道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 日高・女影氏館跡付近  ◆◆◆◆◆◆

女影の霞野神社前から西に行く道があります。この道は諏訪橋のところから分かれてきた道と直ぐに合流し、その先は南寄りに進路を向けて行きます。やがてその先で日本的な農村故郷のような、のどかで懐かしさが感じられる集落が現れます。そしてその辺りが女影氏の館のあったところといわれています。更にその先には寺跡があり、そこには不思議な言い伝えのある板碑がありました。

霞野神社前から女影氏館跡方面に向かう道

女影氏館跡

女影氏館跡付近の道路沿いに館跡地と伝えられる民家があります。その民家の姓名は武蔵七党の姓氏にあるそうで、このことから女影氏も武蔵七党の中から出たものと考えられているそうです。この辺りの地名を上の条といい「上の城」から転化したのではないかといわれています。この先の竹ノ内に対して上館の意味だそうです。又館跡地と伝えられる民家には空壕と土塁の一部が残っているそうです。

女影氏館跡付近

ところで女影(おなかげ)という地名ですが、変わった地名もあるものだと思っていました。この地名には何か伝承があるのではないかとも感じていました。ある時、図書館で『新編武蔵風土紀行』をペラペラ見ていると女影の項があり、そこに地名の由来として次のように書かれていました。
「略・村内に千丈ヶ池と伝地ありて、往古せんと伝ひし女此池に身を投て死せしが、その後彼女の影時として池中にあらはれしかば、土人これを女影と呼びしより、村名も起こりしといへり、最妄誕の説なることは歯牙を待ずして知られなり・・・」
面白い話ですが、少しがっかりもしました。そしてその千丈ヶ池(仙女ヶ池)は実在しています。村の西外れの森の中にあり釣り人が竿をたれていました。

女影氏館跡付近の茶畑(竹ノ内)

『吾妻鏡』の承久の乱の条に、宇治橋合戦の時に北条義時に従軍した女影太郎と同十郎は負傷し、弟四郎は戦死したことが記されています。

下の写真の板碑が立つところは清泉寺というお寺の跡地で、板碑のあるところはお寺の池の中島であったそうです。清泉寺は後に廃寺となり、残された板碑は一時近くの川の橋材に使用されていたそうですが、怪奇な事が起こったので元のこの場所に戻したそうです。今は表面は摩耗して刻まれていた文字はほとんど判読出来ません。清泉寺も女影氏関連の寺でこの辺りは竹の内といい「館の内」から転化したのではないかといわれているそうです。

清泉寺跡の表面が磨滅した板碑

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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