道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆◆ 所沢・小手指原  ◆◆◆◆◆◆◆

小手指原

小手指原(こてさしがはら)は所沢市北野の台地にあり、現在は桑や茶畑が広がり、のどかな田園風景があるところです。小手指原は元弘3年(1333)に鎌倉を目指す新田義貞軍とそれを迎え討つ鎌倉幕府軍が最初に衝突した古戦場と伝えています。また街道の要衝であることから、ここではその後も幾度か戦場地となっています。古戦場碑の北側には埋蔵文化財調査センターがあり、この辺りは古い時代からの遺跡も多く、発掘調査が行われてきているようです。

小手指原古戦場碑と後方の白旗塚

小手指原古戦場碑がある前の道は鎌倉街道上道の支道のひとつです。都内の東村山市から西武遊園地の前を通り、所沢市山口を抜け北野神社からここへ至っているルートです。この道は最終的にはどこへ向かっているのかはっきりしませんが、ここから北の入間市方面には鎌倉時代に活躍した村山党金子氏や丹党加治氏などの武士の本拠地があることから、これらの武士団が利用した道なのではないかと思われます。ところで「小手指原」の地は広範囲で合戦の行われたところも詳しくはわかっておらず、現在では白旗塚付近が合戦場地と想定されていて、ここには小手指原古戦場碑が建てられています。

小手指原古戦場碑と鎌倉街道

小手指原古戦場碑

小手指原は前述のとおり、元弘3年(1333)に鎌倉を目指す新田義貞軍と鎌倉幕府軍が最初に衝突した古戦場地です。上野国新田荘の生品明神で旗挙げした新田軍は、大館、堀口、岩松、里見、脇屋、江田、桃井氏を中心に僅か百五十騎ほどでしたが、その日の夕方には越後より二千騎の新田一族が合流します。利根川を渡る頃には越後、甲斐、信濃の源氏達五千騎が馳せ参じて、9日に武藏国に入り、その後も関東各地から兵が集まってきて二十万七千騎になっていたと『太平記』に記されています。一方の鎌倉方では金沢貞将が五万騎をつれて東方より新田軍の背後に廻り、桜田貞国を大将とする六万騎は鎌倉街道上道を入間川へと向かっていました。そして11日の朝からこの地で両軍は合戦となったのです。

小手指原古戦場碑

小手指原は『太平記』によるとその後の正平7年(1352)にも義貞の子、新田義興・義宗と従兄弟の脇屋義治等が、鎌倉に居た足利尊氏と争った南北朝武蔵野合戦が行われたところでもあります。

誓詞橋

誓詞橋(せいしがはし)は新田義貞が所属した軍兵に忠誠を誓わせたところと伝えられています。現在は国道463号線が通り、橋は小さく、注意して見ないと見落としてしまいそうです。また国道の信号は5差路になっていて、小手指原から下りて来た角に誓詞橋の石碑があります。

誓詞橋前の石碑

誓詞橋から旧街道を少し北に行ったところに二股の分岐があり、その角に石橋二箇所供養塔が立っています。道標を兼ねた供養塔で、″右川越・左青梅″と刻まれています。旧街道はそのまま表面右側の広い道ということになっているようですが、左に分岐した道はその少し先で三本の道に分かれています。その分かれた一番北側の道は小谷田街道といい鎌倉街道の伝承の残る道です。この道は拡張され車道化した右の旧街道よりも古道の面影を残す道で、入間市藤沢に入り加治丘陵から小谷田方面に通じています。加治丘陵の斜面には奈良時代の瓦窯跡群などがあります。更にその先の入間川を渡ったところに元加治の円照寺があります。

誓詞橋を北に少し行った所の石橋供養塔と分岐

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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