真の岩船地蔵堂が建っています。近年、新たに立て替えられた花頭窓をもつ八角円堂です。岩船地蔵堂前のT字路付近は『吾妻鏡』に見られる「亀ヶ谷辻」であると、おおかたの研究者の意見が一致しています。建長3年(1251)12月3日条に、鎌倉中の小町屋として定め置かれる所として「亀谷辻」の名前が書かれています。『吾妻鏡』には一方では「武蔵大路下」というのが見られ亀谷辻と武蔵大路下は同位置場所と考えられています。

武蔵大路下は、延応元年(1239)12月29日条に、武蔵大路下の佐々木隠岐入道家以下数十字が焼失したという内容のものがあり。佐々木入道は佐々木定綱の甥の泰清で、亀谷に住居があったと考えられています。また、文永2年(1265)3月5日条に、「鎌倉中散在の町屋等を止められ九箇所を免さる。」という記事があり、その「町御免所」の一つに「武蔵大路下」の名があります。先の建長3年の小町屋の記事と照らし合わせてみると亀谷辻そのものの名前は無くなっていますが、武蔵大路下が同位置の場所の可能性が指摘されているのです。

以上、文献を引用してみましたが、これらをまとめてみると、鎌倉時代に亀谷辻という商業を営むことができる場所があり、その場所が、ここ岩船地蔵堂がある付近であって、またその場所は武蔵大路という鎌倉から武蔵国への主要道路沿いでもあったということです。ですから亀谷辻は当時は大変賑やかな場所であって、現在の首都東京の新宿、渋谷、池袋のようなところだったのです。中世鎌倉の古道研究として「亀谷辻」はキーポイントの一つとして挙げられるのです。

岩船地蔵堂と亀ヶ谷坂への入口

岩船地蔵堂
岩船地蔵堂は、古くから源頼朝の長女である大姫の遺体が葬られたお堂であると伝えられてきています。堂奥には岩石造りで舟形光背をもつ地蔵像があり岩船地蔵堂の名の由来になっています。新たに再建されたお堂前の説明版には、木造地蔵尊(前立像か)の胎内の銘札に『大日本国相陽鎌倉扇谷村岩船之地蔵菩薩者當時大将軍右大臣頼朝公御息女之守本尊也』との記述があることが書かれています。

さて、この岩船地蔵堂なのですが、別説として大姫ではなく頼朝の次女の乙姫を埋葬したものではないかとする説もあるのです。乙姫も大姫と同じように若くして(14歳であったという)亡くなり、亀谷の中原親能の墳墓堂(亀谷堂)の傍らに葬られたと伝えられていて、その墳墓堂が現在の岩船地蔵堂ではないかとするものです。

話を大姫に戻します。鎌倉の源頼朝と信濃の木曽義仲が対立していたときに、義仲は頼朝に謀反した志太先生義広と新宮行家を引き渡すように勧められていましたが、その代償として嫡男の義高(志水冠者)を人質として鎌倉へさしだしました。そのとき義高はまだ11歳でした。頼朝は娘の大姫に義高を婿としてむかえました。この大姫と義高は大変に仲が良かったのですが、木曽義仲が近江粟津で討たれた後、頼朝は義高を生かしておいては後の厄のもとと考え殺すことにしたのですが、その計画をいち早く知った大姫は義高をしそかに鎌倉から逃すのでした。義高は鎌倉街道上道を北関東へと逃走しますが、とうとう追ってに武蔵国入間川(現在の埼玉県狭山市)で捉えられ討たれてしまいました。それを知った大姫は深く悲しみ、病弱の身になってしまいます。幼い大姫にとって、その婿である義高を死に追いやったのが実の父であることは大変にショックなことだったのでしょう。「その後、頼朝と妻政子は娘の心を晴らそうと、大姫に後鳥羽天皇の中宮として入内させようとするのですが、大姫自身は拒否するのでした。それから大姫の病はさらに重くなり、ついに20余年の生涯を閉じてしまったのです。

志水冠者源義高の終焉の地は鎌倉街道上道(埼玉編)で詳しく紹介しています。そちらをご覧ください。
鎌倉街道上道(埼玉編)狭山市内・清水八幡・影隠地蔵

さて、亀ヶ谷坂切通の説明も岩船地蔵堂前で終わりです。左の写真は地蔵堂前で切通しからの道がT字で接続した武蔵大路と推定される道です。武蔵大路はこの先をしばらく海蔵寺へ向かって直進して行き、梅ヶ谷と呼ばれる谷のところで左に折れ、その先は化粧坂を上り、梶原谷へ下り、鎌倉街道上道として北関東へ向かいます。志水冠者源義高もまた或いはこのルートで入間川まで逃れていったのかもしれません。

鎌倉七口-亀ヶ谷坂切通     1. 2. 3.